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「性的指向又は性自認を理由とする差別の解消等の推進に関する法律案==「自称野党」による「修正」で、マジョリティの差別意図が明確にされた法律==」

主情的な言い方を敢えてお許し願うならこうなる。

「LGBTと弱い者を虐げる男性中心社会を保護強化し、結果的に女性の居場所もなくなるマザコン法」


「僕たちいい子」「僕たち女性を守る」「僕エラい」腕力と権力で居場所をつくってもらってさぞや良い気持ちだろう。
自分が虐めにあい、クラスの全員が無視しヤジを飛ばす教室で生活をした。
あの時と同じ構造が立法府を舞台に展開された。許しがたい光景だ。だが、自分の同年代が政権中枢にいるぐらい自分もトシをとってみると、あのときの連中が同じ事を繰り返しているだけだというふうにも見えてくる。子どものいじめと同じ。AC大国の正体見たり。

TGの人たちが女性としてトイレを利用し、慎重に行動し、何事も起きてこなかったことの方が尊く重要なのに。

どっちにせよ言われるのが、「ホレごらん!」だろう。

権力や腕力に媚びて居場所を作ってもらっている人々が必ず言うセリフがある。「分をわきまえなさい」「実を取りなさい」「長いものには巻かれなさい」って。既得権者ならではの思考と行動の様式を備えている。

さんざん悪くなる方へ悪くなる方へ仕向けて置いて「わたしはこんな結果を望んでいなかった」と後で言い訳すれば良いのも彼らの特徴である。それゆえに治療とともに再発予防のために自己点検・自己改善のを怠らずに行動できているなら、多少は弱い立場の人たちの気持ちもくぐれるのだろうけれども、過去行動し実現もした実績や業績、自負というものが自己点検の目を曇らせる。「それってこうするものでしょう?」という過去の実績をささえてもいた常識を点検し疑うことは、今の自分をすべて否定するような恐れに襲われるからである。だからこそ「わたしの」中の「わたしたち」の問題として社会的に考え直す突き放しもまた必要になるはずなのだが、ここでは別の機会として敢えて触れない。

ここで考えなければいけないのは、女性トイレに侵入しようとした変質者たちの問題と「女性スペースを守ろう」という主張が「男性トイレはただでさえ危険」という一致できるはずなのに、である。ここを議論しないで女性トイレを減らしてジェンダーレストイレの問題はトランスジェンダーのせいだ、式の議論にすり替えられているのがあまりにもおかしい。これに気づかないとすれば、トラウマ反応を利用されているだけだし、気づいて黙するなら、男性中心社会を利用しているだけにすぎないし、加害者に媚びた態度だと申し上げねばなるまい。被害者ヒエラルキーの頂点に鎮座している性暴力被害者層は一切気づくことが出来ない。ばかりか理に適ったと歓喜するわけである。もっとも精神病反応が起きやすいのは自分の意見や意思のままに世の中が回ってくれると錯覚しているときである。
何の異論も示していない。だったら男性トイレの改革に向けて何らかの改善を考えられないのか、男性の聖域のような場所を温存して女性スペースばかり削る議論になっているから問題なのだから男性中心、男性優先、男性の行動が温存され続けている事に問題の根っこがある、そのぐらいわかりそうなものだ。たまには責任をとってみせろといいたくもなる。

