垂涎三尺
『必読』
恋というには烏滸がましい、不謹慎な話です。
自慢というほどではないが、対人関係の立ち回りはうまい方だった。その類で苦労した事など、覚えている限り一つもない。今だって、なかなか稼げる仕事(アルバイト)を回してくれる友人の恩恵により、定職に就く事なくフリーターでのらりくらりと生計を立てている。
上司や先輩、得意先に保護者、客にへこへこと頭を下げて思ってもいないおべんちゃらと謝罪を口から吐き出す社畜に成り下がるなど、考えただけでもゾッとしない。そんなものクソくらえだ。今のところ生活に困ってはいないし、金が足りなくなったらまた日雇いのバイトを回してもらえばいい。
女はバイト先や街角で適当に声をかければ、それこそ股を安売りするバカはいくらでも釣れる。ベトベトのグロスを唇に纏い、化粧品という名の化学物質を顔面に塗りたくったリアルモンスター。キツイ香水の匂いは嫌いではないし、むしろ好きな部類に入る。自分は安い女だとアピールしてくれていて、実に解りやすくて都合が良いからだ。
仁美月都(ひとみつきと)はそんな事をぐるぐると考えながら、取り出した煙草を口に銜えると、そのソフトケースをぐしゃりと握り潰した。それから何の気無しにそれをデニムのカーゴパンツのポケットへと突っ込む。パトリックのスニーカーの踵を潰して履いているからか、歩くたびにガッコガッコと間抜けな音が響いたが、この音を存外に月都は気に入っていた。
駅近くの商店街は少し賑わっており、中学生やら高校生やらが学校帰りにぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら寄り道をしている。懐かしい、俺もそんな時期あったなぁやべぇチョー懐かしい。などと考えながら、月都は自嘲気味に歪な笑みを浮かべた。
青春時代(あのころ)はまだ、マシな性格をしてたのかもしれない。どこをどー間違ってこんなんなっちゃのかね。人間の進化って怖いわ。あ、退化か。人生諦めが肝心ヨ。セーショーネン。
駅ビルのセールで買った、グレーのジャケットの右ポケットから百円ライターを取り出し、月都はようやく口に銜えていた煙草に火をつけた。それから深く息を吸い込んで紫煙を吐く。夕飯の買い出しがてら少し趣向を変えて遠出をしたはいいものの、月都はすぐに飽きてしまった。スーパーで材料を買って家に帰って作るとなると、かなり面倒臭い。もう適当に弁当かおにぎりでも買って帰るか。
そんなことを考え出した矢先、懐かしい建物が目に入った。高校の時は友人やカノジョと良く訪れたものだ。ここ最近はめっきりご無沙汰である。自動ドアをくぐれば流行の音楽が流れ、独特のやかましいゲーム音が鳴り響く。耳を塞ぎたくなるようなこの雑音はゲームセンターならではだ。中に入ってすぐ、正面にどどんと構えられたUFОキャッチャーが目の前に広がった。
どうやらキャンペーン中らしく、中に敷き詰められている猫のぬいぐるみは成程最近よく見かける。現に今も現在進行形で中学生らしき少女がチャレンジしていた。アームがゆるゆると横に移動し、グググと広がる。ひどく緩慢な動きで猫のぬいぐるみの首元を掴むと、それは少し持ち上がったかと思えばひきずる形でずるずると横に移動し、景品口の手前でポロリとぬいぐるみを放してしまった。
おしい。少女は可愛らしいキャラクターものの財布を開き何やら小銭を確認しているようだった。確かにあと百円入れて、アームの先でちょんと押すだけで取れそうだ。けれど小銭が足りなかったらしく、ぱたぱたと可愛らしい音をたてて両替機まで走って行く。あらら。月都はぼんやりとそれを見届けて、それからゆったりとそのUFОキャッチャーに近づいた。
ごそごそとポケットを探れば百円玉と錆びた十円玉、それから一円玉がじゃらじゃらと出てくる。それから比較的古めかしい百円玉を一枚つまむと機械に投入した。チャリンという音の後に手元にあるABCのボタンが光る。煙草をふかしながら右手でAのボタンを叩くように押すと、カチリと少し動いただけでそれは止まった。そしてそのままBのボタンを押し、縦に移動させる。
Cは高さを調節するボタンらしいが必要ないだろうと考え、そのまま押さないでアームが下がっていく、どこかくたびれた動きを見届ける。ウィンウィンと機械音を奏でてアームが開き、ぬいぐるみの首部分にアームが引っかかる。そして閉じると同時にそれを押しだす形で、ぽすんとそのぬいぐるみが景品出口から出てきた。
月都はそこから猫のぬいぐるみを興味なさげに掴み取るとゲームセンターの出口に向かった。何となく背後に視界をやれば、少女が両替から戻ってきたらしく、しょんぼりと項垂れていた。月都は笑った。
