フラストレーションの累積、そして爆発:『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)によせて
本作の監督スパイク・リー自らが演じるムーキーは消極的な主人公である。ほとんど全編を通して、彼は命じられるがままにピザを配達しては道草を食っている。カメラはしばしばムーキーから離れて、昼間から飲んだくれている市長(メイヤー)や、通りすがりの白人男性に喧嘩を売るバギン・アウト、大音量で《Fight The Power》を流し続けるラジオ・ラヒームはじめ、ヘッドフォード=スタイヴェサント地区の他の住人の動向を呈示する。
本作のプロットは散漫で起承転結という明確な型を持たない。ストーリーが首尾一貫したものではなく、日常生活の断片として提示されるリアリスティックな語りが採用されている。本作は古典的な語りに見られるようなはっきりとした対立や障害が示されないまま進行するが、それらは状況説明的な出来事が展開して行くにつれて控えめに浮かび上がってくる。
リアリスティックな語りが採用されている一方、映像はフォーマリスティックなものである。本作を象徴するのは〈猛暑〉を表す、褪色したフィルムのような赤い色だ。また、サミュエル・L・ジャクソン演じるラジオDJの口元の超クロースアップからカメラが徐々に引き、早朝のストリートの様子をとらえる冒頭のショットに代表されるように、長回しと技巧的なカメラワークが駆使されている。特に室内のシークエンスでは、人工的な照明による効果もみられる。
本作において、観客に視覚的な不安を与えるような演出がされていることも見逃せない。具体的には、安定しないダッチ・ティルトの構図や威圧感をもたらすローアングル・ショットが挙げられる。また、広角レンズを用いた人物のクロース・ショットは焦点距離が短く画角が広いというその特性から、不自然に表情を歪ませた映画のキャラクターがスクリーンを超えてこちらに迫ってくるような印象を与える。さらに、スパイク・リーは第四の壁の崩壊をもいとわない。
DJもとい監督スパイク・リーによって、本作では話し声や車の走行音、ラジオから流れる音楽など物語世界に直接流れている音声であるダイエジェティック・サウンドと、製作者によって挿入された音声であるノン・ダイエジェティック・サウンドとが〈ミックス〉されている。彼が卓越した音楽センスの持ち主だということは、ラジオから流れるサルサとラジオ・ラヒームの《Fight The Power》の衝突のシークエンスからも明らかだ。
また、キャラクターは音楽ジャンルで特徴づけられる。アフリカン・アメリカンのキャラクターはヒップ・ホップを聴いている。ムーキーがティナに贈る曲がサルサであることから、彼女はプエルトリコ系だ。そして、イタリア系アメリカ人はフランク・シナトラのバラードを好む。
主題から脱線したまま、どこに向かっているのかもわからないプロット。観客の不安を煽り、緊張感を高める演出。まるで誰の声が最も大きいかを競い合っているように、途切れることのない音楽…本作を観ると思わずいら立ちを覚えてしてしまう、という観客も少なくはないだろう。だが、私はそれこそがスパイク・リーの狙いだと考える。つまり、彼は観客と映画のキャラクターがフラストレーションの溜まった状態を共有するよう仕向けているのではないだろうか。ヘッドフォード=スタイヴェサント地区の住人たちは稼ぎ口が見つからない不安、白人や他の移民との間にある緊張に絶え間なく襲われている。自分がどこに向かっているのかもわからないままに日々を過ごしている。おまけに今年の夏は記録的な猛暑なのだ!サルがラジオ・ラヒームのラジカセを破壊することで、やっと沈黙が訪れる。消極的なムーキーによる初めての積極的なアクションが暴動のきっかけとなる。彼らの行動は累積したフラストレーションの爆発に他ならない。
しかしながら、その果てに私たちが得るのはカタルシスなどではない。むしろ「たとえ映画が終わっても人生は続く」という絶望である。本作の最後には、同時代に人種差別の撤廃とアフリカン・アメリカンの地位向上を目指して人々を率いたマーティン・ルーサー・キング牧師とマルコムXの言葉が引用される。暴力に対するふたりの主張は対立しているが、スパイク・リーはその対立にこそ着目し、それを克服する新たな見識を生み出すための議論を観客に促している。
作品情報
『ドゥ・ザ・ライト・シング』
原題:Do The Right Thing
製作国:アメリカ
製作年:1989年
監督・製作・脚本:スパイク・リー
撮影:アーネスト・ディッカーソン
音楽:ビル・リー
出演:スパイク・リー(ムーキー)
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