豊臣秀吉と庶民経済
・今日は。
5月も終わり、梅雨に入りました。
色々と忙しく、往生難儀しております。
あれだけの文を書くと、調べ物や
時間を割いて、合間に書くと大変な時間になりました。
たま〜に見てる人は・・・おりますでしょうか?
もし、フォローしてても、ふらっと見てくださる人も気長に見て下さい。
さて次は、「信長」の次はとなると、
やはり「豊臣秀吉」です。
「信長」は「社家」と言う出自を使い、
「南朝」に関わりのある、「寺社」の
「神人」や「供御人」などの「商工者」を
取り込み「自由経済」にしつつ「管理」して、
「伊勢湾」と「東海地方流通」を「牛耳り」、
「大きく」なりました。
その配下は、「元甲賀衆」で「謀略」と「砲術」の「天才」の「滝川一益」。
「美濃の名族」にして、「京・畿内」を回り、
「礼法」や「砲術」、「政治・外交」も
出来る「秀才」にして、「畿内の管轄者」の
「明智光秀」。
「前田利家」、「佐々成政」、「池田恒興」、
「金森長近」、「川尻秀隆」など、
若かりし「信長」の「傾奇者」、「ヤンキー時代」
を共にし、「織田家」を支えた「尾張衆」の
面々。
そして「豊臣秀吉」ー・・・・
「織田家」は、「自由経済」で「手にした富」で
「多くの名士」を抱え、「力を着けた」。
確かに「信長の政策」の中には「他の大名」の
「やった」、「旧策」が多いですが、
やはり「登用」した「出自」を見る限りには、
「織田家」の「革新的自由主義」を見る事が
できます。
その中で見出され、且つ「織田家の象徴的名将」こそが、「秀吉」でしょう。
・・・・なのですが、「その割」には歴史的に
知られいる事実以外は、「全く」の「謎」で、
解らない事が多い。
ですが「秀吉」は、「最近」は「信長」や
「家康」に比べて「晩年」の「醜態」や
「功名心」にある「残虐的狂気」故に
どうも「評価」が落ち、「人気」が無い。
しかしなれど、「厳しい私見」ですが、
「自分の好悪」と、「人気」と「歴史的評価」を
「混濁」しない方が良い。
「自分の好悪」は、「感情」で、「人気」は
「人望」や「名声」だ。
ましてや「歴史的評価」とは、「政策」や
「実績」と言う「実証的論拠」であり、乃ち
「行動事績」である。
詰り「この国」の「流れ」を「良く」し、
「悪く」したのかに於いて「鑑みる」事であり、
そこに「感性」や「推察」、「考察」を
入れて「意見」するのは「良い」。
然し、「端」から「信長」は「カッコイイ」やら
「秀吉」は「狂ってる」とか「家康」は
「冷たい」とかで「見る」のは、「浅はか」で
「歴史」とは「過去」の「実績データ」なのだ。
「好悪」、「名声」では無く「この国」における
「事績」である。
故に、「秀吉」は「秀吉」である。
「私見」ではあるが、「太閤記」は好きで
「秀吉」の立身出世話は「胸がすく」し、
「人たらし」の所は、秀吉の「辛苦」があるからこそ出来る、「情け」で「芸当」だ。
「秀吉の狂気」や「唐入り(朝鮮出兵)」も
「秀吉の心理」と、「生育形成」から見ると
「心理的」に解る所で、此れは「最後」で話すとしよう。
さて「本題」に入る。
よく「秀吉」は、「百姓」と言われ、「農民出身」
と言われて来ていた。
最近は「否定」されており、「サンカ(漂泊山民)説」、「商人説」が出てきている。
然し、「私」は「もう少し穿った」見方をしている。
秀吉は「商工人」の「頭」であった「可能性」が
「高い」のだ。
と、言うのも「秀吉」の周りには「百姓」とは
違う、「職人」や「商人」、更に「川並」と
呼ばれる「川の民」や「流民」が多い。
更に言うと、「秀吉」の行った、「政策」や
「軍略」が「農民らしくない」のだ。
・秀吉の親族と商工人
・更に、家系図を見よう。
