境界を溶かすピチピチアート。現代美術って水瓶座さんなのね。
現代アートってなあに?
というそぼくなぎもんに、その道の専門家がその道を歩むものに向けてバチゴリの専門用語でお答えする講演会に参加してきたよ!
その道の専門家は山本浩貴さん。
アートをなんだかとにかくとても深掘りしている方でした。
彼の選ぶ言葉の、ふんわりした共通認識に対する再現性が凄いこと。そのままお伝えすることはできないのが残念なくらい。私が聴いてすんなり入ってきたことを、私の感想を垂れ流しがてら紹介するね。
私は絵やら音楽やら色々楽しくやっている宇宙人だよ✩
Q.アートにおいてはどこからが現代なんですか?
A.
アートの位置づけが現代っぽい様相を帯びてきたきっかけを現代アートの始まりとするならば
「第二次世界大戦後もしくはデュシャン後」
らしいです。
そんな区分があるのかよ。ポケットモンスターデュシャン前/デュシャン後。
マルセル・デュシャンといえば。
つくづく思うのが、美術史の重要事項としてデュシャンの泉を学んでしまうと、リアルな雰囲氣抜きでアートを想像しようとしちゃってなんにもならんという事だ。知らない曲を耳で聴くのと譜面で読むのではまるで違う。
私がマルセル・デュシャンを知ったのは予備校の休憩室で読んだ雑誌だったが、あれは、テレビで何となく見た事あるけど詳しくは別に……くらいの距離感で接するべきだったと思う。
北斎は米粒に2羽の雀を描いたらしい、クリボーは元々キノピオだったらしい、肘から手首までの長さと足のサイズは同じらしいとか、そういう毒にも薬にもならないトリビアであって欲しかった。
何気なく見たテレビで、既製品の小便器がモノモノシク扱われているのを見て、その時はヘエと思っただけだがその後にふと思い出し、美術品の価値はどこにあるのかな?って自発的に考えるくらいがちょうど良かった。そんなふうに出会いたかったから、そんなふうに出会ったことにします。
要は、デュシャンって人たちが
トイレは芸術ちゃうんか?
オシッコするとこは汚いからか?
それとも工場で作られたからか?
ほな俺が手作りすれば芸術やんな?
などとゲージュツに喧嘩を売ったのがきっかけで、世間が「アートってそもそも何やっけ?」って思うようになって、その問いが浸透した時代がアートにおける現代みたいです。
(もちろん全ての人間がその精神でやってる訳ないから、狭い芸術界隈にそんな感じの空気が蔓延したってところよね。)
Q.現代アートっぽいとされてる作品にはどんな特徴があるの?
A.
①自己言及性があるよ
②手法にとらわれないよ
③価値の自律性に拘らないよ
①
自己言及性ってのは言葉のとおり
「自分こう思ってこれ描きました!」
と提示していくスタイルのこと。
ワイのテーマ、ワイの思想、ワイの哲学を見てくれ。
これを書いてるZENの文章は自己言及そのものだけれども、実は絵では敢えてこれをしないようにしている。
色彩が強くなりすぎて血圧が上がって、描いている私が先に酔っ払っちまうからだ。音楽でもしないようにしている。思考を通すと耳が痛い音が入っちゃうからだ。
つまり目的がヒーリング・センタリングだから言葉のジャッジを最小限に抑えたいんだ。
ZENの絵は、自我の影響を受けない領域で描かれて初めて美しくあれる。意図とコンセプトを提示するのが醍醐味だという現代アートの逆で、展開される思想を、鑑賞者の思考を越えて魂へ投げ入れて(想いは分解され波になる)初めて価値を見いだせる。
以上に言及したようなコダワリがあって絵を描いているのである。
だからしっかり思考を除去したヒーリングアートにこの日記を添えてしまえば立派な現代アートだ。
②
近代アートを象徴する考え方を持ってたグリーンバーグさんは
「画家は平面きわめろ、彫刻家はひたすら彫れ。そうすれば各々の表現は高まっていく」
と言ったそうで、つまり現代アートはこれの逆である。
色んな島のやり方をつまんで取り入れてマイフロンティアを開拓していく。有名どころでいえば「画家でもコント師でもマジシャンでもない。私の職業は小林賢太郎です」という訳だ。
この点に於いては私も一緒だ。アーティストという便利な名前を豊かに彩りたいものですね。
③
作者一人の力で素敵な芸術作品は生まれない。師匠とか友達とか画材を作った人とか全ての人のおかげで生まれるんだけど、ここでは主に鑑賞者との相互関係に注目する。
鑑賞者とのやりとりの中で生まれる価値を見据えて創るということだ。
例えばインスタレーションは分かりやすい。観る人の視点と視線の動線を考慮すれば、非日常的な体験という価値がアップする。
あとは綺麗な美術館、お洒落なキャプション、素敵な照明を用意して鑑賞者を迎えれば、高級感がアップする。
価値の自律性を疑ってかかったのはリテラリズムだと言われる。
時間軸を敷いたとき思想や経済は波を描くと言いますけれど。
それでいうとリテラリズムは頑なな価値の自律性(上手い画家が描いたそれ自体が尊い)を反対方向に向ける荒治療であり、別にアートの本質って訳じゃない氣がしますよな。右に向いてたものを左に向かわせる引力であって、時代を開拓する推進力そのものではないように思える。が、現代から見たらそう思えるけど、どの時代のどの芸術家もそれが本質だと思って追求しているんだろう。
美の自律性を疑う。
作者の技術と感性にプラスして、誰かの価値観のおかげで作品の価値が高まってゆく。
◾︎ ZEN的重要事項⭐️
◾︎山本さんが最近読んだ本より引用された「アートはアートだからアートなのだ。ラディカルな意味で」。
わからんすぎて面白かった。覚えていたい言葉。
◾︎「自己言及性」とインターネット
インターネットって色んな価値観がごちゃ混ぜな反面、界隈に浸ってぬくぬくする事もできるから、自分の価値観が自分だけのものだっていう認識が薄くなりがちだ。
簡単に作品とコンセプトを投げられるし、簡単に大量に投げ返される時代に「自己言及!社会問題!我是有問題!!有問題!!」ってやってられなくない?
