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Lab-Cafeで振り返る2024の政治

民主主義ってなんだろうな〜ってぼんやりと考えていました。以前参加したFounding the Commons Tokyo2024(FtC)では多元主義(Plurality)への言及があり、民主主義とも関連するという前提で話が展開されていました。

FtCへの参加レポート↓

安野さんがちょうど都知事選で「ブロードリスニング」を実践した後で、Pluralityを提唱するAudrey Tangとの対談もありました。

NISHIOさんのnote(安野さんのマニフェスト)より

しかし一方で、その思想(実践)は民主主義の基盤においてどういう位置付けにあたるもので、そもそも民主主義の基盤ってなんだっけ?とだいぶ、ふわっとした理解のまま聞いていました。

そんな中
先日、2025/1/13にLab-Cafeにて2024を振り返るイベントがYamabeさんとHokazonoさんによって主催されました。ポピュリズム、分断、国民生活、民主主義から振り返るということで、勇気のいるイベントだったかと思いますが非常に有益なもので、Lab-Cafeと主催者の皆さんに非常に感謝しています。議論の基盤をHokazonoさんが整えてくれて、その上で肉付けをYamabeさんがしてくれるという構成で、21:00-23:00という夜の開催でしたが熱気に溢れた議論が飛び交っていました。
議論の中身それ自体もそうですが、あのような場にいることができたということも個人的にはうれしく思います。

以下、私の考え基づくもので、自身の思考整理を含みます。
誤解を招く表記もあると思われますが、お許しください。可能であればツッコミをください。





自分が改めてこのタイミングで、無知の身ながらも民主主義を起点とした周辺領域に関するあれこれをアウトプットしておきたいと思った理由の一つがポピュリズムへの関心だ。この会に出るまではポピュリズムのことを「ちいかわみたいな人間が多く、政治参画をしないために、過激な立花さんの主張がとってしまう現象のこと」くらいに思っていた。

今回の会で基礎の基礎として知ったが、ポピュリズムの代表的な定義としてよく参照されるものの1つがこれだ。

「社会が究極的に『汚れなき市民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは市民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」

(カス・ミュデら『ポピュリズム:デモクラシーの友と敵』白水社、2018年)

汚れなき市民は往々にして「一般意思」の現れとして扱われ、実際には多様であるはずの国民の声が単一の声として語られる傾向にある。
そこで強力なリーダーやカリスマが「市民の真の声(市民の一般意思という虚構)を体現するリーダー」として“民意の代弁者”を名乗り、急速に支持を集める場合が多い。

※この「一般意志」とは何か、という点については自分には扱いきれていないが、ルソーによれば「一般意志が存在すると仮定しなければ、個々人の自由は担保され得ない」と論じている。

実際の政治課題は多元的で複雑だが、ポピュリズムはわかりやすい敵や単純な解決策を提示して大衆の不満や不安を吸い上げるため、短期的に支持を獲得しやすい、という状態になる。

ここで、一つの問いを導入してみる。

ポピュリズムが民主主義を脅かすとは何か?

民主主義とはあくまでも「人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系」=イデオロギーのことであり、自然法則ではない。一方で、民主主義を基にして日本のみならず世界の多くの国々(主に先進国と呼ばれる国)では民主主義に基づいて政治を行っている。
つまり、この問いに答えるためには民主主義(というイデオロギー)を構成する理論基盤(公理系)とそれに基づいて構成される現実の政治構造を簡単に整理したうえで、分けて理解する必要がありそうだ。


最初は理論的基盤について自分のために整理していくが、最終的には「イデオロギーの基盤が揺らぐ」という事態に対して良し/悪しの判断を下すのではなく、「ポピュリズムによって民主主義(イデオロギー)が揺らぐ」ことによって起きうる変化に着目してみたいと思っている。

民主政治の主要な理論的基盤

は古典的には

  • 社会契約論として

    • 『統治二論』

      • 人間観: 自然状態でもある程度の秩序は保たれるが、生命・自由・財産を守るために不十分

      • 政治観: 個人の「自然権(life, liberty, estate)」を最大限保障するために、代表制と法の支配が重要。
        → 統治者が自然権を侵害すれば、人民には抵抗権・革命権が認められる。

