ぼくの体から、「走り」が消えた
それは気付かないうちに、でも確かにぼくの体から消えていった。
2020年、高校3年生の夏。僕は陸上選手として最後の大会で必死に走っているはずだった。
けれどその夏はもう来ない。
ぼくは陸上部だ。走ることが専門だ。さらに言えば短距離走をやっていたし、練習は週に5日間ある。休みの日も何らかのトレーニングをしたいたし、走ることは僕にとって生活の一部だった。
そしてそのことに気づいたのは部活動に区切りをつけてから3ヶ月ほど経った今日だ。
受験勉強や模試に追われ、思うような結果が出ない、もうやりたくない。そんな思考に陥って永遠に帰って来れなくなりそうな気持ちを感じたぼくは、藁にもすがるような思いで「走りに行こう」と決心した。
体を動かしていればそんな悩みが付け入る余地が無くなるからだ。以前の感覚を取り戻すように、ゆっくり丁寧に体をほぐす。目の前のことに集中しようとした。
そんな瞬間だ。このことに気づいたのは。
『ぼくはいつから「走る」ために「じっくりと思い出す」ようになったのか』と。
数ヶ月ほど前までのぼくにとって「走る」ことは生活の一部だったし、運動を始める前のアップもその日の調子を確認するためのものだった。決して忘れていた何かを思い出すためのものでない。
しかしどうだろう、今のぼくは。走るために、
いや、「運動」をするために必要な準備が増えた。なぜならそれはぼくの生活に組み込まれなくなったもの、言うならば「非日常」であるからだ。
走ることが新鮮に感じる。まるで旅行に来たかのようだ。とても清々しい気分と同時に、不思議な懐かしさと、ポッカリと空いた穴を感じた。
ただしそれは、否定的な感情ではない。どちらかと言えばポジティブな気持ちだ。
「また1から始めることができる。」
「自分の体に、以前とは違った気持ちで向かい合うことができる」
というように。
ぼくはぼく自身のことを知らない、体の調子や、動かし方、性格や感情まで僕は全てをコントロールできるわけではない。それはまるでぼくの体と気持ちが一つの空間の中で共生しているようなものだ。
あなたはどうだろう。
胸を張って、自分という存在を無視せずに、向かい合う時間を作ることができているだろうか?