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「なんちゃって当事者」と「当事者性に立脚した当事者」について。(GIPAとハームリダクション再説=能登を切り口に歴史的に考える=)

もう一度このお題について書いていく。「もう一度」というゆえんは、これはAIDS対策で1990年代半ばに国連が「AIDS合同計画」という事務総長直属の特務機関を立ち上げた時、横浜エイズ会議で大石の登場を目の前にし、大反省をし、「GIPA」から「ハームリダクション」へという現在ではセレモニアムとしたいとするぐらい「国連政策での当たり前」というぐらい政策立案のど真ん中に「個別施策のど真ん中に当事者を」とした大転換があったことを書いたのだが、あれを掴んでくれているなら、わざわざ「当事者性」という言葉について「一人当事者が入っていればいい」なんて形式論理や「私は●●さんから呼ばれた選ばれた当事者である」という風に剣や槍を振り回すことに意味がない事がよくわかるだろうに、と思うわけだ。
そのような御用当事者が闊歩している日本社会だからこそ、もう少し目線を横にひろげてみたらどうなのかな?という思いを抱くだけだ。


2024年1月1日に石川県地方を中心とする巨大地震がおきた。

この日、ちょうど実家で88歳の母親とみかんを食べながら談笑し、今年の抱負を語っていたら、緊急地震速報がテレビから鳴り響いた。しばらくして我が家も長周期の大きくゆっくりした揺れを感じた。都内は震度3だった。
即座に珠洲市や輪島市内の映像が入り始めたが、定点カメラでは屋根瓦が落ちたり、奥の方で土煙があがってたり、古い家屋ほど瓦が落ちているのと東京で長周期の揺れがあった以上は断層がずれたはず。廃墟や農漁村の倉庫などが沢山倒壊するのではと思っていた。
実は、この「カメラの死角」あと30度左にカメラが動いていたら倒壊した街並みが写っていたのに・・・あと200メートル先の港の岸壁が写ってたら岸壁に散乱するような船体が写ってたのに・・という現場映像が沢山あったこと。そして報道する際に何に集中したのかカメラで何を隠したのか、これから議論をしなければならない反省も出てたと思う。実際の放送に取り上げるかどうかは別として、である。決定的瞬間に決定的行動をとることで報道機関・放送局の責務を全うする、というのは通り一遍の仕事ではない。多義的な要請に多義的にこたえられるチャネルをすぐさま準備できるかどうかが「メディア」の仕事。
現場の市民社会で求める当事者情報は避難について、避難所について、食事や水の手配について。
市外の市民社会で求める情報は交通の寸断はあったのか、水光熱の確保はできているのか?(電気も火もたけない場所でレトルト食品が無意味なように支援物資のニーズを読む必要がある)ボランティア受け入れ、自衛隊の派遣基地とボランティアの分業と連絡本部についてなどの情報と拠点の情報
行政側では医療や公衆衛生面での支援や人員の派遣など、公的サービスで各種の手足となる人たちのバックボーンを支え抜く必要もある。
これらが全部一体となって連携できるには、良心を集めないとならない。ミッションと使命感だけでは個人のモノサシの違いがあるからギクシャクしてしまう。だからこそ気持ちを揃えることの重要性と自分に出来る範囲を明確にしたうえでまずは虚心坦懐に体を動かすことが先だ、という場面、みんなで協議して自分の経験知を活かす場面、という場面に応じた力配分をできる謙虚な能力も必要になる。じゃないと傷ついた人たちや社会の中で大勢の人々と一緒にコトを起こす事=つまりマネジメントはできない。

そうでなくてもあまりの事が一瞬で起きたことで、現地の人たちは傷ついている。だから何をしてくださいと言ったってすぐ動ける人とそうでない人との差が大きくなるんだから、あれこれ現場に聞かない方が良い。加わってこられるぐらい棚上げして関われる人たちは自分から入ってきてくれるから、最初から一緒にやってくれるはずだ。
棚上げが第一ステップだということはそういうこと。自分の事も確保できたからあとは困っている人たちと一緒にみんなで乗り切るぞ!と思えた人たちが自分で自分の動ける範囲を引き受ける、という形で動けばよい