    • 『社会契約論(説)』

      • 人間観: 自然状態においては善性をもつが、社会の中で不平等が生じる

      • 政治観: 各人の意志を集約した「一般意志(General Will)」こそが共同体の最高原理
        → 主権は分割され得ない直接民主主義的な理想を説いた。

    • 『リヴァイアサン』

      • 人間観:自然状態では「万人の万人に対する闘争」が生じるほど自己保全を重視する存在

      • 政治観:そうした混乱を避けるため、各人は自然権を君主や政府に譲渡する(社会契約)
        → 君主(統治者)の権力は絶大。ただし、社会契約の枠組みによって正当化される権力。

  • 権力分立論として

    • 『法の精神』

      • 三権分立の提唱: 立法権・行政権・司法権を別々の機関に分担させることで抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)を図る
        → 権力の集中を防ぎ、市民の自由を保障する枠組みを理論化。

以上のような古典書籍に求めることができるだろう。

他にも様々な主張があるだろうが、単純化してざっくりと理解するためにこれらを基盤とする。
では、これらが実際にどのような

現代政治の基本構造

に影響を与えたのかをいかに整理してみた。

  • 成文憲法

    • 現在、ほぼすべての民主主義国家は成文憲法をもっており、そこに国民主権・人権保障・三権分立を明記している。

    • 各国憲法はロック(統治二論)・ルソー(社会契約論(説))、あるいはフランス人権宣言のような啓蒙思想の影響を色濃く受けているだろう。

  • 立憲主義の思想

    • 統治機構(政府)の権力行使を法・憲法によって制限し、基本的人権を守る考え方。

    • これは社会契約論(人民の権利保全が政府の役割)と結びつき、現代でも人権侵害をめぐる裁判・議会審議・市民運動などの根拠となる。

これらを前提にして議会制民主主義と選挙制度を以下に整理する。

  • 代表制・代議制

    • 多くの民主国家が、議会制(代議制)を中心に据えた政体をとっている。

    • これ自体がロックなどの「人民の同意に基づく統治」の理念を引き継いで化体したもの。

  • 普遍的参政権

    • 元は制限選挙(財産や性別による制限)から始まった

    • これも「人間は平等な権利を持つ」という自然権の考え方が理論的基盤となっている。

そして三権分立によるCheck & Balanceだ。

  • 議会は法律を制定し、行政府(内閣や大統領)は政策を実行し、司法(裁判所)は法律や政策の合憲性・適法性を審理する。

  • 違憲立法審査権などは、現代的には司法府の役割として非常に重要視され、政府や議会の暴走を防ぐ歯止めとして機能。

    • モンテスキューの影響を受けて権力分立と相互のチェックが制度化された。

では、これらの理論的基盤の意義は現代においてどのように発揮されているか?

  • 社会契約論が示すように、政治体制の正当性は「人民の自由と権利の保護」にあるという考え方は、現代でも議会政治や司法判断の核心となってる(はず)。

  • 三権分立の原則は、ポピュリズム(大衆迎合主義)や強権政治のリスクが高まる現代において、権力の歯止めとして重要性が再認識されている(はず)。

これを受けて、新たな民主主義モデルを模索する動きも出てきている。

  • 直接民主主義的要素の強化:

    • 住民投票・国民投票・電子投票など、市民が直接政治に関与できる機会を拡大する動き。もちろん課題も多くある。

    • ルソーが説いた直接参加の理念の現代版といえるだろう。

  • 熟議民主主義(Deliberative Democracy):