80年代末のAIDSパニックの際、国連でさえ「男性の行動変容」が急務とコンドームの使用を強く呼びかけ、アメリカのGAY-AV業界はセックスシーンでの「種付け」「中出し」を10年近く封印したぐらい。日本のGAY雑誌も沢山のエロ記事の踊る中毎号4ページをHIV予防啓発の記事を徹底的に特集しつづけた。毎週末揃いのツナギにキャップをまとった「デリヘルボーイ(性の健康配達人)」のキャラバン部隊がマッチ売りの少女よろしくカゴに山盛りのコンドームをもってゲイバーやダンスホールに訪れてはトイレや受付カウンターなど「こっそり取って帰りやすい場所」に配達して回るイベントなど様々な遊び心でアウトリーチ活動が展開された。その結果2000年代初頭にMSMのHIV新規陽性が10ポイント減る効果すら出た。しかし、それはVulnableであると自覚した自分たちの「当事者自助」でできる範囲を出ることはなかった。
他のフォーカスグループに波及できた事案は「週刊ポップティーン」(学研)の「ポップちゃんのコンドーム」のようなノベルティ作戦はあったもののやはり忌み嫌われるものという厚い壁はシスジェンダーの世界に届き切れなかった。
この段階になってくると、いかに80年代90年代に振りまかれたAIDSパニックでの「AIDS教育」「言説」でのネガティブキャンペーンが「性の健康」という視点を曇らせた。恐怖を抱かせるか、「悪い事」「いけない事」としてラベリングをすることで「悪事の報い=自業自得」というスティグマ化を決定づけてしまったようなものだ。その最大のお先棒を、AIDS対策疫学対策研究班(木原班)やHIVと人権情報センター、川田悦子といった圧倒的なネームバリューを持った人たちによって展開されていた。

今回のLGBT理解増進法は「偏見増進法・差別増進法」の色彩を強めることで、最終的に「女性の居場所をまもる」という美名のもとでトランスジェンダーの人たちへのソフトシェル型抑圧は窒息寸前のところまで締め付けられてしまったし、それを感じ取らないで良い層は何も変わらない。元来男性の恩恵を被ってこられた歓楽街の人たちだからだ。相手は媚びたり弱いわたしを演じたりすれば意気揚々と一生懸命「いい子」を演じようとする層ばかり。そのように飼育されてきた「いい子」たちなのだ。大半が機能不全家庭のマザコン=共依存社会の囚人なのだから仕方ない。ちょこっと「僕たちイイ子」と演技すれば多少のほとぼりだったとしても叩きのめすには十分な威力と抑圧効果はあるだろうし、「ああ議論する時間も手だても少なかった」と「志高き女性」たちが「自己憐憫」を見せられる時間のゆとりもできたわけである。何度同じことを魅せつけられれば気が済むのだろう。
「わたしより女らしい事が気に食わない」と徒党を組んでクラスを分断したあのやり口と同じじゃないか。それでいて性暴力被害者、いじめ当事者を名乗らないでほしい。ブーメランが自分たちに当たっただけじゃないか。
その正体を垣間見させてくれた。

どこにいっても風呂場とトイレの話題しかでなかったし相手はできなかった。ということは風呂場とトイレで今まで使っている人たちがあっても問題がオモテだって起きてこなかったことを伝え続ければよかったとは思うものの、対話になっただろうか。おそらくNOだろう。相手は最初から聞く耳などもっていなかったんだし。

相手の思う壺な議論しかしていないから、拉致があかなくなってしまった。
相手は多数なのをいいことに、法律を骨抜きにし、何事も多数者に忖度しなければならないと居直り、急ぎごしらえとばかりに体制の翼下に参集せよと踏み絵がばらまかれた。治安維持法もいいところだろうに。仮装行列と結婚幻想にばかりうつつを抜かしているから、こういうことになる。せっかく地道に薄紙を重ねるようにパートナーシップ条令を積み上げてくれている地方自治体の人たちの努力を全部上から潰すような結果を招いた。

どうして、こうしている今だってトイレを使っている人がいるし現実にトイレを使っている人はどれだけ気を遣って問題にならないように配慮しているのかを考えてもらわないと、最初から思考停止のメンヘラ反応やトラウマ反応ばかりが飛び交っていて、あれじゃあ呪いの館と変わらない。
そうして周りの弱い人たちを虐げても自分はその上にあぐらかいているから痛みってくぐれないからわからないのよ。
それがACよ。そんな場末の姫さまに戻りたくはない。

こんなもので「女性の安心」を作ってもらって、さぞや結構なご身分で結構な居心地だろうと思う。そして居場所をつくって差し上げたのは男の側であると優越を作れるように構造を見せつけてしまった。

