表現できない何かが消えてしまうから。
先日書いた、「書く」についてのインタビューセッション。
インタビュアーの大前みどりさんの記事をみて、自分の話したことなど見直していて。
そういえば、と思い出したことがあった。
「生の言葉を」というのを何回か話していて、人が話していることから、テキストにすると抜け落ちていく何かのことをすごく気にしていた。
テキストにすると(特にきれいに、わかりやすく、とまとめていくと)抜け落ちていくものについては、いつもずっと考えているのだけども、「生の言葉」からだけではないのだった。
話をした時期、ちょうど私が人から話を聞いてチラシなどにまとめていたときだったので、どう伝えるかどう書くかというときのイメージが、人の言葉を伝えるイメージになっていたのかなと思う。
表現しきれなくて伝えたいはずのことが伝わらないのもいやなのだけど、それ以上に、私は、自分が感じたことを表現しきれないことで、表現できなかったことがなくなってしまうような感じを避けたいのだった。
*
「うまく伝えられない」というのは、それはそれで悩ましい。わかりやすく広くというのと、コアに響くところに狭くでも深くというのと、両立しないけどどちらも必要で、一度にではなくてもどちらもほしかったりする。個人的には後者が好みだけど、そっちのほうが難しいとも思う。
だけど、「伝えられない」分には、それが自分でわかっていれば、手を変え品を変え何回もあれこれ繰り返して伝えようとすることもできる。(もちろんシチュエーションによってはできないけど。)
どういう感じをとりこぼしているのか、自分でわかる範囲では、それをすくおうとすることができる。
すくえるかどうかと、すくえたとして届けられるかは別なのだけど。
でも、自分の中の感覚をなんとか表現しようとして、自分の中にある言葉や表現以上では表現できないとき。できるだけぴったりくる言葉を探して、ほんとは表現しきれないものを言葉にしてしまったとき。表現できないはずのいろんな何かを含んでいたものが、その言葉の中におさまってしまう感じになる。
それまで感じていた、身体が覚えていた何かが、自分が書いた言葉で上書きされて消えてしまう感じになる。
思い出そうとしても、その言葉しか出てこなくなる。ほんとはもっとそこにあらわせない何かを感じていたはずなのに。
上書きされて消えてしまった感覚はとりもどせなくて、もうとりこぼしたとわかってもすくいとれなくて、それがなんか悲しくなる。
だから、いつからか、いつも記録しておきたくて記憶しておきたくてなんでも詳しく感想など書いていたのを、あまり書かなくなったのだった。
*
すごくよかった、すごかった、はじめての感覚だった、などは、人に伝えたくはなる。
同じように思っているのを共有できたら楽しいし、知らなかったら知ってくれたらいいなと思うし、
だけど、そのときに、自分の感じたことを詳しく書いたり話したりすることは、もうしないかなと思う。
何を体験した、というのは話しても(それは単なる事実で感覚使わない)。よかったよ、くらいのざっくりしたことは伝えても(こういうレベルなら感覚呼び起こさないので上書きもしなさそう)。それを得てなにを考えたか、などは話すとしても(これは言語化できる思考の範囲だから、非言語の部分使わない)。
でも「どういう風に感じたか」は、無難な表現ですませられることしか伝えない。きっと。
それが自分にとってよい経験であるほど、そうなると思う。
伝えきれないところを伝えようとして、自分の中の感覚が消えてしまうのがいやだから。
自分の感覚を大事にもっていることのほうが、私には大事だから。
と書いてるけど、でもほんとにすごいなぁとか思ってうわぁ!!!ってなったら、書いたり話したりしたくなるんだろうなぁ。
どう伝えたら感覚的なところが表現として再現できるか悩みながら、その悩むのも楽しいしな...
(マル秘展とかもめっちゃ書いたもんな、と思ったけど、意外と事実と思ったことだけで感覚とか再現せずに書いてそれでもなんか伝わっているかもしれない。こういうノリで伝わるのならこんな感じで書くのもありかもな。)