ここでは、「技術的」に「著作権的」に
「ムリ」なので、「パソコン」で検索しよう。
まず見てほしいのは、「父母」の家系だ。
まず父「弥右衛門」の方が全くわからず、
断片的だが、然しよく見ると「弥右衛門」は
「織田家」の「足軽」で「足」を「負傷」し、
「隠棲」して「暮らした」のだ。
「文献」では、「鉄砲足軽」と記されており、
「信秀」の代の「足軽」なので「無理」があるが、
然し此れは、「伝記の著者」の「誤記」か、
又、「秀吉」への「配慮(一応、天下人)」の
「粉飾」であろう。
この弥右衛門の出自について、少し調べたのだが
彼は「鍛冶屋」で、元は「美濃関(岐阜県関町)」
の彼は、「関兼貞」とされており、
「刀鍛冶」であったとされるのだ。
と、すれば「足軽」と言うのは「合点」が行く。
実は「刀鍛冶」や「鍛冶」は、「戦」では
「重宝」がられ、「足軽」や「人足」として
「徴用」された。
それもそのはずで、「刀鍛冶」は「武器鍛冶屋」な
訳で更に「鍛冶屋」と言う事は、「研屋」や
「柄」や「鞘」を作る「柄師」や「鞘師」も
いる。
詰り「刀・槍」や「鎧」の扱いに慣れている。
もし「戦」で、武器が壊れたとしても、
「鍛冶屋」や「職人」がいれば「修復可能」だ。
更に「武器に慣れている」なら「使い方」も
「多少の練習」で「戦える」のだ。
更に「鍛冶屋」の中で「刀」以外を造る、
「鍛冶屋」を「村鍛冶」や「野鍛冶」と言い、
彼らは、「鉄」がある所を「転々」とし、
「各地村々」を回っていた。
そして「野鍛冶」は、「滞在」する時は、
河原などに、「工場」を造り一から「炉」から
「鞴」まで造りまた「鉄を作る」ため、
「鑪」までつくるのだ。
つまり、「工場」に「製鉄所」をまである様な
ものだ。
何故「河原」かと言うと、「昔」は「鉄鉱石」では
無く、「砂鉄」から「製鉄」をしていたのだ。
更に、「鉄」を入手しようとすると、その「輸送経路」は、「水運」だ。
また「燃料」の「炭」や「薪」は、「重く」、
「陸路」で「大量」の「炭薪」を運ぶには、
「無理」がある。
だからこそ、「水運」に「有利」な、
「河原」に「居住」していたのだ。
その為、「鍛冶屋の町」には、大きな「市」が多く、「関」や「長船」は、「市場町」であった。
また、「鍛冶屋」とて、いっつも仕事があるとは
限らない。
その為、「野鍛冶」、「村鍛冶」の中には、
「黒鍬」と言い、「黒い鉄鍬」をもって、
「河畔工事」や「築堤工事」、または「道路整備」
更に「死体の収容」などもした。
「鍛冶屋」なので、「鍬の刃」は何時でも
「手入れ」出来、「作れる」し、更に
自らの工場を作るために「土木建築」は得意だ。
「野鍛冶」は、「荒れ地」を耕した「小さな田畑」を「持ち」、「農閑期」や「仕事がない」時は
「手間稼ぎ」の「出稼ぎ」で「黒鍬」として、
「土木建築」で生きたのだ。
秀吉の「一族」は、「他」にも「商工者」の
「親戚」が多い。
「秀吉」の「母」の「なか」の「姉妹」に
「松雲院」がおり、「彼女」の夫は、「福島正信」であり、その二人の子が「福島正則」であり
「福島正信」は、「正則」が、「武士」になった
後の「名前」で、元は「市兵衛」と言う、
「桶屋」だ。
また、「なか」の「従姉妹」や「妹」共
言われる「伊都」は、「加藤清忠」に嫁ぎ
「加藤清正」が生まれている。
「加藤清忠」は、「斉藤道三」の「家臣」で、
「戦」で「傷」を負い、「武士」を「廃業」した
と言う。
その後、「津島」の「鍛冶屋」の「清兵衛」の
子のが「伊都」を娶り、「鍛冶屋」をしたと
される。
つまりは「正則」より「清正」の方が「一つ格上」になる。
何故、「清正」と「正則」が「ライバル」だったのは、「元武士の子」の「清正」と「桶屋の子」の