そんなことをニュースを見ながら考えていた。同時に、映し出される水面のうねりや湾内の水の輪をみてどちら側から波が入ってこようとしているのか、などについても母と話しながら3.11後の自分たちの目線で話をしていた。当事者参画という場合にどの場面どの方面どの事業でという場合においても当事者の意見は重要だ。今回の場合でいえばそこに住んでいる一人ひとりの生活と感情に向き合うという事以外ではないだろう。
被災者一般があるわけでも市民一般があるわけでもない。
だがそれを超えてマス(全体)に押しなべて等しく行き渡らせなければならない第一のことは「生命維持のために必要なこと」だ。そのために一人ひとりでは無力だからこそ最初に動かねばならないのが公助なのだ。そのために災害備蓄倉庫も避難所も防災無線も発電機の配布もあらゆる想定をして準備をし、一人ひとりの努力ではできない「停電・断水でも食事・飲料・トイレ確保する」などの公共の福祉が第一に必要になる。「第一の事は第一に」なのだ。
ヤマザキパンや3.11のAEONの初動が賞賛されるのは当然だが、ここから数日間「パンはもう飽きた、暖かいものを」と言われるまで供給し続ける。そこから先、炊き出しでみそ汁やカレーの出番が来る。それも3日目までにやれること。本部ができれば、その日時から即時発効して供給したパンのリストがそのまま請求書に変えることができる。そこまでに工場の生産体制とゲンバへの供給体制・交通網に関する情報だけでなく、本部発足と同時に出入りに関するパスを自主流通網を持てている事業者は本部と連携し連絡を取り合う事で獲得し一気に組織へ共有させることができる。危機管理とは自社内の危機だけでなく自社のお客さまたちと共に危機を歩むために必要な手立てや行動のすべてが含まれる。

「瓦礫の下で、まだ助けを待っている方」=1月7日の自衛隊ポストを引用しての総理大臣のポストに象徴される他人事感覚=

自衛隊がヘリも使わず孤立地域へ徒歩で分け入る記事。

今回、生き埋めになっている(だろう)人々への配慮と対応が全く欠けていた。第一、自衛隊が動き出すのが72時間たった後の段階からというのでは自衛隊や消防が得意であるはずの人命救助は絶望的なぐらい全員の生命維持に対応できていないトリアージの黒札を一律一面に貼り付けてから被災地支援と復興支援と「ミニマムな公的支援」に絞っているのが見え隠れして嫌悪を感じる。そんなことのために税金という公的扶助の先行投資を私たちはしてきているのだったか?主権在民=国民主権だということ。

72時間経ったから倍増した?

最初からボロボロ。10000人態勢で待ちぼうけの自衛隊


今回ほど、行政と政策で形はあったものの、その「形」「機構」「法令・要綱」が機能せず、「指図するだけの人」と「末端の小間使い」が右往左往し、実際に必要な支援がどこにどの規模でどのように掌握もできていないことを理由に「集約の号令だけ」で引きこもっている場面ばかりが目立った。
最初の初動にそんな情報が寸断された道路や倒壊した建物が多ければ多いほど目の前の惨状や火災や助けを求める人々を前に手いっぱいになるのだから、「できる人ができることをできる範囲でやりきる」ことを徹底的につなぎ合わせてセンター機能が始動できるまでつなぐ。動いた人たちはその記録をセンター機能に集約する手助けを果たすだけの力量も経験値も持ち合わせているから初動段階で現地へ万難排してでも向かえるわけだ。
今回、様々な「ボランティア行くな」発信がされたことで、重機とともに出動する民間ボランティアや食料を運び込んだヤマザキパンのような「いつも通りに、あたりまえに」行動を起こした少数以外は、同調圧力で二の足を踏んだ。まるまる2か月も経過して日本財団の助成でバスが出されて学生の聞き役や足湯サービスなどのボランティアが到着するなどが報道されたが、実際のところ、関東甲信一帯の大学生はおろか、天理教やYMCAなどの宗教系ボランタリーが動いていない。統一教会が暗躍するだけで日本会議を組織する新宗教や創価学会青年部も動いたという話を聞かない。本来ならここを先途と自分たちにできる民家のゴミ整理や掃除の手伝い、お話を記録する人など現地の人たちの指示を受けて体力と俊敏な判断力を持ち合わせた学生たちがパパっと被災地のあちこちに展開できたはずだ。しかも学生ボランタリーの補助を大学や宗教法人の基金から出ている場合だってあるからこそ、すぐに彼らは本部前や大学のランドマークを目指して集まり現地に向かうことだってできたのだ。

