愛情テイクアウト
周防元就(すおうもとなり)が【愛】なんて言葉を知ったのは、ほんの最近の事だ。
友人(そう呼ぶには元就としてはかなり納得がいかないが、便宜上そう言う他ない)ジェラール・ブルゴーニュという男の愚痴を、彼は何度か聞かされたことがある。彼は愛人(決して恋人とは表示できない)に付き合いを絶たれるたびに、情けの無い事においおいと喚き散らすのだ。
「君だって本気ではなかっただろうに」
すると彼は躍起になって反駁した。
「そんなことあるものですか! 本気じゃなかったなんて、そんなこと! 確かに俺は彼女を愛していたんですよ。ちゃんと、愛していたんですから。……ただ、愛する人の数が多いだけの事で」
元就はそれ以上反論しなかった。愛だの恋だのーー陳腐で下品で、気の迷いだ。士気が下がるものは、元就はそれで困った事はなく、必要でないと思っていた。だから、自分のそんな気持ちを『そのような言葉』で表すなんてこと、元就は知る由もなかった。
見捨てられたような裏庭に、ぽつんと、彼女はそこに座っていた。ぼうっとした瞳で、一体何を見ているのか悟らせない瞳で、常に口元に微笑を貼り付けて、座っていたのだ。無論、【座っていた】というのは、通俗な比喩にしかすぎないのだが。彼女が一体誰で、一体何の理由があって其処に【座っている】のかなど、元就は全く知らなかった。
声をかけようか、放っておこうか、何をしているのかだけでも、いいやそんな事は……考えあぐねる彼をよそに、かずらは何の躊躇もなしに彼の名を呼んだ。
「周防先生」
そんな敬称、教鞭をとってから幾千も聞いてきたはずなのに。彼女の、ほんの少しアルトが混じった不思議な声の響きを、元就はなぜか今までのように聞き流す事ができなかった。さて。彼がどうして【愛】なんて卑俗な単語を知ったのか、経緯を語らねばならないだろう。彼は己の中で、そんなものは必要ないと決めていたから、誰も彼にそんなものを差し出そうとはしなかった。少女はそこに座っているかのように、元就の内側に座り込んできたのだ。
「そりゃ、君、愛ですよ。愛、いいえ恋ですかね? いやいや、」
けれど、最終的に元就のそんな気持ちを愛だと教えたのは、ジェラールであった。彼は、そればかりをクーポン券のように求めていたから。それに関しては厭味なほど博識だったのだ。
「でも、君にかずちゃんは勿体無いですね」
ジェラールは嗤った。本当に珍しい事に、嗤ったのだ。嘲笑と侮蔑、多少の憐憫も含んで。
「あの子はただぼんやり生きてるわけじゃないんです」
あれで年に似合わない数多の苦痛を味わい、慎ましい胸の奥に惨たらしい悲劇を飼い殺している。愛がありあまる男の見せた掌が、妙に白白しかった。それには答えなど、決して書かれていないのだ。
「君があの黒髪の乙女を愛するのは自由ですよ。俺は止めません。そんな権利、俺には無いですし。でもね、彼女を愛しているのは君だけじゃないんですよ。敵は星の数ほど居るんです。刃物でも爆弾でも、奴らには勝てません。彼女を愛したいなら、それだけ覚悟しておくくべきですね」
「敵?」
全くもって理解不能である。元就はうんざりした。
元就は思いがけず、胸が高鳴った。陽の光を浴びて、夜空の頬にうっすら生えた産毛が黄金色に輝くのを見て、髪も瞳も暗色で構成されたこの少女でも、こんな風に輝く時があるのかと思うと、どうしようもなく嬉しかった。そして、その喜びが同時に、元就自身を苛立たせもした。かずらの、彼女と同じ名前の色の瞳が、己以外を映し、金色に輝く滑らかな頬を赤らめ、自分以外の人間に笑んでいる事が。それを寂しさだと理解する、勇気が、今の彼にはなかったのだ。
中庭に生えた、樹齢何千年の杉の木の下で、稲穂よりも幾分色の濃い金色を輝かせた少女を、元就の猛禽類のような双眸が捕らえる。思いがけず、夜空の笑顔を見てしまっては、元就はその苛立ちを隠す事など出来るはずがなかった。
「周防先生」
漆黒の少女が、此方に気づいて己の名を呼んだ。ぷつんと小さな音を立てて、崩れた自分の世界に、元就はようやく寂しさを覚えるのだ。
「先生?」
握った掌の、内側から赤が伝って落ちた。ぴりぴりとしたその熱を、元就は忘れまいと誓う。かずらの真摯な、且つ穏やかな唇を、自分以外の輩が汚すよりも先にどうすればいいかを、彼はもう知っていた。夜の空が駆け寄ってくる、月の出る気配のない、静かな夕暮れの事である。
(はて、愛とは何であろうか)
周防元就が玉城(たまき)かずらに対して【何かを思う】その瞬間、それが元就の【心】が生まれた瞬間だった。