本当に、女性も、これで、よかったのか、なのだ。

「女性の自立」の美名で「ピル解禁」キャンペーンが組織されたのはAIDSパニックのまっただなか。コンドームを使いたくないキャンペーンの名前を隠した「女性の自立」キャンペーン。しかも「低用量ピル」使用者まで担ぎ出して容易に問題をすり替えもしたではないか。医療とて所詮は政策なのだ。医療従事者も科学者技術者も政策に迎合されあるいは巻き取られやすい弱い立場だ。だからこそ間違えやすいのは権力にすり寄って居場所を作れれば主導権を得られれば自分達は安泰だと勘違いもする。それはパワーゲームといじめなのだということを百も知ってやる大人の行動なのだから醜いしわ寄せは必ず子ども達、女性たち、マイノリティにもたらされていく。誰一人取りこぼさない、という民主主義社会の理念に反する発想と行動に滑らせてはいけない。

日本の社会は、売春防止法をはじめとして「ピル解禁」「女性の自立」のもとで職業差別や職業従事者へ人種差別や門地をあてがうなど地政学や風俗学を持ち出してまで差別抑圧を助長し、それらを「歴史的」に烙印を押すという儀式を繰り返してきたではないか。


考えなければいけないのは、差別問題以前の尊厳を認める話をしている段階から誰かの許可を得て居場所を作る・認めるという発想しか持てていない人たちに差別や平等が理解できるわけがない。概念として理解するということはその人の思考の形式に根付くということで、専門用語を覚えることではないのだ。記号の知識しか持てない人たちは概念としてその言葉や音声が聞えたときに共通の思考の形式で理解が次の知識と行動を促せる段階にまできちんと根付いていないから「用語」なのである。

行動の系につながるだけの思考の形式を身につけること。それを単なる形而上学的な所作ではなく「わたしの中のわたしたち」の対話の結果として「こう思う」という行動を決定し動くことが責任でもありその責任を尊重しつつわたしもそう思うと連なることで対話や理解や賛意があつまっていく。だからアドボカシーのプロセスも議論やおしゃべりのプロセスが十分に人々の相互信頼を生むまで耕される必要もありその信頼があればこそ時間をかけても同じ方向へ進んでいける。ミッションと大義名分だけで手っ取り早くやろうとするから目の前に起きたこと=記号しかわからなくなるのだ。

良心と良識を集めるためにも民度を確保し、当事者参画のもとで対話しながら伴走し続ける社会が求められる。だからこその民主主義なのであって、多数決で手っ取り早い解決をするようなものは多数決主義という議会制度上の便宜的な手段であって民主主義の王道ではないし全員一致を目指しつつ不当な扱いや抑圧的なプロセスがあったら議論を戻せる仕組みを作ってでも、徹底的に議論を尽くす、という営みが民主主義の目指すものだし、そう簡単に納得づくで人々が営みを実践できないからこそ過程的動的な成長をし続ける必要がある。それが日本国憲法に明確に謳っている「不断の努力」なのだ。

<参考資料>

https://www.jiji.com/jc/article?k=2023061601192&g=soc
(時事通信)LGBT法成立「後退懸念」 支援者団体が会見―東京

https://twitter.com/taiyokomori_SRC/status/1669823264577966080?s=20
Twitter

FNNオンライン

https://news.yahoo.co.jp/articles/4b6f680e4c450c74dcc1f65eb9be8fcf7bbc60d6
Yahoo-毎日新聞

LGBT 理解増進法案に関する会長声明(東京弁護士会)
https://www.toben.or.jp/message/pdf/210610seimei.pdf



最後に
アナタじゃないのよ、アナタじゃない。
待っていたのはアナタ(櫻井よしこと日本会議)じゃない。
ついに本性を現した。本当の凶悪の嘘つきがやっと名前を露わにした。






LTBGと掲げたタイのコミュニティ。正しさではなくメッセージを優先した勇気=2004年国際エイズ会議(バンコック会議)記念のPRIDEパレードでの経験=
https://note.com/8910_bigmama/n/n8dca8c205871


<資料紹介>「国境を越えた対応==貧困、薬物使用、HIV および AIDS に関する南アジアワークショップ==」(UNAIDS@カトマンズ.2009年)
https://note.com/8910_bigmama/n/ncd32c5bf0dd6


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