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『あとの祭り』2

 白い履き潰したコンバースを急いで履き、外に出る。初めて有給を使う嬉しさと同僚への申し訳無さ、穏やかな時間を過ごした自分に驚き、両親への憎しみが心の底にコールタールの様にこびりついていた。色んな感情が頭の中を右往左往し、鍵を持つ手が震える。両手で鍵を締めただろうか。自転車に乗った今、もう覚えていない。
 今日は風の無い青空だ。緩やかな下り坂を降りてゆく。父の死因は何だったのだろうか。母は言っていなかった。葬儀や告別式はいつなのか。日にちも言っていなかった。何か隠しているのか、言いたくないのか、それはわからないけれど取るに足りないことだ。今は頭をスッキリさせよう。遠くにベージュの大きな一軒家がある。玄関横にオレンジの花が咲いているのがみえた。その花のことだけ考えていようとペダルを踏む。業務のようにペダルを踏む。職場はもうすぐ。ペダルを踏む。

 いつも以上に通勤に疲れた感覚に襲われながらも、笑顔で同僚と入居者様に挨拶をする。入り口横にある洗面台で両手を念入りに洗い、うがいをする。右手に歩いていくと更衣室、休憩所があるのだが、
「大宮さん?」振り向くと草間さんがいた。
 「あれ、有給。今日からでいいよ。そのつもりで話していたんだけど、伝わらない話し方しちゃったかな、早番のシフトは僕が出るから大丈夫だよ、仮眠取らせてもらうし。せっかく来てくれたのに夜勤明けで頭回らなくて申し訳無いね。」
「え、今日の勤務、シフトもう決まってますよね。私抜けたら…」
「せっかく来てくれたのに、気使ってくれてありがとうね。しかし大宮さんは責任感が強いね。」
「私有給取るの初めてで、当日は取れないと思っていました…」
「事情が事情だし、いつも真面目に仕事してるのちゃんと見ているから。いいんだよ、たまには甘えて下さい。」
まさか今日から休んでいいとは思っていなかった。
「ありがとうございます、今日から有給取らせてもらいます。忙しくさせてしまい申し訳ありません。」
草間さんは笑顔でひらひらと手を振りながら入居様の所へ行った。ぼーっとしていると同僚が優しい微笑みで
「早く行きなさい。」とお菓子を手渡しながら言ってくれた。狐につままれたような感覚でいると、職場での存在意義や立場なんかを考えようとしている自分とぶつかった。でも今は草間さん、同僚に、甘えてみようと思う。私は入居者様に会釈をしー帰っちゃうの?寂しいわぁ。など声が聞こえるーコンバースを履いて施設から出た。さっきとは違って爽やかな風が草木の香りを運んできた。自転車の鍵を右のポケットからゆっくり出し、今日中に喪服などを揃えるために頭の中で軽く予定を立てながら鍵を外し自転車に乗る。左右を確認し右足でペダルを漕ぎ始めた。まずは時間はまだ朝の8時10分前。私は今日は早番で7時半出勤なのだ。買い物をするにしても早すぎる。一度自宅へ帰ることにした。帰り道は緩いが上り坂でいつも億劫なのだが、今は喜々としている。高揚とか、胸が高鳴るとか…そんな言葉が頭の中から沢山飛び出してきそうだった。右、左、右、左…声に出しながらペダルを漕ぐ。自転車に乗れるようになったのはいつだったっけ。小学校低学年だっただろうか。隣に住んでいるお姉ちゃんのお下がりのピンクの自転車をもらって練習した。一人で練習したから乗れるまで時間がかかった気がする。懐かしい。何故か遠くの方に父が腕を組んで立っており、私を睨むように見ていた。いつ乗れるようになるのかイライラしていると幼い私は感じ焦っては転び焦っては転びを繰り返した。父を横目で見ると、機嫌が悪そうに煙草を吸っていた。後から知ったのだが、なぜ父が私を見ていたのかと言うと近所の目があったからということだった。子供一人で練習させてる酷い親だと言われたくなかったのだろう。声を出しながらもそんなことを思い出してしまうのは自分らしいなと苦笑いを浮かべた。発する言葉と脳は繋がっているのかもしれない。自転車を止め、コンビニに寄り煙草を一本吸う。あの頃の父のように機嫌が悪いわけじゃない。今考えていることは父はなぜ死んだのかだ。口の中に煙草特有の苦味が広がり、苦味を味わいながら私は一点だけを見つめて考え込んでいた。病死?事故?なんで?

