さんがつここのか

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3月生まれの、大切な旧友へ捧ぐ。


*


いつもと変わらぬ朝だ。

ようやく冬のぴんと張りつめた空気が解けてきて、穏やかな陽射しを暖かいと思えるようになってきた。

ただ違うことがひとつ。


遠山美凪(みなぎ)はハンガーにかかった制服に手を伸ばした。


今日この服を脱いでしまえば、もう高校生活は思い出へとすり変わってしまうということ。


「あっという間だったなぁ。」


ひんやりと冷たいワイシャツに腕を通し、ボタンを留めていく。


階下では双子の凪紗(なぎさ)がせわしなく母親に喋りかけているらしい。母親の短い台詞が時折微かに静寂を作っていた。


ネクタイを締めるのもそこそこに、スクールバッグを肩にかけ階段を降りていく。ダイニングに腰掛けて、焼いたトーストをぱくつく兄の海晴(かいせい)と目が合った。

「美凪、卒業おめでとう。」

手についたパン屑をはらい落として、そう微笑む。常に穏やかで、朝の慌ただしさすらも感じさせないその表情は、いつだって美凪という名は兄につけられるべきだったと思わせた。


美しく、波立たない穏やかな海。


幼少期から思い立った瞬間に走り出し、人の話もそこそこに飛び出して行くような俺よりも。


「……ありがとう、海。」

浮かない顔に気づいたであろう海晴が含みのある笑顔を見せた。

「何、卒業寂しいの?そんな顔されると祝いにくいじゃん。」

「ちっげえ。いやまあ寂しいけど!」

勢いだけで反論したものの、海晴は一層からからと笑った。

「素直じゃないなぁ。」

こういうとき何を言い返したって海晴には歯が立たない。海晴の方が一枚も二枚も上手なのだ。

「うるせ、仕事行けよな!」

きまりが悪くなって視線を外した。

「残念、何のために今日明日と有給取ってると思ってるの。」

ひらひらと海晴が手を振る。美凪はぐ、と声を詰まらせた。

(弟と妹の卒業式のためにわざわざ仕事休むか、普通。)

しかしそれを平気な顔でやってのけるのが兄だ。昔から変わらない。誕生日も、入学卒業、受験合格も自分のことのように喜んで祝ってくれた。嬉しいけれど、性格上素直に真っ向からありがとうと言えないのも事実だ。


言葉に迷っているうちに、洗面所から身支度を整えた凪紗がひょっこりと顔を出した。

「お兄ちゃん、明日は買い物付き合ってよ?欲しい服あるの!」

能天気に言ってのける凪紗に、美凪は盛大に溜め息をついた。

「あ?凪紗は兄を財布だと思ってんのか。」

「なんでよ!それは美凪でしょ。欲しいゲームと漫画の話ばっかしてたじゃん。」

美凪の今の今までの心情などまるでお構いなしに割り込んでくる凪紗に、美凪はどこか身が軽くなっていた。威勢ばかりが良い話し方は、力技以外の何物でもないのだが。

「……あー、二人別々に買いに行く方がいいのかな?」

海晴は双子の弟妹を見て少し困った顔を作った。しかし凪紗はその表情すら跳ね飛ばした。

「別に!そういうんじゃないし。てか、私もう行くから。待ち合わせ遅れちゃう。」

「知らねえよ、早く行けっての。」

はいはい、とでも言いたげに海晴は笑って手を振っている。母親は少し離れた場所にすわりコーヒーを飲んでいた。三人のやり取りを少し呆れたように、でも楽しそうに見届けている。凪紗はダイニングキッチンを出る直前にもう一度ちらりと海晴を見た。

「てか、お兄ちゃん、卒業式来る気?」

その質問に思わず美凪も海晴に向き直った。

(え、まさか来るとか言わないよな。)

いくらなんでも小っ恥ずかしい。

二人の意図を汲んだからなのか、そもそも考えが決まっていたからなのか、海晴は吹き出し笑いをした。

「流石に行かないよ。行ってらっしゃい。」

海晴は何度か部屋の時計を指さして時間だよ、と伝えてもう一度と手を振った。凪紗がつられて時間を見て軽く手を振り返した。

「なぁんだ。行ってきます!鍵よろしくね!」

ドタドタを廊下を走る音が止んで、少し経つとバタンと扉の閉まる音が聞こえた。室内が一気に静かになる。海晴が皿を下げようと立ち上がった拍子に響いた椅子の音がやけに大きく聞こえた。


