雑感 永井均『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』と思いきやほぼ川本真琴の話
永井均さんの『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』を読んだ。
永井さんの西田観は下手にむずかしくなくて感覚的にしっくりくる。また、(通例だが)端的に不思議なことを素朴に不思議がっているのがいい。
永井さんは西田をして「超弩級の哲学的化け物」といわれるが、この、一見地味で静かな大地の下に、ものすごい発酵熱がグツグツ沸き立っているような感じ、スマートなモテとかオシャレとは次元を画し、内側に入り組んで自己濃縮を極めてゆく猛烈なダサさがいい。
本書では田辺元による西田批判に言及されているが、おそらく、田辺はダサくないしシュッとしていてモテるだろう。
永井さんがくりかえし述べているが、西田はあまりにも身近で卑近なことを大真面目に語っているから思考の位相が世間とズレるのかもしれない。料理に例えるならば、西田は、手元に卵と米があってオムライスを作るか天津飯を作るか卵かけご飯にするかを考え始める手前の、「私の手元に卵と米がある」という状況において、「私」「卵」「米」の存在にまず確信を持つところから初めないといけない。
すると、その前におもむろに坐りこんでしまい、微動だにせず、一向に料理ができないのである。
これは、西田の詠んだ歌
「赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路あまりの年をへにけり」
というようなところである。
実は、そもそも料理する気もないんじゃないかとも思う(世界がつまらなくなるから)。
西田にとって、問題は何を作るかではなくて、何かを作ることができるとは何かということだ。これは言葉でもそうである。
「西田はつねにその時通じているその言語の成立の手前で考えているのに対し、田辺はすでに立派に通用している言語の上に立って、そこからあらゆるものごとを考えている」(p.116)
田辺は、「オムライスにするか、天津飯にするか」が問題であるのに対し、西田は卵を持ってキッチンに立つ「私」の立ち上げが最大にして究極の問いになる。
ところで、私は歌手のaikoが好きなのだが、aikoと西田幾多郎は内臓の同じ部分で「よい」と感じることができるため、西田の「我と汝」を安易に「あたしとあなた」に置き換えることによって西田をaiko化(aikoを西田化)させては両者を短絡してよろこんでいる。以前にこのような記事も書いた。
本書では、「純粋経験」の例として川端康成の『雪国』の冒頭
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
という一文を引用している。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文は、特段「私の」経験を述べているわけではなく、「誰が」動作をしたのかはここでは問題にならない。いわば、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という体験それ自体が「私」なのであって、それは主客が別れる以前の「純粋経験」の領域である。
aikoの「kiss Hug」で「まだ知らない事だらけの背中と背中を合わせて聞こえてきた音」なる歌詞がある。その歌詞があらわす状況が一瞬分からず、つぶさに知りたくて、その部分のために繰り返し聴いては反芻してみる。思うにこれも、「純粋経験」なのである。
「背中と背中を合わせて聞こえてきた音」といっても、「あたしの」(歌詞に倣って「私」は「あたし」とする)背中と「あなたの」背中を合わせたことで、示し合わせたように音が聞こえてくるわけではない。
音(心臓の鼓動、期待、不安、色々混ざったものだろう)がなぜか、つねにすでにまずそこにあって、そこから「あたし」や「あなた」といった主体と客体の区別が生じてくる。本来は、「聞こえてきた音」がいま・ここで開闢した空間、鼓動そのものがあたしであり、あなたでもあるのだ。
そのため、もし後ろで合わせた背中がどちらの身体であるかが明確になってしまったら、「聞こえてきた音」はおのずと対象化可能なものとなり、生の感触、あいまいさや余白は失われてしまうだろう。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」に「私が」と主語を付けた途端、描写が興醒めになってしまうのと同じことである。
「於いてある場所」もまた、ここに見ることができる。
つまり、「聞こえてきた音」は「於いてある場所」としての「あたし」ないし「あなた」において聞かれるのであって、そしてそこで「聞こえてきた音」はすなわち「あたし」であり、「あたし」の自覚であるとともに、「世界」の自覚(開闢)であるともいえる。
