心はドライに仕上がって。
完読時間:5分
男心が芽生え始めた中学生頃から、軽くウェーブが掛かっているような髪型に憧れていた。
それなりに努力はした。
用途の違う整髪料は幾つか試してみたし、高級な美容室には行けないにしても、オシャレらしきところへ数軒は行ってみた。
仕上がりはいつも変わらない。
美容室ではそれなりになるんだけど、家の鏡で確認すれば元のとおり。
分かってはいるけれど、ちょっとガッカリする。
そう、頑固一徹、直毛のストレートなのだ。
30代後半のあの日までは、もう半分、いや、大方あきらめていた。
その日、通い慣れた美容室の店長さんに、まあダメ元で「昔から何か動きのあるような髪型に憧れるんですよ」
「天然パーマの人とか羨ましい」
と言ってみた。
店長さんとは、いつもアホな話しばかりしていたので、急にこんなことを言い出す僕を苦笑するかと思いきや、真面目な顔になって
「髪の毛、かなり直毛ですもんね。横髪も直ぐに張ってきますよね、分かります。」
と同情してくれた。
そして、しばらく間があって、
「軽いパーマとかやってみますか?」
正直、またかあ、今まで何度も聞いた軽い言葉だった。
その発想は初期の初期に思いついていたけど、それほど毛量が豊富でない身には、何かむりやり捻って引っ張るという行為は、髪が禿げそうだし、その選択肢だけはない、と敬遠してきた。
「パーマはちょっと・・・」
ここでこの話題は終わり、何か話題を変えようと探していると、まだ続いていたようで
「ドライカットはしたことあります?」
「ドライカット??」
「それってどういうのですか?」
初耳のドライカット、ドライカット・・・
頭の中を独りでに言葉が駆け巡る。
何ひとつ知らないにも関わらず、キラキラと輝き放つ言葉に、僕は興味津々になった。
「普通、カットするときって、始めにシャンプーをして髪の毛を濡らしてから切っていくんです」
「ああ、そうですよね」
「その方がまとまって切れるし、時間も短縮できるんですよ」
「一人当たりにかけれる時間って決まっているから、濡らして切ってるところがほぼですよ」
「へえー、知らなかった」
「ドライカットって髪の毛を濡らさないんですか?」
「そうです。髪の毛を濡らさず、ハサミのみで切っていく方法なんですよ」
「さすがにパーマみたいにウェーブにはならないまでも、濡らして切るより、動きはずっと出ますよ」
ここまで聞いて、僕にはポジティブな想像しか存在しなかった。
救世主がついに現れた。
「じゃあ、次回はドライカットでお願いします」
迷いなく真っ直ぐに言った。
すると、
「僕、ドライカットできないんですよ」
と店長の声。
「エッ」
「ドライカットって美容学校で習わない技法で、僕はドライカットしてないんですよ」
「だれでもできるというわけではないんです」
「けど、このあたりでもドライカットされているところあると思いますよ」
家に着くなり、ドライカットと検索した。
ひとつのところに目がいった。
ドライカット専門と書いてある。
しかも、そこは、家から程近くで、たまに前を通ることもあったところだ。
理容と美容室の間くらいの雰囲気で、かなり小さな店構えのところだったなと思い出した。
さっそく電話をかけて、予約をした。
やはりドライカット専門だとの返事だった。
ひと月後の日曜日
僕は遅れないように、早めに家を出て、店に向かった。
緊張してきた、ドライカット初経験。
僕は今まで味わったことのない何かを背負って、予約時間より少しまえに店の扉をあけた。
「あの、スミマセン、15時に予約していたものです」
奥から50歳くらいの若くも歳でもないような長髪の男の人が現れた。
他にスタッフは見当たらず、鏡台もふたつだけで、ひとりで切り盛りされているようだった。
失礼な話しだが、オーナーの雰囲気があまりイケているオーラでなかったので、少し不安がよぎったけれど、技量があれば問題なしと、即思い直した。
すぐに、案内され、鏡のなかの自分を見ながら、少しだけ待った。
オーナーはかなり無口で、はじめましてもそこそこに、何も言わずに僕の乾いた髪の毛を一通り触り、チェックし、ハサミで切り始めた。
今までに一回も味わったことのない切り方だった。
ひとことで言えば、おそろしいくらい、ゆっくりと、ちょびちょびと、ちょっとずつちょっとずつ切っていくのだ。
ぴったりな言葉があるとすれば、盆栽をちびちびと手入れするみたいな感じだった。
