言葉の限界と孤独
タイトルつけるの苦手。ChatGPTに決めてもらおうと思ったら「孤独と向き合い続けた日々」「孤独と理解のはざまで」とか出てきてクサッ!ってなったので却下。あ、私の文章がクサ判定されたってことか。そんなことないと思うけどね!まあいっか!
孤独感を癒してくれた「書く習慣」
自分の言うことが人に理解されなかったり、共感されなかったり、共感されてるけどそういうことじゃない、という経験が多いと、次第に誰にも心を開かない方がマシだと思えてくる。理解できないけどなんとなく流されている感覚なんかもプチ辛い。自分のことを誰かに話すことが、わざわざ孤独感を突きつけられに行くメンタル特攻隊みたいに思えてくる(当然比べもんになりませんが)。周囲にどうこう言いたいわけではなく、私が、自分自身の言葉の足りなさやもどかさも感じていた。「理解されている」という感覚を得るのはそんなに簡単じゃなかった。
人との繋がりを諦めると「1人が好きなんだよね」と主張しだす。誰も聞いてないけどね。1人の時間が充実していて、自分で自分を楽しませることができて、自立した大人だねという感じがする。がっかりすることも何かを失うこともないので安心してる気がしてくる。元々1人遊びが得意なので、1人の時間を過ごすことに孤独感はない。でもそれは人との繋がりを諦めて1人で生きていけるということではない。
書くことが習慣になってから3年ほど経った。いつ書き始めたのかははっきり覚えていないので自然現象だったんだと思う。これが書きたい、今日から始めるぞ、みたいな感覚はなく、上手に書けないとか、何を書けばいいのかわからない、とかもなかった。noteもなんか続いている。私はあんまり物事が続かなくて、人生で一番続いたことが義務教育の9年なのですが(ほぼ懲役)、書くことに関しては、続くか続かないとか上手い下手とか、そういう次元じゃない感覚があります。
私の孤独感は、自分の感覚を説明するスキルが乏しかったことが一つの原因だったように思う。別に言語化スキル高めようとか思って書き始めてないけど、書く習慣は私の言語化スキルを上げてくれたと思う。それで全てが癒されるわけではないが、共感されなくても「なるほどね」「そういう人ね」と理解されることはかなり大きい。「何考えてるのか分からない」って最近言われない。
私達は一人で生きられるように作られていない
人との繋がりを諦めていた私ですが、徐々に、自分がとても寂しがりで、人一倍繋がりを求めていることを受け入れ始めた。その感覚を見ないふりしてただけでずっとそうだったんだと思う。なぜ見ないふりしてたかというと、私は1人で何でもできて、手がかからないことを褒められて育ってきたからです。3歳の時に母に一緒に寝ようと言って驚かれたような幼少期(親談)だった。周囲を心配させること、寂しい時に寂しい、苦しい時に苦しいと言うことは、私にとって自分の存在価値が揺さぶられることだった。あ、なんか過去形になってますけど普通に今もそうです。
これを書いてる今リアルタイムで私の価値がガタガタ言ってるわけではなく、むしろ書くことで自分にハグをしています。母曰く私は「気付いたら育ってた」とのこと。誰や育てたの。育ってないのかもしれない。あ、母の教育を責める気はありません。良い面もあるので。自分の苦しみに対して敵がいない辛さみたいなのもありますが、完璧がない中でよく育ててくれたと思います。
論理的に理解したことで私の性格の土台がひっくり返ることはない。でも理解することで自分に優しくなれるし、対処ができる。ここに書けても、実際に誰かに直接求めるとなると心がざわっとする感覚があります。それが必要だとはわかっているけど、自分のタイミングがあると思うので自分に強要はしたくないです。大事だからやろう、とか自分に言いたくない。なんかそういうのはもう可哀想なんです。
1人で生きてきたとか、1人で何でもできるとかは思ってない。ただ求めることが怖いだけ。勇気がいります。だって「手のかからない、なんやかんや大丈夫な子」でいることが私の生きる術だったから。でもアナタはそもそも生き物として1人で生きていけるように作られてませんよ、ってのと、書くようになってから、noteを始めてから、誰かと心から繋がれそうな希望を持てるようになってきたんです。(自分の生きる術が生き物としての作りに反するなんて人間くらいでは)
言葉の限界と言語化の暴力性
誰かに理解されたいという欲求から書き始めたのかもしれない。でも書くことが習慣になるにつれて「感じること」が苦手になっていることに気付きました。思考を整理するのはスッキリする。でも感じたことを感じ切らずに言葉にすることが暴力的に感じます。最近の私は感情の味方ができるようになってきたので、例え自分の孤独感を癒してくれる行為だとしてもこれは放っておけません。こんなに文章書いといてアレですが、言葉って結局かなり荒削りというか、所詮言葉というか、どんなに言語化が上手な人でも感情や感覚と言葉が1対1になることはないし、言葉にした途端に切り取られる部分がハンパない。それは完全に誰かに理解されることも、私が誰かを完全に理解することもできないということだと思っています。私はずっとその幻想を求めていたと思う。寂しいから。みんな孤独だけど、それに気付いているか気付いてないかってだけなんじゃないかと思うんです。どっちが良いとかはないと思いますが。
孤独を受け入れることは、繋がりを諦めることじゃない
「誰かと繋がっている」という感覚がどういうものかは人によって違うと思うのですが、私は、自分と同じように「繋がっている」と思える相手はそんなに多くないのも何となく感じています。でも「完全には分かり合えないこと、分かってるよ」という感覚、その前提をわざわざ言葉にはしないけど、そういう人たちに希望を見出したな、と思いました。
それでも生理前とかたまに孤独感に襲われますが、そんな時は枕を自分だと思って抱きしめながら寝るようにしています(意外と効くのでオススメ)(脳みそチョロい)
、、あ、洗濯機回したの忘れてた。忘れないようにいつも携帯のアラームかけるのに、それも忘れてたー!アラームのアラームかけなきゃー!妖怪アラーム女!
ではまた〜!