祭りの後の侘しさ。
ぼくはひと一倍よく喋る子どもだった。それがイジメを受けてひとと接することができなくなり、まったくひとと会話をしない生活を送っているのだから、そこにかかるストレスはとてつもなく大きいのに違いない。
ぼくは相変わらずまったくひとと会話をしない生活を送っている。ひとと会話をするのが恐ろしいという思いのいっぽうで、常に「誰かと喋りたい」という気持ちも存在しており、そのふたつの相反する気持ちの間を、ぼくはゆらゆらと漂っているのだ。
五月一日からYoutubeにゲーム実況動画を公開するようになった。ゲーム実況動画を収録しているときのぼくは、見ていただければ分かるが、実にいきいきとしている。収録後に動画の確認をすると「これが自分なのか」と、ぼく自身おどろかされるほどだ。動画を見てくれたひとたちも「ハキハキしゃべっているし、あなたは本当にひきこもりなの?」と口をそろえる。
ゲーム実況動画を収録しているとき、ふいと懐かしさを感じる。幼い頃の、まだ明るく、前向きで、元気いっぱいだった頃の自分がチラリと脳裏をよぎるのだ。
ひとと顔を合わせず鬱々とした日々を生きるぼくにとって、ゲーム実況動画は唯一の「癒やし」だった。
しかし、現在ぼくは「ゲーム実況動画」に苦しめられている。
依然として動画を収録するのは楽しい。むかしの元気な自分に戻れたような気がして、清々しい気持ちになれる。だが、収録を終えたあとが、苦痛で仕方がないのだ。
一日に撮れる動画の本数には限度がある。撮った動画は編集をして、Youtubeのサーバーにアップロードをして、投稿設定をして……と、撮って終わりではない。ぼくはいつも午前中に動画を撮り、午後の時間を編集などに充てている。
昼食をとり終えるころ、ぼくはいつも「祭りの後」にも似た侘しさを感じている。大切に育てていた生き物が、ある日突然死んでいるのを発見してしまったときのような、得も言われぬ侘しさを。
まいにち動画を収録するということは、この「祭り」と「祭りの後の侘しさ」を、まいにち味わうということだ。後ろ向きなぼくは、どうしても「侘しい気持ちを味わいたくないから、祭りなど要らない」と、そう思ってしまう。本末転倒なのだが、どうしてもそう思ってしまうのだ。
祭りの後の侘しい気持ちを知ってしまったいま、あの頃のように、素直な気持ちで動画の収録を楽しむことはできない。それこそが、ここ数日のぼくの精神的不調の原因だと思われる。
祭りの後に控えている侘しさを先取りしてしまっては、何事も楽しむことなどできやしないではないか。