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蒲原有明『草わかば』から学ぶ②「日神頌歌」 (前編)

今回取り上げる「日神頌歌」は七連の六行詩、つまり四十二行もある詩で少々長いものである。
なので、だいたい三連ずつに分けて、かいつまんで記事にすることにした。


日神頌歌

題名が仰々しい。
分かりやすく言い換えると「天照大御神を讃える詩」。
やまとことばの響きの美しさを感じられ、心が落ち着く一編である。

同書掲載の「春の歌」とのリンク

まず「日神頌歌」の一連目、二連目がこちらである。

いのちのねざしうるほえば
ここなる花もかをるなり
文布織りますづち
神のたかはたしののめに
いろあやとくもととなひて
影かすかなり星のをさ

雲はいと濃き紫に
うすくれなゐの糸をぬき
高野路夢の花罌粟の
つぼみひらくる曙や
げにかぎりなきよそほひの
榮あふぐこそゆかしけれ

蒲原有明『草わかば』より「日神頌歌」

次に「春の歌」の三連目と見比べてみる。

唇を解く歌の君
春のたくみの手は高く
夕にはまた彩を織る
光は雲にながれけり

蒲原有明『草わかば』より「春の歌」三連目

「日神頌歌」には羽槌雄(天岩戸を開くため、布を織った神)が梭(機織りでたていとを通すシャトル)で空の色彩を「となひて」(ととのえて)いる。
前回の「春の歌」で私は、

三連目「春のたくみの手は高く 夕にはまた彩を織る」は、空を「たくみ」とし、夕暮れの色を繊細に表現している。
この詩では空を擬人法で指しているように読めるが、蒲原氏の他の詩から、空そのものを指してはいないように思える

と記した。
「空を擬人法で指して」おきながら「空そのものを指してはいない」というのは、「日神頌歌」での羽槌雄は「春の歌」の空と同一のものと考えられるという意味で書いたものである。

このような神話的表現は、彼と同年代の詩人である上田敏の作品にも見られる。もしかすると、互いに影響を受け合っていたのかもしれない。

「もの」という古語の便利さ

いとものふりし冬の夜の
かくれのみやのまゆごもり

「日神頌歌」三連目の二行

「いとものふりし」の「もの」とは雪だと察せるが、雪をそう言うのではない。文を書くのも「ものす」 (ものをする)であったりする。古文では「文脈上、何のことを指しているか分かる」場合に、もの、と書くのである。

今回の場合、雪、と明確に書かないことで、他の対象に集中させる意図があると感じた。
雪より大事な描写、それは二行目の「幽宮のまゆごもり」である。天照大御神を讃えるための歌なので、太陽に仕える巫女の宮を目立たせるのは自然なことであろう。
三行目からは、このように続く。

もぬけいでては天の原
春の霞のもろつばさ
まだかよわげに見ゆれども
おほはぬ空もなかりけり

「日神頌歌」三連目の三行目以降

巫女が宮から出ることで、冬に包まれた天の原には春の霞がうっすらとあらわれる、という展開になっている。
巫女が宮から出る場面を見せるためには、やはり雪を目立たせてはいけないのだろう。

まとめ

使われている言葉に馴染みが無くとも、この年代の詩は七五調 (有名な、島崎藤村氏の「初恋」などもその一つ) が多いため、現代語訳を知ってリズムに乗ってしまえば親しみやすいものになると私は思っている。
しかし内容を現代語訳で理解して、原文をただリズムに乗って覚えるだけでは、古語の響きの美しさ・現代語に無い使い方による情趣を味わうことはできない。

仮に私がその古語という「いにしえの呪文」を使いこなせるようになり、詩という魔術を完成させたとて、ほとんどの現代人には効き目がないだろう。
時代に合わせることがこれほど苦しいとは、思ってもみなかった。

《参考および一部引用:蒲原有明『草わかば』より「日神頌歌」 蒲原有明 草わかば 》

追記:この記事の後編はこちら↓


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入山夜鷸
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