「正則」が互いに「競っていた」のかもしれない。
また「桶屋」にとって「鍛冶屋」は「ノミ」や
「鏨」を作ってくれるため一番の「相性」のある
「職業」であり、「福島家」と「加藤家」を繋ぐのが「秀吉」の「母」の「なか」の「木下家」である。
また「秀吉」の「父」の「弥右衛門」は
「美濃・関鍛冶」の「関兼貞」であるとされる。
また、「秀吉」自体も「異本」で「国友鍛冶」や
「近江鍛冶」の「手伝い」をしていたとされ、
秀吉と「鉄」、「鍛冶」とは深い関わりがある。
また、秀吉の姉「とも」は、「三好弥助」に
嫁いだが、その「弥助」の妹が「伊勢長島」の
「大島親崇」の「嫁」である。
弥助は「名字」が無かったが、「大島氏」は
元は「三好氏」であり、多分元は「低い身分」だが
「秀吉」が「出世」したため、「秀吉親族」の
「弥助」も武士となり、「親類」の「大島氏」の
「本姓・三好氏」になり「養子」になったのだろう。
また、「当時」の「宗教」は「教団」を守る為に
「軍事」、「経済」を牛耳り、「一大世俗勢力」と
なっていた。
「本願寺」率いる「浄土真宗」教団は、「商業」、
「皮屋」、「芸能」、「武士」など「社会悪」を
「肯定」し、「商工者」や「賤民」を「多く門徒」を「従えた」。
「賤民」、と言っても「頭身分」は「富裕層」も
多く「配下の賤民」を「武装」させ、
「地域」の「物乞い」や「芸能」、「皮革」の
「利益」を「蓄え」、「大名」と「張れる」
、「力」があった。
然し、「力」があっても「社会地位」がない。
そのため「社会的必要」があっても
「宗教」も「社会」も「蔑む」。
そこで「鎌倉時代」に「今まで」の「仏教」の
「差別階級的」な構造を「変える」ために
「親鸞」や「日蓮」など、「鎌倉新仏教」を
「作った」のだ。
これは、「他の回」に回すが、特に「浄土真宗」は
「下層民」や「庶民層」、「商工者」などが
多く、「流通」や「庶民金融」の「土倉」や
「納屋(倉庫業)」などがいた。
さらに「芸人」や「流民」、「遊行僧」、「聖」など「流浪の民」、「半俗半僧」の「宗教民」などの
「自由民」が、「信仰」しており「すべての悪」を持つ「人間」を「救い」、「見捨てない」阿弥陀を
信じ、「自らの生業」に生きる「真宗」は、
「辻々」の「宿市」や「港」、「河原」に
「寺院」、「道場」を作り、そこを中心に
「町」を作り、「河川」の「流通」を使い、
「経済力」と「布教」を「拡げた」。
更に「悪人(悪を自覚する人)」は「救われ」、
「念仏」をすれば、「救われる」と言う「浄土真宗」は「他宗」からの「誤解」と「排撃」を
受け「焼き討ち」された。
そのため、「御坊(寺院)」を中心に、壁で
町ごと囲み、一つの「城郭都市」とした。
之を「寺内町」とよぶ。
寺内町は「日蓮宗系」の寺院にも見られるが、
とくに軋轢の多かった寺院に多い形だ。
更に言うと、「本願寺」はただでさえ
「賤民」などの「アウトサイダー」や「マイノリティ」が多く「民衆・信者主義」であるため
「弾圧」を受けたが「土倉(質屋兼酒蔵)」
「納屋(倉庫貸)」、「職人」、「聖・山伏」、
「商人」など「多くのパトロン」もいる。
そして「浄土真宗」は彼らの行きやすい様に、
「中洲」や「河原」、「港(海岸)」、
「市場」、「河岸」、「岬」など「流通の要所」に置いた。
実は「戦国大名」が「本願寺」と戦ったのは、
只の「反抗性」だけでなく、「流通の経路」を
握っていたため、「領内統一」の支障となり
「争った」のだ。
・寧々の実家と連雀・川並衆
・さてこんな事を長々と話したのは訳でもない。
実は「秀吉」に大きく関わるのだ。
「秀吉」の「養父」の「竹阿弥」は「阿弥」と
付いているので解るように、「竹阿弥」は