「まじで嵐みてえなやつ……。」

玄関の方を見つめながらぽつりと美凪は呟いた。

「それは美凪もね。」

「分かってるよ、俺ら名前負けしてるよな。どこも凪じゃねえ。」

海晴に素早く付け加えられ、美凪は唇を尖らせた。海晴を見やると、早々に皿を洗いラックに立てかけていた。

「こらこら、命名した母親の前だけど?」

黙って見守っていた母親がおどけた調子で美凪を指で示す。わかってるけど、と尚も不貞腐れた表情で返した。

海晴が割って口を開きかけたとき、再び玄関で扉の音がした。早口で凪紗が何かを言っているのが聞こえる。海晴はまるで気にしていなさそうにそのまま続けた。

「俺はすきだよ。美凪も凪紗も。行動はそりゃちょっと嵐かもだけど。」

そっぽを向いた美凪と、忘れ物!と慌ただしく戻ってきた凪紗の肩に手を置いて引き寄せる。凪紗がきょとんとした顔で海晴を見ている。

「二人が元気でいるおかげで、俺は今日も穏やかでいられるわけ。周りにいる人の心を凪にすることができる、それで充分。負けてないよ。」

海晴を挟んだ美凪の隣で、凪紗が目をぱっちりと開き息を飲んだのが分かった。

(ほんと、俺らの扱いわかりすぎだろ。)

美凪は相変わらず海晴に向き直ることが出来なかった。何を思い、どんな言葉を待っていたのか、見透かされている気がした。

……頬が熱い。

海晴はそれでも飄々としていた。

「……凪紗、これでしょ忘れ物。」

双子が何も返せずにいる間に、海晴はテーブルの上のスマートフォンを凪紗に手渡す。

「あ、うん。てか、え?何。」

ようやく凪紗がぱくぱくと口を動かした。言いたいことがまとまらないのは凪紗も同じらしい。

「いや別に。いいんだよ、二人は今のままで。高校卒業しても、さ。ってそれだけ。」

「あ、ふぅーん、そう。ま、そんな簡単に変われないし?」

凪紗はスマートフォンを受け取るとそそくさと部屋を出ていった。足音は随分と静かだった。


海を晴らす……ね。


一向に勝てる気配がない。六歳も離れていれば、そういうものなのか。いや海晴と双子に生まれていたとしても敵わない気がする。勝ち負けではないと分かっていても、なぜだかそう思った。


「美凪、ネクタイ。」

美凪が立ち尽くしていると、海晴がするりと美凪のネクタイに手を伸ばした。首に掛けてそのままだったネクタイはあっという間に結ばれてブレザーの中へしまわれる。

「あ、ありがとう。」

普段美凪が自分で結んでいるときよりも遥かに丁寧に綺麗だった。きまり悪く身じろぎする。海晴はぱっとネクタイから手を離して歯を見せて笑った。

「いいのいいの、ちょっと懐かしくなって。」

「……?」

「いや、ほら中学とか高校で、こういう何かの式のときだけネクタイ全員締めろって言われるじゃん。いっつも結べない人の結んでたなあって思って。」

その目はどこか遠くに焦点を合わせているらしかった。

「……俺は、いつもはちゃんと結んでるからね?」

「大丈夫、分かってるよ。」

子ども扱いされている気がしてむすっとした表情を作る。海晴は声を上げて笑った。

「もう、俺も行ってくるからね!」

ぱっと身を翻し、早足で廊下を歩く。

「はいはい。鍵、締めるよ。」

海晴はどうやら律儀にも美凪のすぐ後をつけて歩いてきたようだ。美凪がしゃがみもせずにローファーをつっかけるのを待って、ひらりと右手を上げた。

「じゃ、行ってらっしゃい。」

「行ってきます……。」

美凪が扉を押す。隙間からふわりと春の風が舞い込んだ。眩しさで目を細める。

気づけば身を引き締めさせるような冷たい風はどこかへ行ってしまったらしい。やわらかく陽に融かされたそよ風が頬を撫でる。

きゅ、と肩に掛けたカバンの取っ手を握り直した。


「行ってきます。」

パタリと閉じて隔たれた海晴には聞こえない場で、もう一度言い直した。


通りの一角にはこぼれ落ちた梅の花。

桜が舞うのにはまだ春は青いようだった。

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