    • SNS(個人メディア)やマスメディアの発達により情報が爆発的に増えた反面、誤情報や分断も拡大。

    • その対策として「公共の場で対話・討議を重ねること」によって市民の意見を深めるアプローチが注目されている。

    • これはロックやルソーの「人民が議論の末に合理的な決定を下す」という理想に一部つながっているだろう。

      • ブロードリスニングはこの「熟議」を代表制・代議制の枠組みにおいてうまくやる(FBループを早く回す)ための仕組みだと認識している。

ここで、2つの論点を導入してみたい。

  1. 民主主義を「多元性を重視する枠組み」としてとらえる

  2. いずれの「〇〇主義国」も、特定の価値やベクトルへ人々のアテンションをそろえようとしている点では同じである。

①民主主義は「自由意志の行使」ではなく「複数の意思の共存状態」である

民主主義というイデオロギーの本質を人々が自由意志を行使することができること自体に求めるのではなく、その結果である「複数の意思の共存」に求めるという立場だ。

この意見が強調するのは、民主主義とは「自由意志を行使して皆が同じ方向にまとまる」ことではなく、「そもそもまとまる必要すらない多様な立場を前提として、絶えず議論をすることだ」という側面である。複数の立場があるとするならば、もちろん議論も必要になるだろう。

ここは何となくの意見になってしまうが、民主主義の定義には「主権が国民にあり、各人が自由意志をもって参加する」という要素が含まれてきたように思われる。ただし、前述の意見は「自由意志を持っている状態かどうか」を前提としない。言い換えれば、「「自由に思考しているか/洗脳されていないか」は問わず、とにかく意見が一つに集約されていない状態自体が民主主義であるという見方だ。

“一般的な民主主義論”では、人びとが何らかの情報操作によって無自覚に誘導されること(プロバガンダ/洗脳など)は民主主義の脅威とされる。しかし、前述の意見に基づけば「洗脳(のようなもの)がない状態」というよりも、むしろ「一枚岩ではない状態」が維持されるかどうかに重きを置くことになる。

ここまで考えてみれば、ある種のデジタル民主主義は既に成立しているとも言える。なぜなら個人メディアの発達によって、「多様な立場を持つ人々が熟議する」というのは情報空間上で達成されている(ように見える)からだ。もちろん、「熟議」とは何かに依存するが…。

新たな民主主義モデルを模索する動きとして「熟議民主主義(ディリバラティブ・デモクラシー)」があることを紹介したが、これは「多数決の前に徹底した議論や情報交換を行い、市民が互いに見解を深める」ことを重視する立場だ。

民主主義の本質を「常に複数の意思に分かれて議論する」という部分に求める意見は、熟議民主主義やplurality の思想と近いのではないか。
「統一されないこと」にこそ民主主義の活力(本質)がある、というとらえ方は共通している。

②いずれの「〇〇主義国」も、特定の価値やベクトルへ人々のアテンションをそろえようとしている点では同じである。

国家は国民の意識や行動をある方向へ向けようとする装置であるという見解は、広くはマルクス主義や、アルチュセールのイデオロギー論(例えばリンク先のような理解)やグラシムのヘゲモニー論に求めることが一部可能かもしれない。

これはつまり、民主主義であってもファシズムや社会主義でも、「こういう価値観を正しいとする」という合意を国民に植え付けているのは同じではないかという見方である。

一般的な民主主義論では異なる価値観を排除しないことが理想とされるが、それでも憲法や教育を通じて"民主的価値観"を市民に共有してもらうという大枠の同意を創り上げようとする作用が働くことからは免れない。

したがって、民主主義は異なる価値観を無制限に受け入れるのではなく、民主的価値観そのものを否定する思想(極端な暴力主義、独裁志向など)を排除することは実際には起こりうることになる。

そういう意味では民主主義もまた一つの"同意の枠組み(コンセンサス)"を形成しているという指摘は完全には否定することができない。

絶対的な全体主義体制(例えば極端な独裁主義)では、権力側に反対する意見は一切許さないという明示的な排除が行われる。

一方で、民主主義では反対意見も表明する権利は原則として保障される。ただし、意図的に民主政治を破壊すると言った行動に出た場合は排除の対象となるかもしれない。それが暴力を伴っているかどうかはわからないが、国家の定めるコンセンサスから外れようとする行為は、暴力を伴っていなくても排除の対象となりうるだろう。

つまり、「どこまで排除するのか」「そもそもどの段階で『民主的枠組み』を逸脱したと判断するのか」は、民主制と他の『〇〇主義国』とで大きな差があると見ることもできる。

もちろん、この発想にはいくつかの課題があるだろう。
自由意志や人権保障といった近代民主主義の中心概念がやや希薄化されており、これを軽視すると民主主義が本来的に持つ「権力から個人を守る」という基盤まで相対化の対象となり得る。
自由意志を前提としない民主主義の在り方はあるのだろうか?

