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備忘録(読書感想文『まだ知らない青』③)

【五行目に焦点を当てて】

書き下ろしの歌があるのかどうかわからないが(※コロナ禍の間に、2割ほど歌を差し替えているとあとがきにあるが、それが書き下ろしかどうかは不明)、歌集の歌って、ほとんど2段階以上作者に見定められている。歌会とか歌誌に出すかどうかで1回目、歌集に掲載するか否かで2回目(歌会→歌誌→歌集だと3段階も!)。

つまり、掲載されているだけで十分「選抜メンバー」だ。

なので、ここに取り上げる歌は、とても機械的にルールを決めた。
個人的に五行目が響いた歌を十首挙げることにした。

「私ならこの五行目のフレーズの歌が好き」とか「私なら三行目のほうが響く」とか、そんな自分の歌の好みを探る参考にして頂けると幸いです。

【確かめられない五行目】

詩歌って何?という答えのひとつに、面と向かって相手に言えない(聞けない)想いを言語化(書き言葉)にしたもの、と、定義づけることができる。

相手に面と向かって聞けば、あからさまになり、変質し、あらぬ方向へいってしまって、意図するところが伝わらない想いというものを、誰もが胸の内に宿したことがあるだろう。

それを心の裡のまま外へ出せる(表現できる)手法のひとつとして、詩歌というものがある。

特に相聞歌(恋歌)にはそういう典型が沢山ある。

これから挙げる三首は、一番最初の章『咲くちから』からの歌。自分の感性を信じれば、この甘酸っぱさは、恐らく水源氏の初期作品群なのだろう。

伝えたくても伝えられない、確かめたくても確かめられない想いが甘くほとばしっている。思いっきり、切ない。

あのひとは
わたしのこと
きっと
きらい
だって一度も

“だって一度も”……なんなんでしょう。このつんのめる感じの五行目。薄皮なのに、破ることの出来ない五行目。
「きっと」という不安定な前置きがあるものの、「きらい」という言い切り。その理由に口をつぐむギリギリ。
言うに言えない想いの言語化が詩歌だと前述したが、それすらもつぐむ。崖っぷちにいるような激しさを呼び起こされて胸が締め付けられる。

ああ、好きだなぁって
会うたびに
思ってしまう
あなたもそうだと
いいのだけれど

“いいのだけれど”……どうなんでしょう。私にもわかりません五行目。深呼吸をしているように爽やかに「好きだなぁ」と感嘆している。会えば深呼吸。会っていなくても普通の呼吸レベルで「好き」と思っているのだろう。が、「あなた」はどうなのだろう。聞けば、その答えは、例え笑って答えてくれたとしても、強要・強制になっているかもしれない。その怯え。恐らく願望、いや、祈り、もしかしたら、感謝にも似た想いなんだろう。

私にもわかりません。「あなた」がどう思っているか。わからないけど、そうだといいね。

ふれ合うことは
ごく自然
という
ふたりの肌は
たぶん

“たぶん”……どうしようもないんでしょうよ。五行目。背徳の匂いがしないでもない。社会的には不自然な肌合わせでも、ふたりにとってはごく自然という読み方もできるかもしれない。恐らくこの一首のみ読めば、この解釈だけで終わっただろう。

ただこの歌は、前述のとおり、歌集の最初の章に載せられていて、歌群を読み進めた後半でこの歌に辿り着くと、離れることの方が不自然な肌と感じているのかな?と思える。このまま自然な流れでいけば、たった一人の相手を選ぶ時が来た、と予感をし始めているのかな?と。迷うことが許されない、そのどうしようもなさに、少し戸惑っているような響きを感じた。

【いらないんじゃね?いるんじゃね?五行目】

タイトルにインパクトをつけたくて【いらないんじゃね?】とも書いたけど、作者が書いている以上その歌には、その五行目が必要だ。

何故【いらないんじゃね?】なのか。
何故【いるんじゃね?】なのか。

二首、その読解を試みる。

悪性リンパ腫と
知りながら闘い
知りながら私には隠し
笑っていた
いつも

.いつも……雨の日も風の日も検査の日も笑ってたんだね、五行目。もしも、この歌を本歌取りして、短歌をつくれと言われたら(いや、しませんけどね)五行目を削り、「笑っていた」を強調し、読み手の想像に委ねるやり方を、思いついただろう。状況は、四行目までで十分語り尽くされている。二行目から三行目にかけての対比でも十分伝わってくるものがある。そういう意味では【いらないんじゃね?】なのだ。