男性職員から「生理用ナプキン」を当たり前に受け取れる層だけではないからこそ=デリカシーを持ち合わせた当事者目線を持ち合わせられるのかどうか=


最初から男女の雇用機会や役割の均等がもたらされているなら困らないだろうが、日本のような男尊女卑社会=男性主導で弱者を奴隷のように飼いならす社会=では何でもかんでも男性職員が考えればわかることだ。
これが見当違いだったあれはありがたかったと、自分たちを棚上げして「してもらったこと」ばかりをジャッジしている自称地元民たち。
寸断された道路云々を盾に自分たちは特殊特別なんだと自己憐憫にひたりつづけている。石巻スタイル。
気仙沼と南三陸、陸前高田は壊滅的だった分、無力を認めて次の段階へ見切りをつける決心がはやかった。石巻は大企業の加工工場が多かったこともあり、新しいインフラとして企業が投資をするか行政を動かす手応えがない地域だった分未練タラタラだったのだ。南三陸のように小規模零細企業が自治体と策を作り上げて徹底的に補助事業と事業創造、事業体の復興支援、地元産業復活への還元というサイクルを次々作り上げたケースはレアだったろうし「おさかな四天王」のような地域づくりのブレーンが少数精鋭で動かせる適正な規模であったこともあったろうが、志津川を皮切りに宇多津・唐桑と次々復興をしていったし「さんさん商店街」の復活と人々をつなぎとめていく「寒だら祭り」などの「復興市」がともかく長く長く毎月行われ続けたのも持続的な伴走者たりえたのだ。

批判・反論する相手を間違ってはいなかったか?


さて能登である。自分たちであれがどうのこれがどうのと言いながら、復興予算が半額に減じて今回を招いていること、正月は人口が2割以上膨らむ「里帰りの魅力と意味」を残した「ふるさとの町」だったことを自分たちの口から証言している。なぜ気づかないのか。家族再会を楽しみにする人たちが人口の2割に及ぶ人たちがふるさとを思っているということを。それは惹きつける魅力ではなかったのか?地域振興策というのはそこに立脚したうえでのまちづくりである必要があるのだ。コストの問題ではない
コストの問題ではない、筈なのに災害対策予算は半減させている。
なにか、どこか、おかしくはないのか。
しかも1年前の5月5日に震度6の地震を能登地方は受けており、「津波の心配はない」とされている。だが、家屋の揺らぎやがたつき問題は何一つ語られずに終わっている。ハザードマップの検証はこの段階でできたはずだ。
倒壊し得る木造家屋、しかも歴史的町並みを観光資源とした街づくりを目指すのであれば、歴史的古民家や建造物の耐震補強や家並み街並みの持続可能性を徹底的に強化し投資しなければインバウンド型のまちづくりはできないではないか。災害避難所や家屋倒壊の危機を迎えるハザードマップの作製は喫緊の課題ではなかったのか?下敷きになる人が2割マシになるという危機感が無かったのか?
元日被災という人口急増期の災害に半分の資金と物資でボランティアや物流を止めて一元管理を目指したらどういう絶望を招くのか。外面の過剰や不足という混乱は起きないからすべての問題がアングラ化しただけ、という今回の地獄絵図の責任は誰も取らないし全体像を見られない中で時間だけがいたずらに過ぎていく。
日本文学科の夜間部卒業で地域振興プロジェクトの事務局で4年勤めただけのワタシでさえそのぐらいの目くばせはできるようになっている。プロとして住民から税金という先行投資を受けている公務員・公共事業主はステークホルダーへ果たさねばならない責務があったはずだ。と言ったところで、マーケットインの発想がないプロダクトアウト、殿様商売の人間に何をいっても聞き分けないのは仕方ないにしても、結果を受け容れない姿勢が問題解決の時間ばかりを長引かせている。

封建制に代表される殿様行政は明治と共に破綻していなければならないということなのだが。菅野完が石門心学の普及と人心の芽生えを説くような封建制を残して文明だけが爆走する日本的近代の土壌のありようを見事に解明しているが、半封建的近代主義とは西欧伝来の近代主義の概念とテイストが違っていた真意、つまり北村透谷らが「革命にあらず移動なり」と呆れた真相は、近代主義が東京にいた北村透谷や徳富蘆花目線でいえば額面通りに日本で機能していない機能不全を見て取っている「漫罵」(透谷)「謀叛論」(蘆花)、石川啄木など真向批判している(「時代閉塞の現状」)からだ。近代主義とは近代的な自我を取り込めば人間が開放されるという想念と思考・行動様式を指しているが、形而上学的に表層をなぞったところで内側は封建時代の発想そのものという状況。それを弱者が弱者のまま再生産され強者は資本を蓄積して恩義のように居場所を与えるという半封建的な形での企業社会・近代主義の暴走という「日本的近代」のありようが、明治時代の早い時期から大逆事件のような思想弾圧を小まめに繰り返すことによって強権をゆるぎないものに仕立て上げていくという徳川政権の模倣をした田吾作政権による天皇制絶対主義という「継ぎ接ぎ国家」が確立されていった。それが日本近代の現実ではなかったか。

