備忘録(読書感想文『まだ知らない青』②)
【解釈で遊ぶ】
ことばの奥に
在る
まあるいものを
やりとりしているような
私たち
作品から作者像を探るのは、ここではやめて、脳内が自然と遊んでしまった歌を二首。
「まあるいもの」というひらがな表記の柔らかさ、その有用性をわかりやすく説くことなどは、他の方々にお譲りするとして。
「まあるいもの」って、具体的にどんなものが想像できるだろう?いくつ想像できるだろう?と考えた。
最初に浮かんだのは、シャボン玉。あ~ん、儚い!
もしもシャボン玉だったら、この「私たち」の関係性はどんなの?
傷つきやすい10代の少年少女が目に浮かぶ。好きか嫌いかを探り合っているような。でも内心わかってて。でも確かめ合うこともなくて。
ほんのちょっとのネガティブな言葉で、今にもわれてしまいそうな。そんな「まあるいもの」。
次に浮かんだのは、ボール。やり取りとりが心地いい。キャッチした手の受け止めた音すら楽しくて。
こちらはもう少し確かな関係かな。
漫才の掛け合いを見ているような。ふたりだけが会話しているのに、実はその会話は考え抜かれたもので、第三者を笑わせようという企みが練りこまれているような。密かな次元で通じ合っているけど、不意に手に収まりきらずに、弾んでどこかへ行って、相手も忘れて、ボールだけを追いかけているうちに、離れ離れになりそうな。そんな「まあるいもの」。
硬さや大きさ。読み手は自由に解釈しても大丈夫な歌だろう(ひらがなだからね。ある程度の偏向はあるでしょうけど)。
「私たち」の良好さや積み重ねを作者の意図するものから外れなければ。
終わらない物語を
くれたのだと思った
それくらい
極上の
一滴
「極上の一滴」とはどんな一滴だろう?
自分の一滴だろうか?他人の一滴だろうか?
これもきっと、読み手の背景でいろいろな画が見えてくる歌。
私が最初に見た一滴は「汗」。
甲子園の球児の汗だった(はい、あの、サッカー選手の汗でもいいです)。彼らのひたむきさに、物語をもらったような。関係のない人達なのに、テレビに張り付いて、つい手に汗を握ってしまったような。
次は「涙」。
自分でも気がつかないうちに静かに流していたらしい、本を読んだ後の「一滴の涙」。
次は「精子」。
命のつづきの物語を宿したような(はい、このくらいにしておきます)。
逆に想像できなかったのが「血」。
「くれたのだと思った」なので受け身だからだろうか。他にも「水」「酒」「雨」はイメージできるけど(はい、もう、書くのはやめておきます)「血」は無理だなぁと。
「血」は赤い。情熱→瞬発力…どうも、この歌と合致しない。
この歌の「極上の一滴」が、私には透明に見えたせいかもしれない(え?精子は透明じゃない?白っぽい?よくわかんなーい!)。
読み手の自由のはずなんだけど、透明限定なんだよなぁ。私という人間の枠組みでは。
あ、でも、ドラキュラだったら、「血」で思うところはあるかもしれない。
もしも、この歌を、ドラキュラが読んだら……、「血の一滴」でも想像できるし、「トマトジュースの一滴」でも想像できる(のか?)。
ドラキュラ……不老不死……、あら?『終わらない物語』というフレーズにつながるじゃないのぉぉぉぉ!いけるじゃないのぉぉぉぉ!きっとドラキュラも思いを馳せる。
透明限定の想像力の畑が、耕されて、「血」の一滴の想像が出来ちゃった!
うれひー!脳の畑がまた豊かになっちゃった!
懐の深い歌は、読み手が遊んでも揺るがない。そんな風に読まれても作者は揺るがない。いや、揺るむ場合もあるか。人だから。その時は、作者の声に耳を傾けて。
その歌のおかげで、豊かになれたことの感謝だけは先に伝えて。それから謙虚に耳を傾ける。
遊ばせてもらいました(遊びすぎたかも知れません)。
明後日に続く(明日は寝る。肩凝った)。