 アパートに着き自転車を止めている間も父の死因について考えていた。少し疲れたのか目頭が重い。階段をゆっくり登り鍵を開ける。もう手は震えていなかった。母に電話をかけて父の死因を聞いてみようと携帯電話を右手に持った。サーッと血の気が引いてゆく。ベッドにドサリと座ると耳鳴りが聞こえてきた。
 「小遣いやるから風呂はいるぞ」父は言い無理やり服を脱がせようとした。私は小学校6年生で一緒に入るなんて嫌だったのだが、前日に父の機嫌の悪さのせいで何度も殴られたことも手伝い、怖くて嫌だと言えなかった。抵抗も出来なかった。湯船に浸かると
「笑え!」母の声が聞こえた。母は手にカメラを持っていて私が笑った瞬間の写真を撮っていた。体も洗わずすぐに湯船から出ると
「一丁前に体だけ大人になってきて。」と父はボソリと吐き捨てるように言った。私の中でぐらついていたものが倒れた瞬間だった。後日両親の友人何人かが自宅に遊びに来た時、私は自分の目を疑った。
「まだ一緒に入りたいって聞かなくてねぇ。父親として困っちゃうよねぇ。」と気持ちの悪い笑みを浮かべながら、無理やり湯船に一緒に浸かっている写真を友人たちに見せていたのだ。自慢げに。
「もう小学校6年生なんだから一人で入らなきゃかえって心配。お父さんが大好きなんだねぇ。」と父の友人の奥さんがケラケラ笑いながら言っていた。倒れ壊れた心には悲しみと怒りを感じる余白はとうに無く、こういう人間には私はならないと自分自身と約束するので精一杯だった。
 耳鳴りが収まり、静かな部屋を眺める。ここに私に辛い思いをさせる人間はいないのだ。深呼吸をし、息を整える。昔よりは母の言葉を聞き流せるようになっていると思う。でも怖くてしかたがないのだ。みぞおちの下辺りがとても寒い。携帯を握りしめ着信履歴から母へ電話をかける。
「いま忙しいんだけど何なのさ。」
「…お父さんなんで死んだの」
「自殺だよ今警察署で預かってもらってるわ通夜は明後日次の日告別式だから明日には家に来なさいよ」
「わかった」
携帯は向こうから切った。というか切られてしまった。父が自殺なんて。原因はなんだったのだろう。まぁ、そんなことはどうでもいい。私にとっては喜ばしいことだ。死んで私にした数々の虐待を詫てもらった気分だ。
 明日には実家に行くのだからエステの予約を変えてもらおう。ウェブサイトサイトを開き10時からの時間に予約を変更した。お腹も減ったので冷蔵庫にある冷たいトマトを丸かじりした。

 はじめてのエステだ。緊張して中に入る。
「10時から予約している大宮です。」
受付の女性は化粧が濃く、でも肌は綺麗だった。そして甲高い声で
「はいっ、大宮様ですね。お待ちしておりました。ご来店ありがとうございます。本日90分のスペシャルケアコースでお間違えありませんか?」
「はい。」
「施術の参考になりますので、お手数ですがこちらお書き下さい。」
用紙を渡され待合室に通される。ここのエステの内装は優しいピンクにグレーを貴重にしていた。この通路を歩いているだけで気分がとても良い。待合室に着くとウェルカムドリンクのローズヒップティーが出てきた。こんなこともしてくれるのかと驚いていると
「エステは初めてですか?」
「あ、はい。もう年齢的に行かなきゃだめかなって…」とっさについた嘘だった。
「お化粧あまりされていませんよね?お肌凄く綺麗で羨ましいです。」お世辞だと思うがお互い会釈をし、受付の女性は元の場所へ帰っていった。私は住所などの個人情報の他に、肌の悩みやアレルギーなどを用紙に書きエステティシャンを待っていた。2、3分経ってからエステティシャンは来て、
「ご来店ありがとうございます。担当の田中です。宜しくお願いします。」
「大宮です、宜しくお願いします。私エステ初めてで…」
「はい、受付の方から聞いております。用紙を見せて頂いていいですか?その間にガウンに着替えてもらいますね。」
促され着替えへ。緊張が高まっていくが嫌な緊張ではない。潤った肌を想像し頬が緩む。名前を呼ばれ施術室に入る。田中さんが待っていた。私は施術台の上に横になり90分全ての時間田中さんに身を任せるのだ。明日のことは考えずゆったり過ごしたい。目を閉じた。遠いところから田中さんの声が聞こえる。ーチカラカゲンドウデスカー私は丁度良いという意味で軽く頷いた。明日は母に会うのだ。今だけは臆病にならずに過ごしたい。せっかくこの時が来たのだから。

※毎週月曜更新…

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