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「男性中心社会」の「安易な幻想」に騙され本当の敵は「男性中心社会」だということを見誤ってはいけない。それこそ性搾取の土俵に乗せられているのではないか。という話題。(あるCMを切り口に)


あるYouTuberのメンバーチャットでわいわいと楽しんでいた。話題がたまたま水虫・たむしの話題になった。
みな、水虫をうつされたり、いんきんたむしを体育の水泳の授業で友達の水着をかりたらうつうされたり、不衛生なサウナや銭湯のバスマットから水虫がうつったり、友達の靴を間違えて履いて水虫になったり・・感染症に無頓着な時代でもあった。お婆さんの入歯をくわえて虫歯に感染する、あの要領で感染は広がっていた。
今のような強力な抗真菌薬が市販される時代でもなく、だったから余計に「かゆみ止め」か皮膚はなんでもかんでも「フルコート」を塗る時代でもあった。

で、あるメンバーさんが思い出したCMが「夏は股間がかゆくなる」だった。ああそんなのあったあったと原体験が呼び覚まされ盛り上がった。
記憶はあったけど何の薬だったかなとYouTube検索をしたら、出てきた出てきた。普段なら「あったぞー!」とリンクをTwitterでみせておわり、だったのだが、ちょっと気になるリードがついていた。
今日はそこからお題をもらったことにする。


<わざわざ「女性だけでなく」っていう必要ある?>


実はこのCMを見て「!?」と思った。
「女性だけでなく『男だってかゆい!」って言いぐさ。
女性より男性の水虫タムシが圧倒的だったのに「女性だけでなく」という言い方で男性は立てられ続けねばならない世の中を如実に反映しているではないか。

安全本能を脅かされたかのように、あろうことか自称リベラルの男性学者や医者、弁護士や代議士までもが「差別が」「クソフェミが」「男のオカマ化だ」「男性器のついた女が風呂にくる恐怖」という言説をあたかも動機づけて扇動し、男中心社会のおこぼれとして居場所を与えられているかのように洗脳されつづけるように地雷を撒き、犬笛を吹いているとしか思えない状況を生み出そうとせこせこと立ち回っている「ある存在」の影を見たような気がしたのだ。

つまり、世界の潮流への反動によるトランスフォビュアなどとは全く違う事情で日本のそれが炎上している事を誰も指摘していないのはなぜなのか?
それにしてもさらにひどい炎上なのは、社会的弱者への差別・攻撃に対する法規制も法規範も何も整備されていない社会であるまま近代を歩んできてしまっている文化後進国となっている事を四方海に囲まれていることで「水際作戦」を取られてきていた自分たち、もう少し言えばウイルスではなく失政の決定的な証拠=情報が国民に入らないように「情報遮断」してきたのが日本の政権と官僚(主に旧厚生省・旧通産省)そのバックで洗脳している利害関係者たちがあったわけだが、この話題は別の機会にしておく。

<このオトコ都合の文脈=グルーミング気質の文体=は何なのさ?>

CMの話題に戻ると、このバブル時代、CMの「女性だけでなく」式の男たち、「ボクちゃん水虫移されたの」を個人の不衛生の問題ではなく「誰かにうつされた被害者」で不衛生な人間は他にある。「ホラ女性だってかゆいのよ」という言葉を言うまで泣き叫ぶ赤ん坊のような言いぐさだ。自分の感染事実は別にある式に転嫁する言い方なわけである。
こうした言説の裏側で見え隠れするのは、猫なで声でヨチヨチされる男性像。男性を「たてて」「ヨチヨチ」と声色までつかって甘やかしてくれる存在以外を認めない、という空気感そのものがあふれて来てはいないか?
バブル以前から、主に男性のアダルトチャイルド化はすでに蔓延してたわけだ。
しかし、そのことを否認するために担ぎだしてきたものは話をどんどん大きく膨らませていたではないか。

<孤立化=個人の分断によって、尊重や尊厳、相互扶助や共同体社会という意識や社会正義までもが破壊された>

たとえば、子供の内から「変わってる」と映るADHDの子らやアスペルガーの子、知的障害・学習障害の子どもたちが一斉・一律教育の号令にそぐわないときに、「時代に乗り遅れるな」とハッパをかけたのは産業界のコマーシャリズムとこれに踊らされた厚生省の「生産性疎外因子」と決めつけて養護学校や精神病院に理由なく長期入院をさせてきたあの政策に繋がったし、「らい予防法」「優勢保護政策」で全生園の整備で異分子はどんどん隔離されていた。だから均一均質な「単一民族国家」のような言説までが「教育の主流」として学校でどんどん広げられていた。