って思ったけど、全然やれてるみたいね。知らなかった。Twitterにそんな感じの世界線もあるみたい。リプ欄が栄えている。ディベートバトル。水平思考に自信アリな方は、やりたければ普通にできる。
「社会に対して投げかけるなら、向こうから反応を投げ返された時に受け取らなくちゃよね」ってことも言われてるみたいで、美術館で分かりやすくそれをやったのがひまわりトマトジュースお姉さんと聴いてなるほどなあと思った。手を壁にくっ付けて、ここにいるからアンサーくれよと。
SNSでは日常的にやっている、匿名だからこそどこまでも直接的なやりとりが、リアルに現れたらなんだかカオスに感じられる。表情が見えるからかな?人が動いてる様子から得る情報って、テキストや静止画とは比べ物にならないんだなぁ。
◾︎文化の中心は二つに分けたうちの片方にあるんじゃない。仕切りそのものに宿ってる。
ケティ・ヘッセルさんの
「The story of art without men」
が紹介された時に直感がそう叫んだ。
本だけど文献というより主張、アート表現だ。読んでみたいなー。皆さん堂々とあたしゃ時代を担うアーティストだよって自覚を持ってたのかな。
技術者に女の人が少ないのはまあ、ヨーロッパだけじゃない。縄文人とかも多分そう。動物的にそう。
でも動物的などうしょうもない区別が取り除かれても種の存続に影響がないくらい人間は社会的になっちゃったんだから、自由になれる部分から順に、区別が溶けてくのは自然なことだ。嬉しいことだ。
◾︎「中立だと思っていた視点はどこまでも思想によっている」
山本浩貴さんの著書(題名は忘れました)より引用。
いま日本に産まれたら、お勉強しない限り男尊女卑マインドなんて滅多に感じないし、西洋が文化の中心だったなんて知る機会ないじゃん。けどそこを知ることで、当たり前に中立だと思ってたことを疑っていけるんだって。
というわけで、脱中心化(中心じゃないところから様相を眺めようという試み)も現代アートが頑張っているらしい。例えばリトルマーメイドを白人じゃなくするとか。
ただ、目的があって試みちゃったら、中心を創ってることになっちゃう。
戦争に反対しちゃったら戦争を起こしているのと同じ。
視点は各々の中心であって中立ではないから。
しかし、芸術は脱中心化を担えるくらいの強い長所を持っている。
それは意図があったとしても、製作している間に様々な感動体験が生まれ、もっとこうしたら綺麗じゃんっていう無垢な愛が乗って、最終的に人種がどうこうという意図がかき消されるくらいの熱に包まれた感動的な作品になってしまえるところだ。
そうして人々の思想ではなく心を打つことができる。心で感じる純粋な安心や喜びはニュートラルに直結する。
己の中心をどこまでも柔軟に設置しようという試み。毎瞬前提をゼロから組み替えることができる柔軟性。
を根拠とした安心感をニュートラルだと思っている。
意識が向いている先に世界が広がるという量子力学の前提が普遍的に浸透しつつある現代。ここで大事なのが、どうでもいいものに価値がないんじゃなくて見ているここに価値があるだけなのを忘れないことやね。要は今を体験すること。
◾︎「何かを見たり聞いたりした時に感じる経験」を美意識とするなら動物や植物とも共通する基底が存在する。
という研究結果があるらしい💓
うぇい!周波数の話やん!ってテンション上がった。
波動に共鳴し、振動する。すべての愛のやりとりをシンプルにしたらそう表せる。
「今を体験する」を追求したい。色と光と音で遊びたい。存在の層を越えた地球のみんなと共鳴できる多次元アートが生まれるはず!!
◾︎ 自律性=関係性 ⇒ 他者=私
耳タコフレーズですけれども、現代アートの専門家の方も言ってたの!
嬉しかった。
関わり合いとは、自分を扱われたいように扱うことである。
自己定義が相手に影響を与えることを忘れない。1対1で向き合ったらそれは鏡だし、循環の輪そのものだ。
まとめ!
「閉鎖的な美を追うのはおもんない」から始まった現代アートがアートの枠組みを解放し、二元の境、自己と他者の境界、各次元の境界を溶かしていく様を、私は当事者としてウキウキで見ていたいです!!
講演会のあとの交流会では個性的な人たちと話せて面白かった。追求したいことがあって、色んなことをやってみて、生きてる感じがとても美しかった。みんなが感じてること、大切にしてることをもっと知りたいな。出会ってくれてありがとう!また会おうね〜〜
2023.6.11 ZEN
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