自分の呪縛から解放されるということ。
桜の咲く頃、50万年前の大学入学式前日の夜。私はひどい吐き気と下痢に見舞われた。それはもう酷い物で、食道と口の中はただれて、肛門はカッターでリストカットしたような細かい痛みに襲われ、ひりひりとした。
それが前途多難の学生生活の始まりだった。パパパッと書くと、入学→いじめ→入学2ヵ月で休学→その後二度目の1年生をやり、2年間は真面目に学校へ行く→3年生は前期は一度も学校へ行けず引きこもる→後期は少し行く→色々あって中途退学→13年引きこもる→やっと外に出れるようになった←NEW!今ココ。 学校を辞めるかどうか腸が捻転するぐらい悩んだ。結論から言ってしまえば行った上で辞めて良かった。何故ならば、大学に行かなかったら行かなかったで、大学生というのは何をやり、どんな生活を送ったりして生きているのだろうという疑問が、辞めた後に払拭できたからだ。
大学に行かなかったら、大学生なんてロクに勉強もせずにチャラチャラ遊んでるだけじゃん!という怨念を抱えたまま生きて行くことになっただろう。それは私にとって、とても怖いことだった。当たり前だけど、怨念を背負いながらの人生は辛いと思う。正直な所ろくでもないと思う。自分で自分を損なう生き方だと思う。
私は大学で心理学をやっていたのだけれども(これもメンヘラの私には皮肉だよね)、高校生のときに想像していたものとあまりに違ったものだったのでそれでもかなりめげた。心理学はハッキリ言って理系科目です。文系の成分も入ってなくはないけど、理系科目です。大事なことだから2度書きました。まず、高校数学の基礎ができていないといけない。電卓を叩くだけの基礎統計学はAを取れたけど、専門科目でそれを取り入れた上でのレポートを書くのは本当に苦手だった。実験法?調査法?何それ美味しいの???の連続で、やがて統計学というものが生理的に理解もしたくなくなって、私は逃げた。
そして、中退する直前に教授に言われた言葉は「大学を中退したら、一生正社員には就けないし、人生終わりですよ」だった。恐ろしい呪いの言葉だ。それでも、入学したときから私がこんな状態になるまではすごく面倒見のいい先生だった。だから、訃報を聞いたときは複雑な色んな気持ちが混じり合って泣くことは出来なかった。感謝もお恨みも申し上げていました。メンがヘラってる学生に強烈な呪いの言葉を残して逝った先生への思いは、未だ自分中で消化しきれずにいる。それでも、まぁ、あの世からお迎えがくるまでは人間皆生きて行かなければならないし、時間が止まって穏やかな時に留まっているということは不可能です。先生からの呪いの言葉に加え、もし大学生を経験しないでの怨念までも抱えていたら、私は脱・ひきこもりは出来なかったと思う。結局ね、自分が抱えている怨念から解放されるには、先も書いたように、怨念の元となっているものに挑戦して経験を重ねてその上で、場合によってはなるべく早く怨念への理解を諦め逃げることが精神衛生上いいのだと思うことにしました。大学中退は、先生からいただいた呪いの言葉から逃げるようにして決めたこと。逃げるのは悪いことじゃない。生きるための逃げはアリですと言ったような荒川弘著の「銀の匙」に出てくる言葉が、今の私の指針にも繋がっている。
大学に行き中退するという経験をしたということ、その際に先生から受けた呪いの言葉に潜む呪縛をどうにか長い時間をかけて(精神科医やカウンセラーの専門家の方にも力を借りて)浄化していったことが、全部じゃないけど今の自分に至るまでの役に立っている。自分の中に息づく怨念や、他者から頂いた呪いの言葉は、何かしらの手段でとっとと手放すのが正解なんだとも考えている、そこに気付くまで随分時間がかかってしまったけれど・・・。
なので、この記事を読んで下さった方が、己の中にある怨念やら呪いやらまとめて言うなら、何かからや誰かからの呪縛に現在苦しめられている状況を少しだけでも変えたいと願っているなら、是非、己に可能な範囲でいいので、それらの原因になっている物に「挑戦する」か「なるべくとっとと逃げる」ことを選択してもらいたい。本当にあくまでも私の個人的見解ですが。
引きこもってからやっと外に出れたばかりの、病み上がりの私からの心からのお願いです。
どうか、自分で自分を大切にしてあげて下さい。この世で自分ぐらいは自分を大事にして欲しいと、私は考えています。
どんなに時間がかかってしまっても、「自分で自分を損なわないように、自分を大切にするということ」は、あなたに降りかかった呪縛を解くための糧に必ずなるから。
おしまい。