「同朋衆」であり、「信秀」の「同朋衆」であった。
「同朋衆」とは、「お付きの道化師」であり、
「阿弥」の名の通り、「浄土教」である
「時宗門徒」だ。
「同朋衆」は、「技芸」に生き、「書画」
「茶の湯」、「生け花」など「大名」の
「スタイリング」、更に「知識」や「教養」を
活かし、「知恵袋」、「話し相手」また
「連歌師」、「右筆」をした。
その殆どは、「落ちぶれ武士」や「算所者」と
呼ばれる「賤民」だ。
更に最近は「竹阿弥」と「弥右衛門」は、
「同一」で、「同じ人物」だと言われる。
それも「道理」が通る話で、「怪我」をし
「隠居」して、「法体」になったとも
「考えられる」。
また「秀吉の妻」の「寧々」の「家系」も
「面白い」。
まず「寧々」の「実家」は、「木下氏」なのだが、
この「木下氏」は「播磨国杉原(兵庫県多可町)」
におり、「杉原氏」を称していた。
然し、どういう訳かわからないが、落ちぶれてしまい、尾張に「落ち延び」、「木下氏」を名乗ったとされる。
そして、「木下氏」と「杉原氏」は以来「親族」として「付き合い」、お互いに保っていた。
その証左に、「織田家臣」に「数人」の
「木下氏」がおり、その中には「奉行・代官」として「活躍」していた。
また「織田親族」だが、「馬廻」になっている者もいる。
「奉行・代官」となれば「実務・行政」に優れていないとできないため、「地侍・領主」などの
「富裕・支配層」でなければ出来ない。
更に、寧々の兄「杉原家次」も面白い。
何と「家次」に関して言えば「連雀商人」で
あったのだ。
「連雀商人」・・・と聞いて何だか解らんと言う
人が多いだろうが之も別回で細く言うが
今は「山伏などから派生した行商人」として
覚えてほしい。
その殆どは、「山伏・聖」や「浪人」や「落ちぶれ者」だ。
多分「杉原家次」も、「何らか」で「落ちぶれて」
「連雀」になったのだ。
それは先程も言った、元は「播磨」にいたが
「尾張」に来た事と、「関係」してるだろう。
また「木下家定」は「奉行クラス」、
「杉原家次」は「商人上がり」。
「秀吉」が「経済」に明るく、「金策」が
上手いのは「そこ」だろう。
「不思議に思う事」が無かっただろうか?
「秀吉」は「織田家中」の中では
「身分低く」、「領地も少ない」。
なのに「墨俣」やら「三木」や「鳥取」の
「干殺し」(経済封鎖)など「経済戦争」に
「強い」。
実際、秀吉が「実入り」が多くなるのは
「近江・長浜」を貰ってから、否、それでも
「大所帯」で大変だ。
なのに「実入りが少ない」秀吉が何故そんな
「戦い」をできるのか?
「答え」は「借財」だ。
つまり「商人」たちに「借金」をし、其れを
「戦費」に「充てがう」。
代わりに「戦勝」したら、「褒美」や「戦利品」で「返したり」、「領地」の「商業権」を
「与える」。
そうする事で、「恒久的」に「金借り」を
「出きた」のだ。
つまり「秀吉」は、「優しい」訳では無く、
むしろ「金の為」に「戦う」、ある意味、
「冷酷・残忍」な男でもある。
「干殺し」なども「傷付けたくない」ではなく
むしろ「領地保全」のため、「金の為」だ。
さらに「干殺し」の方が「残酷」だ。
カンタンに言えば、「食糧」を与えず
「餓死」させる「経済封鎖」なのだから
「惨たらしい」のだ。
寧ろ「戦火に晒さず、すぐに経済を立て直せ
且つ商人に割当できる」というだけだ。
そうすると、「信長は?あの人は経済観念に明るいし、秀吉は信長の遺志を受け継いだのでオリジナルがないんじゃ?」とお思いの方もいるだろう。
然し、「信長」はある意味で「お坊っちゃま」で
いわば前回で言った、「守護代」つまり「守護」の
「代官家」の「若様」で、「経済観念に強い」とは
