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『すずめの戸締まり』~もう一度、地震を想って~

 遅まきながら『すずめの戸締まり』を視聴。新海誠監督の作品をまともに観るのは、この作品で2作目になる。実はほとんど観ていないのだ。記念すべき1作目は『秒速5センチメートル』。その他は観ていない。特に理由はない。
 なぜ今回に限って観たのかというと、妖怪の類が出てくると思ったからだ。鬼太郎シリーズが子供の頃から大好きだったので、当然のように妖怪好きになった。実際にはそこまでおどろおどろしいモノは出なかったが。
 鑑賞して自分の中に残ったものを観察していく。



1.悪者は誰か?

 この作品を端的に表すなら、日本各地で地鎮をしてまわる恋愛カップルものであろう。身も蓋もない言い方だがそんな感じだ。地鎮をするはめになった原因は常世からこの世に出ようとするミミズ(劇中でその正体に関しての掘り下げはない)。そのミミズを封印していた要石を引き抜いた鈴芽のせいでダイジンが自由になり、閉じ師こと草太が椅子に変えられ、元の姿に戻させるためにダイジンを探し、ついでに2人連れ立って地鎮旅行することになった。
 終盤近くまではダイジンが悪者のような演出だが、実際はそうではなかった。ダイジンは大昔に自ら生贄になり、要石になった子供の残り香なのだ。つまり子供の魂が要石に変化している。劇中でもずっと舌っ足らずな幼子のような喋り方をしていたのはそのためだ。
 ダイジンが登場した時に鈴芽はなんと言ったか。
 『うちの子になる?』 そう言った。
 物語の始まりの合図ではないかと思っている。これでダイジンは要石の使命を放りだして鈴芽の子になろうとしたのだ。鈴芽からすれば飼い猫。
 ダイジンは幼くして要石になった。それはおそらく、あまり愛情を受けずに人の身を終えたと思われる。孤独と寂しさが残っていたのだろう。鈴芽によって封印を解かれ、無邪気な親切心に触れてそのまま自分の居場所にしようとした。が、残念ながら鈴芽の横にはもう草太がいたので叶わなかった。
 物語の終盤では要石としての責務を果たそうと決心、鈴芽に自身の封印を託す。最後にはどこか寂しさが残る別れであった。
 地震を引き起こす張本人は例のミミズなのだが、そもそもあれが何なのかは劇中では語られていない。『災の予兆』とかいう名前は付いている。映像では紫色の巨大なモヤ。だがその実態は抽象的な表現しかされていない。劇中では語られていないが過去にあのモヤのせいで大地震が起きている。現実でもあった東北大震災がそれだ。草太の祖父がその時に要石を挿して地震を収めたらしい。
 あのモヤは地震発生の確率を具現化したようなものだろうか。つまりは自然現象の予兆そのもの。そういう解釈だと、悪者とはならない。自然現象に悪い云々は当てはまらない。では最初に要石を引き抜いた鈴芽がやはり悪者だろうか? 猫化した要石を無邪気に誘った鈴芽が元凶になるのだろうか。 
 やったことの責任を考えると、やはり鈴芽が悪者で決まりだろう。要石引き抜き、ダイジン誘惑、この2つが無ければミミズは発生してないし、草太は椅子の呪いを受けていない。鈴芽の好奇心旺盛な性格が災いして草太に不幸が降りかかったと見るべきだろう。封印されていたダイジンからしても迷惑だったやもしれん。誘うだけ誘っておいて結局はどっかに行って発言。
 鈴芽はヒロインポジションだが同時に物語の元凶でもある悪役ポジションだと思う。最後には草太と結ばれているような終わり方なのでそんな印象はほぼないかもしれないが。昔話や童話にあるようなストーリー線に似ている。ささいな悪戯や出来心で悪いことをしてしまい、それが原因になって大きく物語が動き出す。悪役ではなく、トリックスターでは? という意見もありそうだが、自分としては自覚なき悪役といった印象だ。


2.まとめ

 短いがこれぐらいで終わろうと思う。他にもいろいろと細かい感想はあるのだがどうにも小粒過ぎて蛇足な説明にしかならない。総評すると、わりとおすすめな恋愛作品。物語自体にそこまでワクワクすることはなかった。先が読みやすい展開、というわけではないが、そこまで期待感が持てるような展開でもなかった。扉を閉めて厄災を封印する、というと何かすごい仰々しいようだがその実そこまで危なくない。別に敵が出て妨害とかしてくるわけでもないし、鈴芽本人にもダメージはない。そのせいか緊張感というものが終始なかった。新海監督としてはそんな血湧き肉躍るような話にするつもりもなかったのだろう。家族と、あるいは恋人といっしょに気軽に観るぐらいの作品と言える。
 ちと辛口の評価になったが、作品自体の完成度は高いと思う。題材はいいし、上手くまとまっているし、相変わらず背景描写や人の動かし方はすごいクオリティだ。世界で通用するアニメ表現と言える。今後もまだまだ進化するのだろうかと期待せずにはいられない。
 ここからは個人的な期待の話になる。新海監督のインタビューであった話だ。『君の名は』であった描写、男子が女子の身体に入れ替わった時、胸をもんで確かめるというシーンがある。今だったら絶対あんなシーン入れない! と言ったらしい。昨今のコンプライアンスの高まりを感じさせる発言だ。クリエイティブな仕事において表現に制限を設けるのはかなり反対の意見だ。それが性的なものだとしても。限度はあるだろうが、それにしても昨今の制限ぶりはあまりにも行き過ぎだろう。今後も続くのだろうか。最近はさすがにその締め付けぶりに疑問を投げかける声も上がり始めている。その声がもっと増えることを祈っている。自分も参戦する所存だ。

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