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備忘録(映画感想文『犬王』)

見終えた後、夫はトイレへ。
私は犬王のグッズをなんとなく眺めて待っていた。

買う気はない。ただ、瓢箪で作った犬王のお面がジブリの初期作品に出てきたロボットのキャラクターの顔に似ていたなぁと思ったので、クリアファイルにあるその顔を改めて眺めていただけだ。

しかし、トイレから戻ってきた夫は、「パンフを買うかどうか悩んでる?」という疑いの表情で背後から近づいてきた。
パンフの購入は、感動の証し。
違う違う、という意思を示すために、その場を離れ、駐車場に向かって歩き始めた。

『シン・ウルトラマン』と違って、この映画は私から見たいとお願いして観に来たものだ。第一声は私から。

「不覚にも、泣きそうになってしまった」「どこで?」

食い気味に聞き返されたので、笑った。パンフは買わなかったが、面白くなかったかと言えば、それもまた違う違う。

この映画は、読むものじゃない。ノるものだ。


この映画の好悪の分かれ目は、見ている人がまず、モブキャラになれるかどうかだ。

極端な話、主役の犬王や友魚を理解できなくても、感情移入出来なくてもいい。

モブキャラ、つまり、犬王と友魚たちのパフォーマンスに熱狂している室町時代の名もなき人々と同じように、映画の観客としてではなく、彼らの歌に、演奏に、シンクロできるかどうかが、分かれ目だと思う。

で、私はどうだったのかというと、もう、女王蜂のアブちゃんが犬王の声をし、歌っているということを知ってるだけでモブキャラ化していた。

女王蜂の熱狂的なファンとは言えない。ライブに行ったことはないし、どんな歌を歌っているかなんて説明できるほど知っている訳でもない。

でも、テレビでのパフォーマンスを見たり、コメントしているところを見るだけで、胸が締め付けられる。歌に魅了されているのは勿論なんだけど、なんだろう、その振る舞いに胸が締め付けられるのだ。

なんて繊細な人なんだろう、と。

遊び終えた夕暮れに手を握って「一緒に帰ろう」と言いたくなるような気持ちにさせる人が、私にとってのアブちゃん。

明日会えるかどうかは分からないけど、約束のしるしに、絶対手を繋ぎたくなる人。いや、手を繋がせてほしい人。

琵琶の音が入り混じるとはいえ、一般的な和風なパフォーマンスではない彼らに、ついて行けない感じを持ったとしたら、この映画はきっと面白くない。

脚本も良かったし(『逃げ恥』の脚本家さんなんだって)、パンチの利いたキャラ設定だけど、なんといっても、この映画の見どころは、ライブだから。

で、さらに、少しでも、『平家物語』を知っていると、あの派手派手なライブも、神聖なものに思えてくる。

特に、都落ちの場面や、壇ノ浦の合戦のことを『平家物語』がどう記しているか少しでも知っていると、騒がしくもあの歌詞が、鎮魂をしていることがリアルに分かるし、ネタバレになるので詳細は書かないけど、何故そんな演出をしているのか、というのも分かる。

私は今年1~3月にかけて見ていた、アニメ『平家物語』の記憶がまだ残っていたから、ラッキーなモブキャラとして味わえた(因みに同じアニメの制作会社が作ってます)。

映像で印象的だったのは、友魚が見えない眼の網膜を経由して外の世界を見ている時の映像。物体を揺らぎで表現しているあの感じ。観客を友魚と同化させるあの見せ方。すごい。

キャラに感情移入出来なくてもいい、が、基本だけど、琵琶法師たちの覚一座の座長、覚一さんと、友魚の兄弟子、谷一さんは、ギラギラの中の清涼剤っぽくって、悲しかったけど、救いの存在でした。


『どろろ』の要素が入ってたね」と、運転しながら夫が言った。

そういえば、最近ネトフリで見た、2019年1月 - 6月に放映されていたアニメの『どろろ』の前半の主題歌って、女王蜂が歌っていたことを思い出す。

「そうだね」と答えながら、ふと吉田拓郎とか尾崎豊という名前が浮かんだ。

歌(歌手)が政治性とか社会性の象徴になるようなことはもうないのかな、とふと思う。

犬王や友魚はそれを南北朝時代の「能」で成したんだな、と、フィクションだけどそう思う。

歌(歌手)であっても、「能」であっても、アニメであっても、それ以外でもいい。

モブキャラの私は、エネルギッシュなものに、ただただ魅了され続ける一生であるために、どう生きようかしらね、と、車の中から外を眺めつつ、浮かんでは消える感情や思考を反芻していた。

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