ゆるゆるのアームに運命を委ねられる、哀れなオレンジ色をした猫のぬいぐるみ。赤いリボンが巻かれた黒のシルクハットを被っている。首には金色の鈴がついていた。トンビのように、誰かが欲しいと望むものを横から掠め取るのがすきだ。そうして絶望に歪む顔は酷く滑稽でたまらない。
ねぇ今どんな気分なんだい? 酔ったみたいに明るく高らかにそう問うてやりたい。最高の笑みをはりつけたまま。首輪部分に指を突っ込んで、ぶんぶんとそれを回転させながら街からいち抜けた。
ちょうど一駅分の距離。そこはイワユル高級住宅街だった。白く清潔な家の外観に大きな門。堀の向こうの広い庭。白い雪のようなニワトコにアリウムやらサクラソウやら。ゴリッパなこって。月都は卑屈に表情を歪ませると紫煙を吐いた。そしてそのまま短くなった煙草をポイ捨てる。お綺麗なこの場所を汚したいと思ったのか、それとも庶民感覚ゆえのちっぽけな反抗心か。
もう一本吸うかと、ポケットにあるソフトケースの煙草を取り出そうと手を這わせたところで、ジャケットの裾がぐんと下にひっぱられた。
「うおっ!?」
思わずつんのめりそうになって慌てて足で踏ん張る。一体何だというのだ。その力がした方向へと視線を向ければ、これまたこの高級住宅地にふさわしい、小奇麗な美少女がこちらを見上げていた。小学生くらいの小さな子ども。
カラーリングとは一切無縁そうな黒髪、それと同じ色の瞳。不純物よけの睫毛は人形のように長く多い。瞬きのたびにバサバサと音がなってしまうのではないかと思うくらいだ。肌は白磁のように白く、ほんのり桃色のほっぺたと唇はみずみずしい果実のようだった。精巧な人形のような美少女だ。
清潔な白いブラウスの首元には、ピンクリボンがちょうちょ結びに結ばれている。下はふわふわのピンクのスカート。これまたお決まりの、それこそピアノの発表会を今しがた終えましたみたいな服装だ。おまけに白い靴下に高価そうなぴっかぴかな黒の革靴ときたもんだ。何という良家のお嬢様のテンプレの服装。
「ゴミのポイ捨てはだめですの」
「……へ?」
「むう、ちゃんと聞いて下さい。煙草のポイ捨てはだめですの。ちゃんとゴミ箱に捨てるか、ケースにしまうかして下さい」
桜色の愛らしい唇とミルクのような歯から紡がれた音は、その見た目を裏切らず愛らしいソプラノ。どこかの合唱団にいてもおかしくない、むしろエースを担っていても納得出来るほどの美貌と声の持ち主だ。
「……つか、ですのって……」
くすくすと笑いがこみあげてきた。完璧すぎる少女は、ものの数秒で完璧ではないとカミングアウトしてくれた。口癖がですのって、初めて聞きましたの。とんだ変わり者のお嬢ちゃんだ。
「知らない人に声かけちゃいけませんってパパやママに教わらなかったの?」 「声をかけられても返事をしてはいけませんと言われましたが、こちらから声をかけてはいけませんとは言われていませんの」
「おー。ちっさいのに屁理屈だけはご立派なこって」
「屁理屈ではありません。事実ですの。それと、歩き煙草もだめですの」
「へーそう。ゴメンネ?」
美少女は顔を顰めて至極不愉快そうに眉根を寄せた。すとんとしゃがみこんで少女と同じ視線でじっと見つめれば、少女は首を傾げてきょとりと視線を返す。それからその少女の視線はすっと下に移った。
「ん?」
視線を辿れば、先ほどゲームセンターで大人げなく女子中学生から横取りしてきた景品があった。あぁ月都とは笑みを浮かばせる。
「ほい、あげるよ」
「……え」
驚愕と、それから少しの喜びを浮かばせた瞳が、月都を捕らえる。きらきらと揺れ動くそれは宝石なんかよりずっとずっと綺麗だと思った。少女はちらちらと交互に月都とぬいぐるみへと視線を向けながら、高揚した頬でもじもじとうつむく。
どうしたらいいのか、よくわからないらしい。子供なのだから素直に受け取ればいいのになと思ったが、確かに見ず知らずの人間からいきなり物をあげるよと言われて素直にもらう方が問題なのかもしれない。それでも少女は目の前の欲求には逆らい難いらしく、ひたすらおろおろと困ったように眉根を寄せていた。
「あ、猫嫌い?」
むくむくと湧き上がってきた嗜虐心を抑えることなく、月都が残念そうな顔で猫をひっこめれば、可愛そうなくらい表情を歪ませて少女は口を開閉させた。おろおろと戸惑っているのがわかる。月都はくすりと笑った。かーわいいの。
「き、嫌いではないですの……」
「んじゃ、もらってくれる? おにーさんこれ持っててもしょうがないし」
ずいと差し出せば、きらきらとした宝石のような瞳でおずおずとそれを受け取る。少女が持つとぬいぐるみは一段と大きく見えた。嬉しそうに頬を高揚させながら猫の頭を数度撫ぜる。
