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【書評】シーレ布施『ネオの詩-やさしいこえ-』

対象書籍 『少女ABCDEFGHIJKLMN』
著者   最果タヒ
出版社  河出書房新社
発行日  2022年3月20日
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美しく、ゆえに脆い 

作者のシーレ氏は各誌の投稿欄でまさに現在活躍中の詩人だ。ネオ、カルス、ゾイ、マリベル……この詩集ではいくつもの人名が現れ、「僕」と交わり合う。彼らがどういった人物なのかの説明はない。ネオや「僕」たちは古くからの関係であり、互いの間柄をいまさら説明する必要なんてないのだろう。つまり読者はネオたちを覗き見ているだけであり、我々は今この瞬間しか見えていないが、ネオたちの間にはすでに途方もない時間が流れている。(おそらく)同性の耽美的な関係性を読者は「観測」するだけだ。

詩中に「僕」は出てくるが、「僕」単体が語られる場面は少なく、ネオたちの様、または「僕」がネオたちをいかに求めているかが「僕」を通して述べられる。「不透明な果実がシャツを黒ずませる/奥の涙は叫びと交じり、/ネオの脊髄に噛みついた」(「ネオの詩」)「カルスと抱き合い、果実の落下を横目にキスをした。」(「テオスにおくる蓮の詩」)「すべてのタオが揺れていて/池の鏡が地に垂れる僕の髪を/掴んで吸い込んでいく/(咲き乱れ終えた花の蜜のかほりは堕落)」(「タオを抱いたエスティーシ」)「花弁が敷き詰められた抜け道を/マリベルが僕の手を強く引いていき/(その瞳は見えていないのに光っている)」(「マリベル」)……「僕」たちの世界は果物や花で溢れている。それらの芳香は甘すぎて気を狂わせてしまうほどだろう、と容易に想像できる。

ネオや「僕」たちを取り囲む世界は美しいし、そしてネオたちも美しい。「僕」はネオたちを強く強く求め、そのたびにネオたちの像は強く強く光る。だからこそ、ネオや「僕」たちの関係性はガラス細工のように繊細で、詩を読んでいるだけで割れてしまいそうだ。実際、ネオたちは詩中で死んでいく。「肉体は火のなかをくぐれば形を変えてしまうのだ/ゾイはそれを知っているのに遠慮なく炎に抱かれてしまった」(「ゾイ、それは森林で」)。だが、不思議とそこに無情さはなく、むしろ納得感がある。ネオたちのような美しい者たちがいつまでもその姿で存在できるはずがない。詩集の中盤で「僕」はネオとともに「大きな天国」へと飛び込む。ネオと「僕」が永遠に抱き合うには、果物や花に溢れる世界でも不十分だったのだろう。

それまで執拗に出てきたネオたちは、詩集の後半からまったく現れなくなる。ネオたちが去った後の世界だからと見え、私は寂しさをおぼえてしまう。

(初出 『詩と思想』2023年4月号)

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