また、実際にどの程度までが「多様な意見を認める」の範囲で、どの程度からは排除されるのかをどのように線引きするか、という運用上の難しさも残る。法的(あるいは法学的)にも長く論争が続いていることだろう。そこまでは踏み込めない。

では、これらの

主張と理論的基盤との位置関係

を改めて概観してみたい。

  • 社会契約説では、国民が自らの権利を守るために権力に一定の権限を預けるという視点が強調されているが、前述の2つの論点はそうした権利保護よりも「意思の多様性」を実態に見出している。

  • 三権分立や法の支配のような制度的仕組みは、前述の論点においては「複数の意思を対立・討議させながら統治が暴走しないようにするための調整機能」としてとらえられ得る。

  • 熟議民主主義やpluralityといった立場を補強する一方で、人権保障や個人の尊厳という従来の近代民主主義の根幹部分は直接言及していない。

以上をまとめると、

  • 前述の論点は民主主義の本質を「自由意志の行使」よりも「一つにまとまらず常に多様であること」に見いだす点で、plurality, 熟議民主主義の視点に近い。

  • また「どの国家体制も、結果として特定の価値観やベクトルに人々のアテンションを集める装置として機能している」という見方は、イデオロギー装置論的なリアリズムを含んでいる。

  • ただし、近代民主主義においては「個人の自由・権利を守る」ことが大きな柱であり、それが単なる“意思の分散”ではなく、“人権を前提とした上での多元性・議論”へとつながってきた歴史的経緯がある。

  • 従って、この論点を民主主義の理論的基盤に位置づけるならば、「民主主義の多元的・熟議的側面」を強調した一つのアプローチといえる一方、人権保障や自由意志の尊重といった側面を補完しなければ、従来の民主主義論的な立場を十分にカバーしたとは言い難い

長くなってしまったが、前の問いに戻ろう。

ポピュリズムが民主主義を脅かすとは何か?


ポピュリズムとは「社会が究極的に『汚れなき市民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは市民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」だった。

ポピュリズムの指導者は「本物の民意」のようなものを一元的に代表していると主張し、本来は"一つにまとまらない"はずの国民を自分の掲げる民意の旗の下に統一させようとする傾向がある。

これは「複数の意思に分かれること」を旨とする民主主義の理念と衝突しやすいだろう。ポピュリズムの立場において民主主義の在り方は「分断を生む無駄な対立」として否定されるからだ。

また、ポピュリズムでは「市民の敵」として設定された特定集団(腐敗したエリート等)やマイノリティを攻撃し、「汚れなき市民による一般意思」の外側に置くことがありそうだ。

そうなると少数派や反対意見が排除され、民主主義の立場は崩されかねない。

法の支配よりも感情的・情緒的な動員が優先される帰結になることは、トランプ大統領の敗退に伴って発生した国会議事堂襲撃事件の例から見てもわかるだろう。これは議会・司法・メディアなどの独立機関を「腐敗したエリートの支配装置」とみなされることに起因すると理論的には説明が可能だ。人事配置によって骨抜きにされることもありうるだろう。

これによって、本来は民主主義を機能させるための制度的チェック機能や複数意思の共存の場が弱体化し、事実上の独裁・権威主義に近づく可能性がある。

ここで、挑戦的ではあるが民主主義のミニマムサイズを「二大政党制」に見出してみる。先ほどから「複数の意思の共存状態」に民主主義の在り方を見出していることから、二大政党制はこの理念をミニマムサイズで生み出しているとも言えるだろう。こうすると、少数派というのが二大政党制のようなボリュームでも一応は成立することになる(ただしポピュリズム的態度が民主主義の理念と衝突することは変わらない)。