言え、「若社長」が「経営学・経済学」が
「解り」、「敏腕家」なだけではっきりと言うが
「それだけ」で、「庶民感覚」や「商才」は
「無い」。
然し「秀吉」は、「産まれ」は「百姓」とは言え
その殆どは、「旅商い」で、更に「サンカ」やら
「商人」出身とさえ言われている人物だ。
また「百姓」と言う言葉も「厄介」だ。
「百姓」とは「百の姓」、つまり「多くの家」があると言う語で、つまり「農民」では無く、
「庶民一般」である。
更に突っ込んで言うと、「近世・近代」と
「中世」の「百姓」だと、「意味が違う」のだ。
「中世の百姓」とは、「色々な家」、つまりは
「農民・商人・職人」の意味で「百姓=農民」は
「朱子学」の広まる「江戸期」なのだ。
(姓は、氏=血族的氏族。姓=身分的氏族と覚えると良いだろう)
そのため、「百姓」と言っても「農民」では無い。
それだけ、「秀吉」は「商人的」、又は「都会的」なのだ。
寧ろ、「農民」と言っても「例外」が「ある」。
じつは「江戸時代」でも「水呑百姓」と言い、
「村身分」で「農耕」をしておらず、「田畑無し」の「農民」がいるのだ。
では、「どうしてたか?」と言うと、そこが
「秀吉」を解く「カギ」だ。
つまり、「竹細工」や「桶」、「鉈」や「鎌」や
「鉄物」を作り「売り歩いていた」のだ。
つまり「田畑を持ってない」から「水飲んで生きている」と「侮蔑」され「村」に住んだ「庶民」がいるのだ。
つまり「秀吉」の家は、「細工物」を売る
「零細農民」で、然し「一応」の「資産」まで
行かなくとも「職人」を「束ねている頭」の
ような家だった可能性がある。
さらに「弥右衛門」の家は「元から木下を名乗った」とも「書いてある」のだ。
「おいおい、秀吉如きに名字なんてないだろ」と
言うだろう。
しかし、「名字」とは「底辺の身分」でも
「名乗れる」のだ。
実は「名字」がなくなったのは「江戸期」に
「庶民の名字」を「公的場面」での「名乗り」
を「控えた」ので、「庶民」が「名字」を
「使う場面」が無く、「忘れた」のが「事実」だ。
なかには「名字」が無い一つがいたが
それは「氏姓」が無い「だけ」で、つまりは
「名字は名乗れた」のだ。
じゃあ名「名字とは?」と言われればそれは
「屋号」みたいな物だ。
つまりは、「こういう事」だ。
「屋号」とは、「その家のニックネーム」みたいな
もので、つまりは「家名」であり、「氏名」で無い。
例えば「地方出身者」なら分かるかもしれないが
「片田舎の村」へ行くと、「名字」より
「家名(屋号)」で呼ぶ「村」も多く、
それは「同じ氏族」だったり、「親族」が
「多い」ので、「家業」や「字(あざ)」
「通称」で呼ぶ「習わし」がある。
「家業」なら「桶政」、「傘徳」、「鍛冶屋」
「筬屋」、「番匠(大工)」など、その家の
「職柄」と「名前」でなる。
「桶政」やら「傘徳」なら、「落語」や「時代劇」
「博徒の一家」でも見聞きするし、
「鍛冶」、「筬屋」、「番匠」、「大工」は
「名字」でもある。
更に「字」は、「厄介」だが「字」とは、
「村」や「町」などの中で、「極小」の
「地名」で、「地区」や今では「〇〇ハイツ」とか
「何々荘」みたいな所や、「何とか学園前」の
様な「地名」で、いわば「小地区」だ。
その中で「大きな地区」を「大字(おおあざ)」。
そして、「小さな地区」を「小字(こあざ)」
と言う。
この「字」、実は結構な確率で「名字」の由来なのだ。
この「字」は、「田地」を「区分」を表すもので、
「農民」の「私有地」を表す。
その為、字は一つの「所有地」を表す。
つまり、其処に「家」や「田地」があれば
その「字」で「呼んでいた」のだ。
さらに例え、「田地」を持っていなくとも、
「家の立地」で「呼んでいた」のだ。
