ハームリダクションの考え方は次の4段階。「(フォーカスグループの)①実害を減らしていくこと②当事者のQOLを高めること③社会の資源・益となる部分(税収)も増やすこと④社会で一緒に歩みながら「弱者が問題へ追い詰められている社会」から「問題へ繋がらない」社会をめざす」
暴力や窃盗・詐欺などの実害・被害者が出なければ大麻も他の薬物も特段の害はない、という結論に至った社会や国で薬物の非犯罪化は進んでいる。それでもアルコールは「合法」あいつらは「違法」「犯罪」と言っている一方で、飲めば暴力や性犯罪をおかして「酔っていて」とアルコールのせいにする人たちがある。同じ薬物に貴賤上下があるものではないが、こういう身勝手さが横行すればするほど、アルコールを飲む人や酒席を極度に憎む人が出る。当然だ。
アルコールという薬物の実害が家族や会社組織集団で一番実害もあらわす一方でスティグマ社会の中で最大の嗜癖に扉をひらいてくれてもいる。だから短期的には癒しであったりする。
だけど、短時間で気分や感情さえ変わっていることを自覚できる人は幸いで、それを気づけない人や逆に変わったことを幸いと悪用する悪党があるのも事実だ。
世界で最も危険な一つだとされるだけの実例をはじき出している。家族に逃げられ、近所からも疎遠になり、酒屋さえも売ってくれなくなり・・。精神科には「昨日は警察を呼びました。ウチに泥棒が入った。しょう油が5ミリ減った。誰だ、しょう油を盗んだのは」というような貴重面で立派な社会人が国家権力を道具にしようとする愉快な仲間たちに溢れている。そんな人がひとたび大好きな、たとえば「ブラームスの交響曲」の話をし出したらそんじょそこらの音楽評論家も顔負けの造詣の深さと語り口で話がとまらない。(こんどは話に酔っているのだ)
入院や逮捕をされなくても老いてから「しょう油のさしかたが悪い」「あの口調がきにくわない」とイライラ気難しい人間に変貌し「昔はああじゃなかったのにねえ」と噂話や陰口をたたかれている病識のないアルコール禍にある人たちがどれだけいるだろうか。
ハームリダクションはそれぞれの社会で温度差や取り組みが違う。違っていていいのがこの政策。考え方を共有すればおのずとシンプルに政策や取り組みが湧いて出てくるわけだ。
注射器配布などの具体策を引っこ抜けばハームリダクションの考え方は次の4段階。
「(フォーカスグループの)①実害を減らしていくこと②当事者のQOLを高めること③社会の資源・益となる部分(税収)も増やすこと④社会で一緒に歩みながら「弱者が問題へ追い詰められている社会」から「問題へ繋がらない」社会をめざす」
アメリカも注射器センターができる2018年までハームリダクションはアルコホリックの実害軽減に限定されつづけていた。そのためAIDS感染が深刻化した80年代から90年代サンフランシスコのゲイタウンなどを中心に「空白の世代」が生まれるぐらい大勢のAIDS死を経験しつづけた。今回のコロナでも同様の状況を生んでしまっていた。
ハームリダクションは考え方だといいながらも、発端はAIDS対策を切り口にした国連のタテ割り排除・なりふり構わない政策とジュネーブ発の人権と政策に関する山のようなコミットメント宣言だった。この横断組織がUNAIDSである。
薬物と薬物政策に目を向けると、日本の常識と世界の常識は乖離している。
なぜか日本は撲滅・淘汰・玉砕が大好きなのだ。
世界では覚せい剤は「労働者階級のクスリ」ってあだ名がある。もっとも弱い人々の薬物といえる。弱い人々は裁いたり排除するのではなく抱きしめてやらねばならない。
稼いでる人はメジャードラッグであるヘロインやコカインを使っている。
金持ちはさらに副作用や離脱、体内残留が少ない精製された薬物(クラックなど)へ移行する、といわれてさえいる。これが世界的な視点。
で、自分たちより弱い人たちを裁いて自分たちが安全だと思い込んでいる。
これが依存症者に多い強迫性の一つでもある。それ以外ないと思い込んでいる。
これはアジアに多いスティグマ。特に極東でのスティグマは外圧としてのスティグマより本人が植え付けられた「社会正義」や「常識」という通俗道徳で自分を裁くという「セルフスティグマ」が多く、自分の言葉にウソをつけない生真面目さがより問題を深刻にしてしまっている。なんでも人様のせいにできるぐらい無責任な人間が責任を学習するより困難なのは、思い込まされている責任から一回自由にならないと社会や集団で与えられている分担課題としての責任と自分が自分で決定した役割や請け負うと決めた行動指針への責任を使い分けられなくなっているから、周囲が追い立ててくる「責任」論から自由になれなくなるからだ。人様の決めつけてくる責任など自分のやるべき責任とは無縁なのに、である。
階級論でいうなら奴隷根性と言うアレだ。
なぜそうなるかといえば、過去に遭った暴力や疎外、ネグレクト、ごまかし、だましなどの仕打ちで深く傷つき自分以外に心を閉ざして、不安・恐れ・怒り・恨みのはけ口を物質や行動・行為、関係性以外に見いだせなくなってしまったからだ。
だからアディクションと暴力・ハラスメントは直結しやすい。とりわけ「違法」とされていない依存症者による「違法」薬物依存者への仕打ちは情け容赦なく非情である。
ウィークネスフォビュアという概念はまさにそれではないだろうか。ウィークネスフォビュアは信田さよ子さんがご著書などで提起されている概念である。階級論でいえば奴隷根性以外のなにものでもない。自分たちは病人でもアイツらと一緒にされちゃこまる。奴らは「違法」で犯罪者なのだという貴賤上下に晒す考え方である。
タバコをやめられない精神科医はヤクチュウを愛して赦せるのに、酒を愛してやまないマトリの部長はヤクチュウを豚箱へ放り込むための組織を強化して「予算」と「部署」を大きくすることばかりに躍起になっているのだが、それをすっかりひた隠しにして、捜査員を特定薬物捜査へ傾倒させてでも数字を変えて「ホラこんなに検挙者が出ている」と強弁する。若者大麻の統計が伸びた年ほど覚せい剤が同じポイントで減っていたりするのだが、多くの人はその統計を「捜査人数が変わらないのに数字を変えたから片方が増えて片方が減った」という風に見えない。言われてる説明を鵜呑みにする。お役人(権威者)がウソをつくはずがない、という思い込みから自由になれないからだ。予算が変わることで捜査員の人数が変わるから数字の増減がごまかせるわけだ。
最終的にヤクチュウが撲滅されちゃえば部署がなくなるというのに、そこは「自分たちの部長ポストが減らすわけにはいかない」というアディクティックな発想以外ではない、という打算なのだ。
東大が共学化された際、反フェミニズムの急先鋒に大勢の学生が立った。「自分たちの霞が関での座席が女子によって減らされる」という恐れの感情に由来するアレだ。嫌なら磨けばいいのに、だが石投げはしていたかった連中である。
そんな連中がまだ実社会の現役世代とリタイア世代で多数派を占めている社会だから世の中住みづらい。だからといって集団自決しろとは言えない。こんな連中の中にだって良心のある人たちが抵抗してくれたからまだ戦争をしないで済んでいるからだ。
「依存症インタビュー 丸山泰弘 さん①」 犯罪学から見た日本の薬物政策
「依存症インタビュー 丸山泰弘 さん②」 薬物の非犯罪化〜ポルトガルでは?
「依存症インタビュー 丸山泰弘さん③」 ハームリダクション 薬物で命を失わない