なろう系の流行は本当に一過性なのか?
否。
そもそも、従来の文芸となろう系をはじめとしたネット発の文芸はビジネス構造が根本的に異なる。
<従来の文芸>
文芸誌とその新人賞。
従来の文芸の発掘過程はほぼ全て、マスメディアの構築したプラットフォームを介して発信されるものだった。
ある種、マスメディアから大衆に対する一方通行的な情報発信。
文化の形成。
<ネット文芸>
ネット文芸はSNSやブログ、小説投稿サイトに投稿された作品を出版社が発見し、書籍化することによってビジネスとして成立する。今まではマスコミを介さなければ、小説家は作品を広く世の中に発信できなかったが、インターネットが普及したことで、人々は自由に作品を投稿できるようになった。文芸作品発表の主導権はマスコミから大衆へ。いや、プラットフォーマーに移ったのである。
なろう系はなぜ一過性と言われるのか?
・テンプレート化されたストーリー構成。
・無駄に長いタイトル。
・ファスト化されたストーリー展開。
それらのコンテンツは重厚な文芸作品と対照的に量産的であると言われ、その文化的価値が軽視されてきた(と僕は個人的に感じる)。
しかし、従来の文芸はビジネスとして絶滅寸前であるのに対し、ネット文芸は作品を迅速にコミカライズするスキームを各出版社が整備したため、今もビジネスとして成立している。
もはや、文字だけで伝わる芸術に価値はない。文芸に求められているのはコミカライズや映像化しても通用するアイディアなのかもしれない。
つまり、なろう系作品は一つ一つの作品はもしかしたらファストコンテンツかもしれない。しかし、その中から大ヒットを飛ばし後世に残る名作は出てきている。それに、小説投稿サイトから書籍化し、ビジネスとして成立するスキーム自体は高度情報社会に適応したもので、一定の普遍性を持つのではないか。
伝統芸能化したコンテンツに発展はない。
ビジネスとして成立しない芸術に未来はない。
なぜなら、人々はそこにお金を払う価値を感じていないということだからだ。熱狂が生じていないということだからだ。
日々謙虚、日々感謝。
これからも文芸コンテンツは未来に向かって発展していく。