家が「坂の上」なら「坂上」、「坂の先」なら
「坂崎」。
また「井(水路)の上」なら、「井上」。
「関(堰または門)の口」にいるので「関口」。
「田中・中田」などはそのままで、
別に田畑なくとも、その「在地」が判ればいいので
「字」や「地形」を名にしているのだ。
調べてみたら、「愛知県犬山市」に
「木ノ下」の地名がある。
秀吉の誕生地は「名古屋市中村区」の辺りなので
違うが、木ノ下(木下)なんて地はザラだ。
恐らく、「秀吉の生家」は「大きな木」の
「下」にあったのだろう。
また、「秀吉」は「若い頃」は「針の行商」をし
また「宣教師」が書いた書物には、「樵」と
言われている。
「針」は、「何かと何かを縫う」ため
「呪具」の役割があり、「市開き」の時に、
「施し」として、「乞食」、「非人」を
集めて、「針」を撒き、「拾わせた」のだ。
また「樵」と書いたが、「樵」は
「山主」になるので、「領主的」なのだ。
その為どちらかと言うと、「秀吉」は、
「薪」を拾う、「薪売」であろう。
又、「桃太郎」でも「おじいさん」が
「山へ芝刈り」へ行くがそれは、「身寄り無し」
や「寡婦」、「孤児」、「老夫婦」など
「社会的弱者」は「あまり生産性」の「無い」、
「柴薪」や「木の下草」を「撮っていい事」に
なってた。
「西洋」の「落穂拾い」もそうだが、「弱者」には
「一応」の「生産性」の「無い」、「落ちた物」は、「拾って良い」、つまりは「拾いもの」は
「個人の霊」が「取れた」、「中立な物」である。
これは「商業民俗」だが「モノ」には
「作り手」や「所有者」の「霊魂」が「込められて」おり、その為「商業」は「モノとモノ」が
「交わる中立地」たる、「宗教施設」が
「多かった」。
そのため「残り物には福がある」とは
「最後に残った物は全てから切り離された神仏の物」であり、「わらしべ長者」の「わらしべ」も
「長谷観音」から贈られた「落とし物」だ。
これが「秀吉」を解く「カギ」だ。
―「鉄」、「山」、これから話す「川」ー
それが「秀吉」の強みだ。
・さて、「こっからが本番‼」
秀吉の「嫁」の「寧々」の「義理の兄」の
「浅野長政」は、「浅野長勝」の「養子」で
「浅野氏」は、「土岐氏」の流れで、
「武功夜話」などに「分限者(資産家)」と
され、「一宮市」にあたる「浅野郷」の
「土豪」であったが、「一宮」あたりは
「木曽三川」が「流れて」おり、
そのため「浅野氏」は、「武士」でありながら、
「金貸し」や「流通」を以て「生きていた」のだ。
その為、「浅野氏」は「弓大将」ではあったが、
「養子」の「長政」は「財政・内務官」で
あった。
また「長政」は「実家」は、「安井家」だが
この「安井家」は、「歴史好き」には
「有名」な「川並衆」の「一員」なのだ。
では、「知らない人」のために「川並衆」とは
何かと言うと、言わば「川筋の地侍」と
「川の人足」による、「連合党」である。
「川並」とは「川並人足」と言い、
「川」で「材木」の「筏流し」や、「荷運び」を
する者たちで、現代の「東京・木場」でも
「川並さん」と呼ばれる人がおり、
地方では「筏師」とか「ワタリ」、「タイシ」とも
呼ばれている。
彼らは「軍記物」などにしか出ないが
「平時」は、「人足」として「荷運び」や
「護衛」、「船頭」として「働く」が、
「いざ戦」となると、「傭兵」や「乱波(忍び)」
となって、「戦働き」をする。
さらに、「川筋」の「船」を「襲って」、
「金」を「巻き上げ」、「拒否」と「むりやり」
でも「盗る」荒くれ者だった。
「有名所」では「蜂須賀小六」の「蜂須賀氏」、
その「義理の兄弟」の「前野長康」の
「前野氏」。
また、「青山氏」、「和田氏」、「稲田氏」、