こうしてみてみると、石門心学のような哲学が日本近代を先取りしていたのという世の論者が言う言説よりも菅野氏の地に足のついた指摘に沿うべきだろうし、同時にこれらの日本的近代の裏側は、すでに江戸時代末期の上田秋成や近松門左衛門、井原西鶴の文学作品がきっちり反証をしてくれているのではないだろうか。

特権門閥町人(新興町人)の誕生は三井商人たちに代表される信頼と誠実に立脚し権力者へ融資をできるだけの経済力を梃子に支配者層への発言権を増加させ「一本刺し」が認められた士農工商の身分を破壊した層(丸腰の武士)があろうことか市民社会の中に君臨したということ以外ではない。仲間たちの中に疎外する階級が誕生したようなものである。そしてこの特権門閥町人たちがあろうことか庄屋や小作人、町の小売商たちを虐待する側に回ったわけである。ウィークネスフォビュア(奴隷根性の社会)はこの時代に形成されていったのではなかったか。
菅野氏の日本近代誕生の概説でもこの部分全く矛盾はない。

越後屋呉服店の江戸進出で反物一つがただの端切れに変貌し金品と引き換えに量り売りされる対象に姿を変えた。職人の技ではなく1寸幾らの商品として庶民に手の出る商品として提供したわけである。
一見一人ひとりの自己責任の世界に仕上がって門地や血筋、家柄で商売は成功しない事も人々の心に焼き付けていった。しかし一方で、財力に物を言わせた大店(おおだな)主義者は「銀が銀を儲ける」商売中心に移行しBtoBならぬBusiness to権力へ商売を転じていく。その限り帝国主義の萌芽のような形式が生まれていったことは近代の一面と言えなくもない。しかし世界の潮流が奴隷解放・プロテストから生まれた社会倫理や人権と両輪になった脱近代としての近代主義が人々や事業主・権力者の共通する持続可能な目標として認識されるには至らなかったのが、島国盆地民である我々の祖先たちが成し得た限界だったといえばいえなくもないだろう。
ささやかな庶民の幸せややさしさや気配りといったメンタリティさえ投げ銭の対象に変えていってしまった。そんなメンタリティをくぐれない「投げ銭しておわり」な新興町人二代目と、庶民の最下層のいたわりあう人たちの姿に人間らしさや優しさの「失ってはならない人間の条件」を見出して放蕩の限りを尽くした反逆をしつづける「二代目」である代の男が対比対決される構図で描かれる作品を描いている。近世にあって小説ともいえる作品形象を作り上げているこの作家は井原西鶴だ。「人には棒振り虫同然に思はれ」(西鶴置土産)など、こんな投げ銭感覚の傍観者になりたくないものだという思いを作品の人物像にたきつけていないだろうか?

封建的隷属性の中で個人の才覚や誠実さに根差した商行為の正当性を見出した大阪商人たちの意気地というものが、西欧のプロテスタンティズムという近代主義思想を得ることない段階で芽生えておりながら、帝大という特殊特別な選民思想の持ち主たちによって独占され、実践哲学そのものまでもが「座学」の世界で止まってしまったこと、実践哲学として普及しようとした市民運動そのものを恐れて薩長の田舎侍たちが天皇制絶対主義を担ぎ出して抹殺してしまった、という短絡が日本的近代の不幸の始まりでもあったろうけれども、21世紀にもなっていまだにこれらが再生産される地方行政と市民層が「出土」したことは海と山で隔絶された盆地・島国社会の闇をさえ思わざるを得ない。どこが列島改造されたのだろう?と言う意味で、である。