西田は、「私」は「主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ」と述べる。主語的ではなくて述語的である、というのは、「である」が「〜が」に先立つ(優位である)ということだ。aikoの例で言えば、背中が誰のものかや、聴いているのが誰なのか(主語)は、そもそも関与しない。「聞こえてきた音」という純粋な述語的事態がまずあって、そこから、「取り立てていうなら私に於いて」(p.76)と主語をわざわざ示すことで初めて、「私」が成立するのである。永井さんもいうように、これは言い換えれば「取り立てて言わなければ」、「私」は存在しないということになる(もちろん、現に存在しているから全てが始まるわけだけども)。
ところで、同じく「背中をくっつける」・・・といえば、川本真琴「1/2」も「背中に耳をぴっとつけて 抱きしめた」という出だしだったことを思い出す。
川本真琴はすごくいい。永井さんの表現を借りれば、彼女もある意味「超弩級の哲学的化け物」の一種で、正確には「超弩級の哲学的化け物(恋愛特化型)」みたいな感じだと思う。
川本真琴は、自分のダサさを、天然かつ奔逸に生きて、創造の熱に変えてしまう人である。彼女も、存在と存在者のズレや届かなさ、こころとからだのスキマのやるせなさ、ことばとコトバの食い違い、に悶えている。
「1/2」という表題の通り、川本真琴には「あなたと一つになりたい(けど、なれない)」という同一化願望を超えた同一化回帰(レヴィナス的には彼方ないし手前)願望のようなものが一貫してある。いくら物理的に触れ合おうとも二人を隔てる身体の境界が、あまりにも分厚くて邪魔で疎ましいと感じる。それはもう、「身体なら1ッコでいいのに」(「DNA」)というくらい。
しかし、この世界で二人が関わり合うためには「このようにしてあるカラダ」、有限で不自由で重い身体が不可欠なのであり、目で、手で、声で、一つひとつ確かめなければならないのである。
それと同時に、悔しいけど、その手間こそが何より愛おしかったりも、するのである。そうした、生きることのダサさを表現する彼女なりの精一杯の語彙が「苦しくて せつなくて 見せたくて パンクしちゃう」(「1/2」)なのがすごくいい。
西田的にいえば「DNA」や「1/2」が個物から一般、外延から内包に向かうベクトルを描いているとすれば、「微熱」は内包が外延に自己限定する「自覚」の方向である(ベルクソンの円錐だと、「収縮」の方)。「微熱」ではむしろ、「絶対無」の中で溶け合っている世界から始まる。
この曲の何がいいかというと、「絶対無」の世界、差異が溶かされて調和した甘い溶液(入不二さんの「現実性の問題」での表現を借りれば、「ベタ」な無様相の世界、レヴィナスなら「融即」と呼ぶところ)に留まることと決別し、「あたし」という個物の様相として別々の存在者を生きることを選ぶ、というところである。
「微熱」は完璧に融合した球体に生まれた存在者の余剰差異なのだ。「37度2分の発熱」という「ぽっちの生命」は「君の鼓動にとけない」。しかし、だからこそ、おそるおそる、切実に、でもやさしく「さわって」といえる。それは、「大人になること」でもあるのだと思う。大人になることは、言葉を持つこと、主語を確立するということだ。そこでは失われるものも多いが、開かれるものも多い。
レヴィナスは「融即」に陥ることなく、「分離」することを強調している。彼曰く、そこから「対話」がひらかれて、「社会的関係」が始まるのである。
おなじみ、永井さんの山括弧付きの〈私〉は抹消記号(×)付きの私を解体して逆向きに貼り合わせたものである。これは、「「私」が「本来そのもの(西田的に言えば絶対無の場所)なのだが言語においては実体化されて個物的な指示対象を持ってしまう」(pp.98)ことを表示する意図があるのだという。
私は、存在者ではなく存在の私、主語的ではなく述語的な私、外延ではなく内包の私、よりしろではなくほんとうの私、を指示するときに「わたし」と平仮名で表記するようにしている。この、「わたし」と〈私〉、そして西田の絶対無の場所はおそらく同じ感じのことをイメージしているような気がする。ただ、永井さんの〈私〉が抹消記号(×)に発端を持ち、その言表不可能性を強調するものであるのに対して、私が思う「わたし」は「なんでもなくてなんでもあり」な有への傾動を潜在させた無という意味合いが強く、「いきもの」でありかつ「なまもの」なのだ。だからこそ、やわらかでのびのびとした平仮名の「わたし」を用いている。この表現で言うと、「私」は「わたし」の自己限定であり、自覚である。
本書で永井さんが述べているように、私も西田は「あまりにも自明で卑近なことを大真面目に言っている」ように思う。それは私からすると「すてき」「ふしぎ」「ときめき」の類に属する(腑分けされる)もので、極めて強度にガーリッシュ(魂の態度が少女趣味的であること)なのだ。「ガーリッシュな起爆力」とでも言おうか。「西田幾多郎は少女趣味的である」という破格。何がどうあれ、そういう感じの楽しみ方が西田哲学にもあっていいと思うのである。
引用 永井 均(2018),『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』