本当なら、先住民族もあり、古代に移住してきた民族もあったはずなのに、である。

そして偏差値序列・学校間格差は社会における部落問題や地域間差別の反映として存在しつづけてきたわけだし、その序列と差別化という中でいじめや子供同士の序列化はすすんでいた。だから、小学校で第二次性徴の開始に呼応するかのように最初に女子によるいじめがはじまる。クラスで一番「美人」で「スポーツ万能」のような子供が自分より弱い子や自分が引き立つような輩を周りに従わせたり、という具合にである。これをたわいのない事、として片付けるには成長期のずれがあるこの年代の子どもたちにとってはものすごく過酷な現実をつきつけられることになる。
たくましい体つき、声変わり、性器の発育、性毛、生理や精通・自慰の始まりなど男性の身体をもつ子供たちの劇的な変化は女性の身体を持つ子供たちの成熟より何年か遅く始まる事から、一律一様な教育を受けていたはずの年齢の子どもたちの中で、違い違う教育が始まるようになる。

とりわけ私たちの年代では男子はドッジボールばかりさせられ、女子だけ生理や妊娠の教育をさせられるようになった。それが60年代から70年代の性教育が授業に取り込まれていない時代の現実でもあった。

私の卑近な経験と事例で恐縮なのだけれども、この体格や精神年齢の格差が出る小学校高学年の時に、クラスの「優等女子」のわがままに翻弄されたクラスメイトたちの損得勘定ただ一つで「無視」されるだけでなく「言葉の暴力をあびるようにかわった」「おかまっぽい女の子っぽい」が「オカマ」という決めつけに変わり「両方持ってて便利だね」「アタシより女らしい事が気に食わない」「キモチワルイ」「不潔」「オカマがうつる」という排斥に変化していったわけである。
どうにもならない状態に追い込まれた人間をどうにもならないままに無視し放置するのはよし悪しである。結局受験勉強に埋没することでしか自分は居場所がなかったし、そうでなくても機能不全家庭に嫌気がさしていて支配とコントロールの権化となっていた父親とは顔も合わせたくなかったから受験勉強に逃げていた。で、高校に入っても大学付属校に合格してしまったことで、受験勉強への逃げ道がなくなり抜け殻同然となってしまった。ここで次の奮起はできなかったのである。そこから高校3年間路傍でであった牧師たちのいる教会に通い聖書をよみ、という生活をしていたわけだが、キリスト教にも共産主義にも希望はなかった。それだけ原体験が大きすぎたのだった。結局50歳になるまでこのトラウマ経験のまま外側から身に着いた教養や技能や知識のおかげで教職についたり大学職員という職業を務めてまもなく定年を迎えようとしているわけだが、いろんな人の助言や学びが全部一本の線で繋がりわたしの大切な側面領域として機能し始めることが無かった。ばらばらに得ていた知識がまるで装置のように呼び覚まされ、そしてそれらがデータベースのように提供される、という繰り返しにすぎなかった。そのせいか、人生の大半になる大学図書館の目録システムや学術オンラインデータベースの仕組みや知識や操作に関してとても親和性が高い自分になってもいた。
話を戻そう。
50歳になるまで機能しなかった、と今申し上げたが、それまで自分のトラウマの傷をいやせないまま心は引きこもり、それでもオトナとしてのふるまいをしなければと見せかけて、セックスや学問や社会参画などに埋没しようとしてはそこには相手や沢山の仲間となるべき人たちがいる事=群れ・集団である事を大切にできない自分があったのだ。
ことあるごとに30代のころ「どうして相手の気持ちをくぐってあげないのだ」というぶつかり合いや対立をおそれない自分の側の主張やミッションをくりかえすだけの人間に成り下がっていたわけだ。
つまりは、いじめ経験のトラウマの根底から自分は、女性への憎悪、そしてそれになびいた男たち、という記憶として鮮明に植え付けられてしまったわけだ。ミソジニーという外側からの言葉で言えば現象は同じだ、だが、ミソジニーという概念とラベリングでは傷つけられた心の傷は説明されない。