「長江氏」、「梶田氏」、「松原氏」、
「川口氏」、「日比野氏」などがあり、
その「殆ど」は、「木曽三川」の側の
「美濃」、「尾張」、「伊勢」三国に
跨ってる。
彼らは、「互い」に「婚姻」し、「同盟」を組んて
「河川」での「利権」を「守った」。
そして「川」は、「誰も属さない中立」の
「公界」と呼ばれた場所で「大名」でさえ
「手出し」できなかった。
そのため、「河川」では「川の港」や「宿場」が
「栄え」、「独自経済」を保ったのだ。
「秀吉」が「経済」に「明るい」の「ここら辺」が
「理由」だろう。
つまり「秀吉」は「商人」や「職人」、
「流通人」が多く、その為「投機的」な
「手法」をとったのだろう。
「農民・武士」は「必要な額」を「借入れ」、
「計画的」に「返す事」はない。
「自給自足」である程度は、「経済なし」でも
「生きられる」のだ。
さらに「秀吉」は、「川並衆」に「仕えて」いたり
更には、「生駒氏」に「仕えて」いたのだ。
「生駒氏」は「土豪」だが、傍らで「紺灰(染色用の灰)」や「炭薪」、「馬借」をしており、
「小折(江南市小折)」を「拠点」に、
「商人」をしていたのだ。
そのときに「川並衆」や「生駒氏」の「息女」の
「吉乃」の所に「来ていた」、「信長」に
「出会った」のだ。
又、秀吉は「信長」の前に「今川家」の
「松下加兵衛」に仕えていたがそこでも
「勝手係」をしていたのだ。
そなため「秀吉」は、「その前」には、
「商業」に携わっていたのだ。
・秀吉の「歴史的存在」と「人気」。
・さて、「最後」に近づいて来たが、
「秀吉」と言う人物は、「墨俣一夜城」や
「三木の干殺し」、「備中高松水攻め」、
「石垣山一夜城」など「突貫土木」と
「経済封鎖」や「買い占め」など「経済戦」を
「使い」、「戦って来た」。
只、「一夜城」は「墨俣」では無く、
隣の「伏屋(岐阜県羽島)」であり、
こちらのほうが「川又の中洲」で「筏流し」するには「遣りやすい」。
つまり「武功夜話」などの「誤伝」で
「墨俣」も「伏屋」も意外と「近い地」だから
「間違えた」のだろう。
寧ろ「野戦」や「武略」よりも、「知略」や
「経済」や「人徳」に「優れた」ひとであった。
更に「厳しい人生」を生きた人であったため、
「人たらし」と呼ばれた、「人的魅力」と
「統率力」のある「人」であった。
然し、「それ」は多分、秀吉の「本性」では
「無かった」、いや「人たらし」は
「一面」に「過ぎない」のだろう。
「天下」近づくにつれ、「秀吉」は「傲慢」に
なって行く。
それは「秀吉」が「武士」になった「理由」と
「関係」しているのだろう。
「秀吉」は「天下人」になるに連れて、
「近い親族」以外は、「親戚」や
「生まれ在所」の「中村」の人を「遠ざけた」。
更に「秀吉」の「子」や「妹」と言う「人々」が
「会いに来た」人々を「処刑」し、
更に「陰陽師」や「芸人」や「僧兵」、
「聖」などの「流浪民」を「捕らえて」、
「荒地」に「流して」、「開拓」させたのだ。
これは「デッチ上げ」の「絵空事」では無く、
「流浪民」は「全国」を「遍歴」し、
ときに「芸事」や「行商」をしているが
中には「忍び(スパイ)」や「傭兵」や
「一揆(軍事反乱)」を起こす事もあり、
それが「一向一揆」や「土一揆」を「支えて」いた。
多分、「秀吉」もそのような「所」にいたの
だろう。
然し、「秀吉」にとっては、はじめは
「大きな強み」になったが、それは
「天下人」にとっては、「ゴシップ」に
なった。
「武士」は「曲がりなり」にも、「高貴」で
ある。
そのため、「身分賤しき」「木の下の秀吉」
が「天下人」だとは、「ちゃんちゃらおかしい」。
その為、「事実、頭を下げて」も、「内心」は
「蔑んでた」?