ポピュリズムの台頭を危惧する言説として「対話・熟議のプロセス」を損なうことが挙げられるが、これは先ほどまでの論点の立場に立つと、そのプロセスが損なわれること自体が問題というよりもむしろ「複数の意思が共存するための従来の前提」が失われることが問題であるととらえるほうが正確になる。

つまり、「ポピュリズムが民主主義を脅かす」とは、

  • 「社会が究極的に『汚れなき市民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは市民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」によって

  • 民主主義というイデオロギーに基づいた政治構造
    ー司法・立法・行政等の独立機関と、それによって支えられる複数の意思が共存する状態(ミニマムには二大政党制)ー
    が損なわれ

  • 国家の定める民主主義という"同意の枠組み(コンセンサス)"(イデオロギー)が損なわれる

と言うことができるのではないか。
これが冒頭に述べていた「ポピュリズムによって民主主義(イデオロギー)が揺らぐ」ことによって起きうる変化」であると考えている。もちろん、様々なレベル感で変化は起きうるだろうが、ざっくり理論的にはこういう風な変化が起きることを指すのではないか。

そう考えると、「我々が分断されている」とか、「分断が起きている」というのは誤解を招きやすい表現だ。
そもそも民主主義は「複数の意思が共存すること」を前提としており、「統一の意思」というものは想定していない。一方で、「民主主義という同意の枠組み」は統一されているので、「〇〇が分断されている」という言葉を、今回の論点を踏まえて扱うのであれば「民主主義という同意の枠組みが損なわれることによって、複数の意思が共存し、熟議がなされることによって合意形成に至るプロセスが損なわれ、複数の意思が共存することができなくなる」か、

「汚れなき市民の一般意思」という虚構によって、複数の意思が共存するという民主主義の本質が損なわれる」とかに言い換えるほうが論点を正しく踏まえた言い換えになりそうだ。


おわりに

話をLab-Cafeでの時間に戻そう。
あの場においては確かに「複数の意思が共存する」という状態が認められていたように思える(石川県から参加したのは俺だけだったが)。

これは、日本という国が定めたコンセンサスに則った正しい在り方を体現するような素晴らしい場であったと個人的には思う。

一方で、イーロンマスクやサム・アルトマンが確実に世界の歴史を変え行く中で、民主主義というイデオロギーの理論的基盤(公理系)を出発点とすることにこだわりすぎるのもまた、何らかのリスクをはらんでいるように感じられる。

民主主義は、確かに制度に組み込まれ、運用され、その歴史はそこそこ長く続いているので、自然法則のような「前提となる変えようもないモノ」のように思われるが、これはあくまでもイデオロギー(人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系)であり、集団(国民国家を前提とするならば国民)の意思決定によって変わる類のものだろう。

自分には、「民主主義」というイデオロギーは1種のコンセンサス(同意の枠組み)としては既に成立しているものだが、イデオロギーを成立させている公理系は変更可能であるように見える。もちろん民主主義を成立させている公理系(理論的基盤)を変えて運用するということは、その「新たな民主主義のようなもの」という名前のまだないイデオロギーに基づいた政治を構成していくことで、いまの民主主義のような安定感(あるかは知らんが)を見せるには数百年を要するだろう。

そのような意味で、冒頭に挙げた「plurality」や、Broad listeningという取り組みだけでなく、AIエージェント、Web3という宗教(新たなイデオロギーとしてみなしている)が民主主義というイデオロギーを構成する公理系にどのような変化を与えるのかに興味がある。
民主主義という枠組みの中に完全に組み込まれていくのか、それとも取り込みの過程で民主主義というイデオロギーを構成する公理系自体に変化をもたらしてしまうのか、はたまたイデオロギーに影響を与えるほどでもなく存在し続ける/滅ぶか、という興味だ。

こんなことを、ここ数日で考えた。



















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