こうした相手をくぐらない言葉の空中戦が、わたし個人だけでなく、社会にもあふれかえっていたのが80年代以後だった。とりわけ大江健三郎たちが記号論を持ち込み、孤立・個体的な人間観を広めてしまい、個々人の存在の分断を深めていってしまった。
当時もてはやされたバフチンの哲学にせよ、孤立固体的な存在論であったし、そこから急に橋をかけるかのように対話と共感が成立するとまるで橋のない川に一瞬だけ橋がかかる、という論調だった。これじゃ住井すゑさんの世界と同じじゃないか、というわけだ。バフチンの「言語と文化の記号論」よりも住井すゑさんの「90歳からの人権宣言」(かもがわブックレット)の方がよほど雄弁に人権と平等と対話を語っているようにさえ思えた。

住井さんの話題に至ったので、思いのまま階級的視点を文学の目から少しみわたしてみたい。疎外された階級的視点についてみると、どうだろう?
本来同じ階級・階層にあったはずの弱者同士が相手を人間疎外の闇に追いやってしまう状況は日本の近代小説を読めばそんな話題ばかりだったにもかかわらず「仕方ない事」のように受け流され、未解決のまんま次の世代の作家たちへと受け継がれていたのではないか。
(このあたりは、これから先、森鴎外の「最後の一句」、国木田独歩の「竹の木戸」などを話題に展開したいと思っている)

<搾取とトラウマとグルーミング(飼いならし)と>



ある人においては女性から、ある人においては男性から、ある人においてはGAYから、ある人においてはトランスジェンダーから・・・言葉や態度、性の暴力としてもたらされた心や体の傷、そうした原体験がトラウマとして引きずられてきていて、それらを治療するわけでもなく恨みとアキラメの中でやりすごしてきた結果、本来は共通する心の痛みや傷を分かち合い、時には舐めてもらう場だって必要だったのにもかかわらず「妥協はゆるしてはならない」「傷のなめ合いなんて後ろ向きで恥ずかしい、生産性が無い、人間のクズがやることだ」式の言説さえを持ち出して「強くなれ」「前に踏み出せ」と号令ばかりかけてこられていたではないか。

その構造の中で、案外のほほんとして安全なところにいる存在があったことにそろそろ気づかねばならないのだ。

GAYもトランスも女性も「男を奪い合う市場」だから反目し合うものだと仕組んでいるのも男性なんだと気づく必要がある。つまり「誰のためのグルーミング」なのか?ということだ。もちろん個別の性的搾取があるだろう。だけども、それらによって支えられ温存されている揺らがないものは「男性中心社会よ永遠なれ」を前提としていないか?という事だ。
案外フェミニストでさえ、主張する先が結局「男性中心を温存しているだけ」におわっていないのか?という泥仕合に、とりわけトランス女性との争いやトイレ論争で巻き起こっているようにしか思えない。
市場として冷静に見るなら「男が好きになる男」「トランス女性を彼女にしたい男」「女性を女性の魅力のまま愛したい男」は好みと行動の面でそもそも接点があるわけがない。交流の場となっているメインの舞台も違うんだから反目する意味も理由も最初からないのに、安全が脅かされる、というのは幻想だ。

すべての性的存在がまずは黙って自らを振り返る必要があるのではないか?

男性中心社会での恩恵で今の居場所を与えられてきた女性・GAY・トランス女性は、蚊帳の外にビアンやバイセクシュアル、ノンバイナリーたちマイノリティを男性中心社会のグルーミングの態度そのままに搾取しようとさえした。

あいてを変えることはタイヘンだが、自分の総点検をし、考え方と行動の仕方、発想を転換することは自分で決めなければできない事。だけど、それは人様を変えることより容易で、確実に可能なことなのだ。
手をつなげる自分に気付いたら握手をし、素晴らしい気づきを称えて手をつなぐことから始めたい。

<「ジェンダーレストイレ」は「ハッテントイレ」にされる危険。男性中心主義の設計だからおかしな議論になる>

ジェンダーレストイレっていうものがあるんだと、喧々囂々の言い争いの様相を眺めていた。だがここでも女性たちは自分たちのスペースをまもるべきだと男性にそそのかされてトランスジェンダーの攻撃の先頭に立たされている。まるでピル解禁こそ女性の自立だと踊らされていたあの時のようにである。結局コンドームをつけなくない男性たちに踊らされていた。AIDS蔓延でGAYがコンドーム義務化だ傷害罪だと大騒ぎしていた時にピル解禁論は高まってGAYの性感染こそ自業自得で不貞不潔の輩は感染症を持ち込むなとまでやられた。結局のところ「俺が信じられないのか」の言葉の暴力と脅しとともに「ナマで挿入させる」ための布石でしかなかったのだ。
「好きじゃないのか」「俺が信じられないのか」と畳みかけて「嫌われたくない」と思わせようとする。
このセリフと構図で女性も、GAYも、トランス女性も、発達特性をもつ子供たちも、脅しをふくめたグルーミングに巻き取られていくわけだ。
で、ここでもう一回冷静に考えてもらいたい。