そこに、「身分低い親戚」が「来た」と。
「ほれみろ、矢張り秀吉は下賤の子じゃ。」と
周りは思ったろう。
更に「秀吉」は、「中村郷」には余りいい「思い出」が 「無かった」と思える。
なぜかというと「叔父」の「焙烙売(賤民)」の
「又右衛門」は「秀吉」が所要で、
「馬を貸してほしい」といったが、
「お前みたいな気の触れた奴に誰が貸すか」と
「つっぱねた」。
しかし、後に「天下人」になった時に 「家財」を
「没収」し「追放」したのだ。
その為、「親族」は「秀吉に親しい者」だけに
なってしまったのだ。
また、「武士」には「譜代」がいる。
「譜代」とは、「重代」にわたり「家に仕えた」、
「家宰(執事)」である。
それは「血」と「時代」を「重ねた絆」である。
つまり、「良かれ悪かれ全て知る絆」だ。
その「お家」と「一族」の「光と闇」をも・・・。
然し「成り上がり」の「秀吉」には、
そのような「重代の臣」はいない。
「家の暗部」を解り背負う「臣」はいないのだ。
その為秀吉は「晩年」、「狂気化」したのは
「一天」を上り詰めたため、周りを「信頼」できずに、「人間不信」と「今までのストレス」で
「崩れ」、「最初の子」の「鶴松の死」と
「次の子」の「秀頼」に「溺愛」したためだろう。
「心理学」に「バンディング理論」と言うものが
ある。
「鬼ごっこ」の理論だ。
「追う者」は「追う」からこそ、「安心」するが
「追われるもの」は「自らが狩られる」ため
「恐怖とストレス」が起こると言う。
秀吉も「大名」と言う、「追う者」があった時が
「花」だろう。
その為、「秀吉」は「昨今」、「唐入り」や
「血の粛清」の「狂気」のため「不人気」だと
言う。
然しあえてここは厳しい論を突くが
「秀吉」を「それだけの為」に「好悪に掛ける事」が、「歴史好き」として「二、三流」。
否、「見識浅き人」だと思う。
寧ろ、「秀吉」のもたらした「史的意義」と
「功績」は「多大」だと思う。
例えば「陰陽師」など「流民」を「荒地」の
「開拓」に回したのは「失敗」だが、
「流民化」した「下層民」を「統制管理」したり
また、「身分制」の走りだが、「検地」や
「刀狩」をして、「身分を確定」し、
「武装解除」して、「流動化」を「防ぎ」、
「宗教勢力」なども「解除」したのも
「大きい」。
(宗教勢力どの対峙は、信長の功績だが
庶民含めての武装解除と、身分安定は秀吉の功績だ。
寧ろ、秀吉も宗教政策はきっちりしていた)
また、「太閤検地」に先駆け、「度量衡」を
「制定し」、「太閤枡」や「尺貫法」を
「改定」し、更に「金山・銀山」を「直轄」し
「貨幣統一」させたのも、「秀吉」だ。
秀吉の好悪はともかくとして・「秀吉の功績」は
「重大」だ。
寧ろ、「秀吉」の「明暗含めて」の「秀吉」であろう。
だからこそ「秀吉」は「人の奥深さ」を知る英雄なのだ。
最後に一つ、「史学への指摘」がある。
それは「武功夜話」や「甲陽軍鑑」などの
「軍記物」や「家伝書」の「研究」などである。
それは「一級資料」だけを「信用」して
「二、三級資料」を「捨てている」事だ。
つまり「軍記物」や「家伝書」を
「誇張」や「誤伝」、「伝承」があるから
「資料価値無し」と「捨てている」からだ。
確かに「信用出来ない」だろう。
然しだが、ならば「どこが本当」で、
「嘘」なのか、「玉石混交」のなかから
「玉を拾えば」良いだろう。
寧ろ「一級資料」こそ、「勝者の史学」なので
「粉飾」が多くあり得るのだ。
さらに言えば「顕彰史」なので「都合良し」な
所もある。
その「補填資料」こそ、「二級、三級資料」の
「研究」が必要なのだ。
確かに「武功夜話」は、「当時の言葉」では
「書かれておらず」、「誤伝」や
「虚偽」も多いだろう。
然し、「民俗史」や「地政学」からみると
「符号する」のだ。
「日本史学」の「悪癖」は、「畑」を「意識しすぎ」て「総合的史学」の「見地」が無く、
「他の学問」を「貪欲」に「冷徹」に
「蓄積」し、「分析」しなければいけない。
もし、「偽書」ならば「一番ぐうの音の出ない論」がある。
「嘘とは真実の中に交じるからこそ利く」のだ。
「ドラマ」でも「小説」でもそうだが、
「史実やリアル」が「あるから」こそ
「フィクションや嘘」が「生きる」のだ。
なら「史学」も同じで「嘘の中から真」を
「見つけ出せばいい」のだ。
歴史とは一つの「探偵」だ。
最後は、「勘」と「閃き」である。
なら「貪欲」に「学問」し、「その地」を
「歩き」、最期は数多ある「石粒」から
「玉」を「取る」、「閃き」を「磨く」しか
ないのだ。
もし「偽書」や「二級、三級」だとしても、
「その中の真実」を「退ける」のは
「よろしくない」と思う。
長くなりましたので、今宵はこれにて。
有難う御座いました。
梅雨の時ですので、お体お気を付けて。
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