これまでの美容室は「お願いします」から「ありがとうございました」まで1時間を越えることは稀だったし、床屋に至っては、30分くらいなもんで物足りなく感じるものだった。
15時すぎから始まったドライカットは16時が過ぎて、17時を回った。
さすがに目を閉じて、同じ姿勢を保つことに疲れてきた。
「石鹸でアタマ洗います」
久しぶりに発せられたオーナーの言葉に安堵、ようやく終了か、長かったなあ、と思いつつ、どんな風になったのか、期待半分、怖さ半分、見たくなった。
洗い終わり、乾いた髪型は、うん、たしかに時間を掛けて切ってもらっただけあって、いつもの仕上がりとは明らかに違っていた。
いい感じに動きのある表情をしていた。
「ありがとうございました」と言おうとしたら、オーナーは無言で、再び切り始めた。
マジかと思いつつ、気の弱い僕はじっと修行僧のように耐えるしかなかった。
首が凝ってきた。
気のせいかも知れないけど、ちょっとアタマも痛くなってきた気がする。
もう少しで限界が近づいたとき
「最後、石鹸でアタマ洗います」
オーナーの声。
「やっと終わったあ、ああシンド」
僕の心の叫びを気にする様子もなく、乾いた髪を再び最終チェックして、さらに手直しに取り掛かかった。
結局、店の外に出たのは18時過ぎだった。
カットのみで3時間。
会計が少し怖かったが、何と3000円。
いつもより安い。
はたして採算は取れているのだろうか。
しかしオーナーは疲れないんだろうか。
カットしているときに、ボソッと「髪の毛を切っている時間が一番好きなんです」と言っていたのを思い出した。
「丁寧にありがとうございました」
美容室を出ると、外はもう薄暗くなっていた。
なんだか寒さも身に染みる。
支払いをしているときに、オーナーから次回の予約はどうしますかと尋ねられたが、また連絡しますと丁重に断った。
もうここにはこないだろうと直感で感じた。
家に着くなり、鏡の前で慣れない髪型を凝視した。
やっぱりいい感じだ。
オーナーさん、ありがとう。
四方八方に髪の毛の先が違うほうを向いており、さらに手櫛で整えると、さらに良くなった気がした。
風呂に入って、細かな毛を洗い流し、乾かして、再び見てみたが、やっぱりいつもとは明らかに違って映っていた。
僕の職場は、女性がとても多い。
ほとんど女性と言ってもいい過ぎではないくらいだ。
しかも、運良く人間関係は良好で、居心地も良い。明るい職場。みんな優しい。
明くる日の月曜日。
いつもより少し早く目が覚めた。
鏡のなかは昨日と変わらない。
いつもと少し違う髪型を引き連れて、僕は早々に家を出た。
久しぶりに少しドキドキしながら。
少し早めに職場に着いた。
僕の部署は3階にあるのだが、その日は直接3階へは行かず、一旦2階のトイレに入った。
鏡の前で最終確認。
イイ感じかどうかは分からないけど、悪くはないような気はした。
皆とはそれなりに仲良くやっていたので、何かしらの反応はしてくれるはずだ。
やっぱり一番うれしい反応は
「何かいつもと違うやん。ええやん。似合ってるやん」だ。
これ以上はないけど、まあこれはないだろうな。
次に考えられる反応は
「何かいつもと違うやん」
これでもすごくうれしい反応だよな。
もうひとつ可能性大の反応は
「散髪したん?」
感想はなし。可もなく不可もなしパターンだ。
最後にあまり嬉しくないのだが、気が付くが、何も言われないパターンだ。
触れられないパターンだ。
たぶんと言うか、かなりの高確率で、この四つのどれかのリアクションだろうと思っていた。
最後にもう一度、髪の毛を捻ったり、下から上にと、ストレートを出来るかぎり乱した。
仲が良いだけに、いささか少し緊張してきた。
意を決して3階へ行く。
何気ない、知らない顔を装って、いつも通り「おはようございます」とあいさつを交わした。
みんなそれぞれ作業をしていたが、10秒ほど経ったとき、ある女性が僕を見た。
そして、僕をあだ名で呼びながら、親密かつ、気さく、全く悪気のない口調で、
「エッ○○○○どうしたん?」
「髪の毛、めっちゃくちゃ寝癖付いてるよお」
一瞬、いやニ瞬の沈黙。
心の動揺ハンパなし。
「エッホンマ?起きてすぐ来たからかな」
僕は、先ほどトイレで動かしていた真逆の方向に手櫛を入れて、前髪ストレートにしていた。
一週間後。
あのもしやのよろこびは何処へやら。
鏡のなかには、いつもと何ひとつ変わらぬ、直毛ストレートが映っていた。
あの日以来、ドライカットはしていない。