例えばオールジェンダートイレといったってエリアを一緒にする必要もない。ただ個室利用者は圧倒的に女性スペースであるべきで、共用エリアはむしろ「誰でもトイレ」として入りやすい場所にしておくべきでもあるし、パウダールーム的なスペースや着替えなど大小便以外で使用する場合でもそれは保障する必要がある。
「誰でもトイレ」は介助者が必要な場合もあるし、排便や着替えといったプライバシーとも密接だからこそだろう。だけど、お年寄り用のベンチからなにからが同じスペースにごちゃっとあれば結局「獲物を探す獣」が陣取ってしまい、「食われ目的」の場所・エリアが生まれかねない。だからセキュリティ面での表示や手厚い見回りや掃除・管理が欠かせなくなる。
だけれどもウナギの寝床のように奥まっていくような作りや狭い廊下ではこの理念や理想は果たせないだろう。どこを目につかなくし、どこをいわゆる女性やトランス女性が周りを気にせずお化粧を直したり身だしなみを整える場所としていくか。別に便器剥き出しの部屋にするわけではないのだから性器を見ることもなければ排便されたものを見る必要もない。セキュリティとして問題になるのは2人3人が入れてしまうことと、汚物入れが共用されたら「フェチ」が目的外に入ってきてしまうだろうという恐れがあるのだろうが、それはどのトイレでも起き得ることで、問題は目的外使用につかいづらいトイレにすること以外ではない。
「ハッテントイレ」と言われるトイレは、その昔GAYの抑圧がもっと強く個々人の自覚の上に根付いていて、表向きGAYであることを知られたらまずい、いじめられる、という風潮の中でささやかな憂さと同じ性的志向を持つ人たちが自分たちはGAYであると自覚する場面はセックスだけだった事から性器が覗ける小便器やこっそり見せ合ったり触れるような「死角」があった方が好まれたり、トイレが行きどまりにある長い廊下などで出入りする男がGAYか「ノンケ(ヘテロ・シス男性)」かを物色する場所(待ち合わせ場所)が確保できるか、などがなければ普通のトイレとして機能しつづけた。屋内・屋外を問わずそれらは存在したわけだ。クローゼットの文化といってもいい。
こうした隠れ家的なそそくさとした人たちは、本質的に欲求不満を抱えているので職場では厳格で妥協を許さずパワハラまがいに強力な仕事人になっていることさえ多かった。夜はスナックのママさんをしながら昼間はどこぞの経理部長なんて2枚看板はざらにあった。だからこそ、狡猾に金稼ぎの上手な人たちと性の妄想で仕事も手につかなくなってしまう人たちとの二極化も進んでいたわけだが、いずれにせよ、「ハッテントイレ」でハッテンする必要がもうなくなっている時代なのだ。古い時代の性搾取や性暴力がセットになりやすい舞台装置はもう無くしていい。だったとすれば、ハッテンできないトイレを作ればいいわけで、それは当事者の知恵を借りられる今しかないのではないか、あるいは我々男性中心社会のおこぼれのなかで恩恵を受けて勝ち上がった層が引退してからとずいぶん先の話にするのか、「人は必ず死ぬもの」だから滅びていくまで待てと「実を取った」気になって時代を引き留めようとする自称「保守」(その実は男性中心社会のお先棒担ぎ=おべっか集団)のなすがままにさせるのか、そろそろ、虐げられているのに争っている人たちが考えないとならない番になってきているのではないだろうか?


TOTOショールームのオールジェンダートイレ

日本人は「手っ取り早く」結果を得たくて、明治維新このかた「手っ取り早く」やってきた。その結果ものすごいゆがみと矛盾と世襲まで抱えながら19世紀末から突っ走ってきてしまった。
そろそろ近代の総決算をしなくっちゃ。棚上げしてきて上から崩れているんだから、棚卸をちゃんとしなければ。
というのが、私が感じるこんにちただ今の心境です。



弁護士サトマコ先生のブログです。


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