依存症者を含め心に傷や病を持つ人たちは「あるべき未来」も「あってはならない未来」も先取する能力に長けている。

地震のその時、私は年始の挨拶に荻窪の母親を訪ねており一緒だった。
たった20分の日本テレビ系のテレビを見ながら
母親はそこからTBSやフジテレビと5分おきにチャネルを回し始める。驚いたのは教育テレビやMXテレビまで今回は番組返上をしていた。これではトラウマを抱えた人たちの逃げ場がないじゃないか。とも思った。
同時に、私自身が15年の回復人生を歩んでいるとはいえ、一介の依存症者であり強迫的思考に陥りやすい病気のしっぽを抱えている自分でもある。
だからハッキリ言えるのだが、私のような心の傷や病を持つ人間は、一瞬の共通するショッキングな出来事を通して、あるべき未来もあってはならない未来も同時に先取し、その事だけに思い込み・執着をしてしまうと(=強迫)に固執し、恐れの感情でそこから先の思考停止にまで至りかねないリスクを抱えている(=囚われ思考)。その一方で、こうあったらみんなが良いのに、というあるべき未来の先取も言語化ができる・できないにかかわらず同時にイメージしている人が結構な割合でいるのだ。このことに関する話題は後で述べることにするが、「こうあってほしくない」というネガティブなイメージの先取は、その人たちがそれだけ「だまされ」「やりこめ」られ、「ハメられる」(自分だけに責任をおしつけられ周囲が似ててしまう)など、自分が過去に被った被害性や恨み・つらみに昇格させてきた過去のトラウマ体験があればあるほど、沢山の危機的場面・災害などでもネガティブな想念が一気に押し寄せて冷静な思考を奪ってしまう事がある。虐待に会っていた人たちのトラウマ反応などはそうで、なまじ教養がある人たちほどここから自由になれていない事例は山ほど私達も目撃しているではないか。
「トラウマをかかえる被害者だから」という過去を盾にして自分の言動やモノサシがあたかも当事者を代表するかのように、そして自分以外の言語化能力の低さがあるかのように自分の職業や過去を使って周囲を錯覚させ、まるで自分こそが選ばれた人のようにふるまおうとする病識のないふるまい。
全部同じ穴のなんとやら、という感じがしてならない。目糞鼻くそを笑うということはそういうことではないだろうか、と思うのだ。
変えられるものは変えていく勇気を持つ、ということは思いと行動を切り替えて前に押し出す勇気を持つということ、同時に無力を認めた仲間たちの輪と出会いをたいせつに違いがあろうが耕し育んでいくことで出てくる新しい反応を楽しめるぐらいの力を持ちたいものだ、そう変わっていかねばという思いがわたしの中に育っている。仲間探しをしよう!。

自分を3流だと認めたら超一流と手を組もう!


無力を認め、自分に出来る事もこれから得ていける力も限られていると理解したのなら、どうするんだろう?無力とは一見つらいように感じるかもしれないが大したことはない。上には上がある、ということを知ればいいだけなのだ。で、上には上がありつづける、事を認め、向上し幸せに近づこうとする思いと行動は「変えてはいけないもの」だと知ることだ。
「わたしたちに向けられた神の意思を知る」という境地はそういうことかもしれない。「痛み」も「傷」も「酔い」(自己憐憫)におちる入口だということだ。だから「祈りと瞑想」で空っぽにしてみる。そうでもしないと「ああしたい」「こうしたい」という願望は時々自分にブーメランのように帰ってくる。それが現実の声だ。苦しくなる。でも、3流だからこそ1流の人たちの高度な次元でモノを俯瞰し、人と人とをつないだり能力を合算した先の「出来高」を見通せる頭の良い人たちと一緒にいることで底上げができているんだと信じればいい。分担課題として自分の立ち位置を理解させてもらえる相手、それが一流の相手だ。
3流以下で甘んじていると下手すれば仲間の足を引っ張る事で自分の立ち位置をまもるような奴隷社会型の思考に簡単に陥る。村木厚子さんのような「伴走型支援」を知っている人たち、松本俊彦さんのように世界の医療と人権の本流を知っている人達とガチで組むことだ。
その先あの人たちに何ができるか、やりおおせるか、自分に何ができるのかは別問題。だけど、政策や社会変革に一番近い場所にいる人たちは政策実行者ではないにせよ政策提言ができる人たちあるいはその人たちに一番近い人たちでもある。ゲンバの問題意識=当事者性を共有できる人たちを見分ける嗅覚だけは持とうよ、ということだ。これは選民型思考ではぜったいに身に着けられない能力=仲間との協同・協働を作り上げる共同体型の思考、つまり集団主義の意思と組織化と行動ができる人=が見に着いた人だからだ。「選ばれた自分たち」という思いあがった考えに滑った人たちは周囲を支配下に置いて指図だけをするコントローラに成り下がるから小さく凝り固まるしかできない。それを先鋭化といえば学問的なのかもしれないが。
(この稿未完)




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