メサイアコンプレックスを知ったら、昨日より正直な私に出会いたくなった。
初めて聞くのに感じ覚えのある言葉。それが、メサイアコンプレックスだった。
““満たされない自分を満たすために人を助けようとする”。 そのことによって、「相手の役に立ちたい」といいながら、相手をそこねてしまうことがある、ということらしい。”
「誰かのために何かしようとしなければ」
ちょうど1年前の自分はそう思っていた。
何もすることがない実家で、起きて、食べて、寝るだけの日々。何より一番最初の非常事態宣言が出た頃、ただの学生でしかないことが嫌で嫌でたまらなかった。
「自分は何のために生きているんだろう」
誰からも必要とされていない感覚が苦しかった、なんて言い訳なのは知っている。でも、自分で自分の生きる意味を作ってあげること、存在を認めてあげることができなくて、どうにか社会と繋がろうとした。
インターンを探してみたり、たまたま見つけた自主プロジェクトに参加してみたり、とにかく誰かのためになりそうなことに手を伸ばした。
そして、「さすがだね、ありがとう」「一緒にできて良かったよ」などと言われると、ああ私は生きている、生きていていいんだと思うことができた。
でもまさにこれが、メサイアコンプレックスだった。
実家から一人暮らしに戻り、それまでやっていたことが白紙に戻ったときに襲ってきたのは、孤独感だった。
結局私はいる場所に左右されている。何にもできないちっぽけな人間だ。誰の役にも立っていないじゃないか。
そんな悲観的な感覚ばかりが心に押し寄せ、どうしようもない日々が続いた。幸いその後しばらくして非日常な日常にも少しずつ慣れてから、その孤独感はいつの間にかどこかへ飛んでいってしまった。
しかし今でも、あの時の苦しさを思い出す時がある。
それは時にSNSのような間接的な顔の見えない関わりだったり、知り合いのような直接的な信頼関係のある関わりだったり場面は様々であるが、目の前にいる人が発している「〇〇したい」がその人が持つ複数の欲求に羽交い締めされているように見えてしまうのだ。
あくまでも主観で、余計なお節介なのは承知の上だけど、そういう人に出会うと本当に心が痛む。その複雑に絡んだ欲求や満たされなさをどうしようもできない自分が嫌になる。本当に勝手な話すぎるが。
そして、「ああ、私が何をしても何を言ってもこの人の苦しさはどうしようもできないんだ」と悟った瞬間、その人から離れるという決断をすることが往々にある。恐らく相手からしたら最近あまり連絡を取っていないなくらいにしか思われないのだが。
でも今まではこうしたまるっきり主観で直感の感情でしかなかったから、メサイアコンプレックスという言葉を見たときは本当に救われた。言葉自体は初めて見るものだったけど、ちゃんと概念として一般化されていると知っただけでも、いつかどうにかできる感情なのではと希望が見えるようだった。
だからと言って、冒頭の記事でも私の中でもメサイアコンプレックスをどうにかする方法が分かっている訳ではない。
ただ概念が言語化されただけだ。でももしかしたらこの言葉が身体の中に取り込まれるだけで、苦しさから解放される人がいるのではないかと確信に近いことも感じている。
現にメサイアコンプレックスを知ってから、私自身湧き上がる欲求がそれに該当するかをフィルタリングできるようになった。
「本当にそれがしたいの?」
と聞き返すことで、実は他の満たされない部分だったり無意識のうちにいじめていた感情に気づくこともあった。
メサイアコンプレックスは誰でも持っている素質だと思う。だからこそ、自分の状態を見つめる問いの一つとして、日々に取り入れてみてはどうだろうか。
きっと昨日より自分に正直な明日が待っているはずだ。
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