だが「いつも」があることで、読み手は、作者にしか見えない景色があることと(※歌集を読めばわかるのだけど、悪性リンパ腫と闘っている人は、作者の当時20代の弟さんです)弟さんの痛みを想像をしてしまう。いや、作者が読み手に向かって、想像させてくる。恐らく、作者は一番伝えたかったことを「いつも」というたった一言に背負わせたのだ。

「いつも」があるだけで、弟さんのお見舞いに行った時のなんとなくスルーしていた「あの時」や「あの時」を回想したであろう作者を読み手は思い浮かべる。もしかしたら、作者はやりきれない思いに圧迫されたのではないか。

「いつも」があるだけで、「笑っていた」弟さんが聖人君子ではなくなる。健康体の人でさえ、「いつも」を平たんに歩いている人はいない。大なり小なり凸凹の日々を過ごしている。恐らく病院のベットの上の、弟さんの「いつも」の大なり小なりの凸凹の日々は、命の灯と直結していただろう。
痛みや心細さをひた隠しながら、お姉さんである作者の前では「いつも」「笑っていた」のだろう。

表情下の「そこまで頑張らなくてもいいのに」と言いたくなるほどの悲痛な精神力を、絞り出している弟さんのイメージに変わる。

もしも四行目までの言葉で、どこかを区切り、五行にしていた五行歌なら、テレビの向こう側でよく放映されている難病もののドラマのように、美しさと悲しさで、この歌を私は眺めていただろう。だが「いつも」とあるだけで、悔しさや苦しさが滲みだす。その苦味こそ、作者が放ちたかった感情なのだろう。だから【いるんじゃね?】になるのだ。

壊れて
砕けたものたちが
ふたりの足元でもう
輝きはじめている
きれい

きれい…汚くなくて、何より。五行目。この歌も状況は、四行目までで十分説明されている。四行目「輝きはじめている」と「きれい」が重複していると言えば重複しているからだ。そういう意味では【いらないんじゃね?】と言える。

が「輝きはじめている」は客観で「きれい」は主観なのだろう。そこにはちょっとした隔たりがあるように思え、【いるんじゃね?】を示唆する。

「壊れて砕けたものたち」とは何だろう。最初に思ったのは『信頼関係』(次に思ったのが、恐ろしいほどの喧嘩でお皿とかの割れた破片で、キラキラ……こんにちは。横道逸れ太郎です。忘れて下さい)。

『信頼関係』は結ばれると熱を帯びるが、壊れると急速に冷める。「輝きはじめる」はテンションが昇り始めるのを連想させるが「きれい」はひらがな表記というのもあって("綺麗”だと“輝き”と同等になっちゃう)、平たん。

三行目のしっぽの「もう」がもし四行目あたまについていたら「輝きはじめている」を強調し、その変容の速さに、感嘆の感情が湧いてるように見えるが、作者の言葉の運びは、あくまで三行目のしっぽ。変容の速さに、それなりに驚いてはいるが、なんの感情も湧かなかったのだろう(言い過ぎ?)。

この歌は、少女漫画の瞳に例えれば、状況はおめめぱっちりお星さまキラキラの『ベルばら』のマリーアントワネットの瞳のような状況を説明しているのに、作者の内面は頑張っても、紡木たくの漫画のキャラの瞳(いや、本当の本当は、もっと細い『呪術廻戦』の加茂憲紀の糸目レベル……)の心情だったんじゃないだろうか(あくまで、瞳の形が、です。こんにちは。横道……)。

五行目の一見重複した言葉のチョイスの違和感から始まり、掘り起こせば、次々と立ち現れる二重構造。美しい思い出になりそうな流れを、よくも悪くも無関心になった、作者の冷めた断ち切りが伝わってくる。ドロドロの汚さで、ふたりの足元が汚れてないだけでも、救いの歌。


……半分の五首書きました。

これ読んでる人、疲れていませんか?
ごちゃっとしていませんか?

選んだ残りの五首を切り捨てて、セレクトしたことをなかったことにしようかと思ったけど、それはそれで、なんか、歌に対して、心苦しい。

それにしても、一首につき書く文章、だんだん増えてね?
横道逸れ太郎君、楽しそうじゃね(消したらいいんじゃね)?

④へつづく(次こそが完結です)

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