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【短歌+SS】池袋35番出口にて今日もあなたをさがしています
恋する短歌特集改め、F氏短歌特集開催中です。
『35番出口』
すぐにきみだと気付いた。
軽く癖のある髪。いつも微笑ってるみたいな口許。半分眠そうな、あるいは夢見るような目。斜め上向き加減の視線で。下ばかり見て歩いている僕とは対照的な。
きみは歩いていた。改札へと向かう帰宅ラッシュの人波に逆らって。押し寄せる無表情なその他大勢にぶつかりもせずに、とてもゆっくりと。きみの周りだけ何か特別な空気でも流れているかのように。ふわふわという歩き方があるとしたら、そんな感じだ。
前の晩、きみはあの店のカウンターで僕の隣に座っていた。それは本当に偶然で、こういうのもセレンディピティと言うのだろうか。先に話しかけてきたのはきみの方だった。
日曜の夜にしては店は空いていて、カウンターの反対の端では、OLらしきふたり連れがバーテンダー相手に「絶対に使わない英会話講座」の講義をぶっていた。僕たちはその話にクスクス笑って、二言三言何か話をした。
僕は彼女たちの話に気を取られていて、きみがフードを注文したのにまったく気付かなかった。
驚いたことに、しばらくして出てきた皿をこちらに向けて、「食べませんか?」と言ったんだ。なんの躊躇もなく。
正直僕は困ってしまった。だって皿に載っていたのは、苦手なレバーだったから。
丁重にお断りすると、
「大丈夫、これは食べられますよ」
事も無げに言った。さっきと同じように。
仕方なく、僕は添えられたヒメフォークに手を伸ばした。なるべく小さな一片を選んで、恐る恐る口に入れてみる。
「大丈夫でしょ?」
間髪入れずに訊かれて、つられて僕はうなずいた。
本当は味なんてよくわからなかった。スモークの香ばしさにかろうじて救われていた。情けない話だ。
そうやってきみは、するりといとも簡単に、僕の中に入ってきてしまった。
きみは歩いていった。35番出口へと。僕には気付きもせず、ゆったりとした空気を身に纏い。
僕はというと、まだ名前すら知らなかったきみのことを、いつまでも振り返って見ていた。迷惑そうなその他大勢に肩を押されながら。
それから僕はきみの名前を知ることができて、きみに恋をした。
もちろん、名前なんて知らなくても恋はできるのだけど。
そしてあの日の偶然は、僕の中で必然へと変わった。恋が始まるための。すべてが動き出すための。
運命なんてそんなものだ。