「え、えっと、」
「んー?」
「……お、お礼を言ってあげなくもありませんの……」
「ぶっは……! テンプレツンデレ……!」
月都は抑えきれない笑いがこみ上げてきて、思わず腹を抱えて盛大に笑った。変化のない生活で惰性に過ごしてきた今まで。こんなに笑ったのはとにかく久しぶりだった。少女はきょとんとした表情の後に怒りをあらわにして、何を笑うのかと憤慨した。怒った顔も作り物のお人形さんのように可愛らしい。月都は涙目になりながら少女の頭を撫で、ごめんごめんと形だけの謝罪をする。
「お礼は何をすればいいですか」
「え?」
「生憎今私の手元にはこのぬいぐるみに見合うものが何もないのです」
「別にいいよ。それ百円で取ったし」
「そういうわけにはいきませんの」
「何でもいいの?」
「はい。お父様にいつも自分に出来る範囲内でなら人事を尽くしなさいと言われておりますから」
「ぶっは! 難しい言葉使うね!」
少女はどうやらかなり変わり者で気丈な性格らしい。月都はんーと首を傾げて、それから少女の白く柔らかい頬へと指を滑らせた。少女は厭うことなくくすぐったそうに身を捩っている。
「ね、じゃぁさ、君のお名前教えてよ」
「……名前?」
「そ、名前」
月都は人好きのする笑みを浮かべてやんわりと頬を撫でた。少女はきょとんと月都を見つめた後、不思議そうに首を傾げる。
「そんなものお礼のうちに入りませんの。別のものを考えて下さい」
「え? 何、じゃぁ普通に名前教えてくれんの?」
「そんなに私の名前に興味がありますの」
「名前だけじゃなくて、君自体に興味深深なんだけどね。ぜひぜひ君とオトモダチになってイロイロ遊びたいなーってさ」
月都は背筋にぞくぞくとした興奮がせり上がってくるのがわかった。ニヤニヤと口元が緩むのを抑えられない。隠し切れない。ぎゅるりとその視界に少女を捕らえる。ひどく楽しい気分だ。こんなに高揚したのは久しぶりかもしれない。どんな賭けことを始めた時よりも断然強い興奮だ。唾をごくりと飲み込む。
「神風青空、です」
「カミカゼ、アオゾラ?」
「はい。神風青空ですの」
「じゃあアオちゃんだね」
「は、あお、ちゃん……」
「そ。アオちゃん」
月都がにっこりと微笑めば、青空はそのマシュマロのようなほっぺたを上気させながら、恥ずかしそうに抱きしめていた猫のぬいぐるみに顔を埋める。それでも軽く巻かれた髪の毛から覗く、真っ白であった小さな耳は真っ赤に染まっていた。たまらなく可愛いその姿に月都の口は自然と弧を描いていく。
「ね、ところでさ、おにーさんお夕飯まだなんだよね。もー口の中涎でだらだら。早く食べないと死んじゃいそうだ」
「なら早く帰りませんと」
「うん。じゃぁ帰ろうか」
月都はうっそりと猫のように瞳を細めて笑みを浮かべると、青空の華奢でやわらかい左腕を握りしめた。ひくりと青空の躰が震える。ずいと顔を近づけて間近で覗き込めば、困惑に揺れる、名前にふさわしい瞳がこちらを見つめていた。 日光を反射して輝く海面ようなそれは、光の加減できらきらとその中で銀河に変化している。今すぐにでも抉り出して口に含んで蹂躙したい。その本能のままにべろりと瞳を舐めようとすれば、青空は慌てて両目をぎゅっと瞑った。そして猫のぬいぐるみを抱きしめながら月都の肩に手を置き、ぐいぐいと必死に押し返そうとしている。
「い、たい、痛いです、」
「だってアオちゃん逃げようとするんだもん、酷いじゃない」
「あ、そもそも、私がなぜお兄さんについていかないといけないんですか。わ、私は家に帰るんですから」
青空はうっすらと瞳に水の膜を浮かべながらも、キッと月都を睨み付ける。口では強がっていても、力では到底敵わない大人相手に拘束されれば、恐怖を感じてしまうのは致し方ないことだろう。安心してとか怖がらないでとか、そんな言葉をかけたところで気休めになるはずもない。
だから目の前で必死に抵抗を試みている、愚かで賢く無垢で博識な美しく愛らしい一級品のビスクドールちゃんに、そういった類の言葉をかける必要は皆無だ。月都は獲物を目の前にした、猛禽類のような瞳に興奮を色濃く纏ったまま、ねっとりと青空を見つめて、それから至極緩慢な動作で舌なめずりをした。
「アオちゃん、さっき、何でも言うこと聞くって言ったよね?」
ベッドに眠る極上のビスクドールを眺めながら、昨日は実に良い拾い物をしたと月都は満面の笑みを浮かべた。
上機嫌のままにテレビの電源をつければ、どうやらこの付近で資産家のお嬢様が誘拐されたというニュースが流れている。物騒な世の中になったものだ。せっかく手に入れたこの子も、奪われないように気を付けなければと、気を引き締めた。