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CCCreationリーディング劇「女中たち」感想 -開いて、閉じる。現実と虚構-
CCCのリーディング劇、「女中たち」を観劇してきました。
あやめ十八番の堀越涼さんが演出、吉田能さんが音楽。その時点で期待大。
もちろんその期待を裏切らない、最高の観劇体験ができました。
私が見てきたのは9月21日12:30からの部。クレールを大沢健さん、ソランジュを松田洋治さん、奥様を谷山知宏さんが演じた回。
クレールの不思議な儚さと強さ、ソランジュのたおやかさ、奥様の存在感。三人の俳優様方それぞれの魅力が相乗的に重なり合って、能舞台独特の雰囲気もあり、ここにしかない「女中たち」が生まれていました。
以下、観劇初心者の稚拙な感想です。古典名作なので話に関してはネタバレも何もないと思っていますが、演出に関しては結構話してます。割と頓珍漢なことを言っているかも。何でも許せる方のみ読んでください。
まず驚くのは能舞台でやっているということ。フランスの作家ジャンジュネの作品で、舞台もきっとヨーロッパだと思うのだけれど、その空間は和風。調度品は洋風だけど、能舞台の持つ力は存外大きい。また、クレールとソランジュは着物であらわれた。着物特有の身体の動かし方で、なんとなく歌舞伎を見ている時と同じ気持ちにもなったかも(これが能じゃないのは私が能を見たことがないから)。
この舞台の音を担当している吉田能さんは、舞台上に「いる」、のだけれどもいない存在。音を奏でるだけでなく、着物を片付けるなど舞台上に干渉しているのだけれども、私たち観客はその存在をいないものとして当たり前に受け止める。
また、リーディング劇だから3人の俳優様はそれぞれ台本を手に持っている。ただその台本は小道具に近い役割をも担っていて。手から離れたり、閉じられたり。必然的に、そこに目が行くようになっている。
演劇って、「嘘」を「現実」として受け止めるものだと私は思っていて。「見立て」がある舞台とかは特にそうだよね。
この「女中たち」では、吉田さんや台本の存在をあえて無視することが私たち観客には求められている。それは意識しなくても、この演劇に没入することで勝手に起きている。演劇という虚構。
リーディング劇という形は、「虚構」と「現実」の境があえて目の前にある。観客は分かった上でそれを無視するのだ。
さて、この「女中たち」という戯曲。その冒頭ではクレールとソランジュは「ごっこ遊び」をしているのだけれど、それは全く何も説明なしに進んでいく。クレールが「奥様」ではないことに、観客は話が進んでから気がつくつくりになっている。私たちは「演技する演技をしている人」を見るという二重の構造の中にいる。
舞台最終局面、この「ごっこ遊び」は破滅に向かう。ごっこ遊びから始まった2人の女中に待っている「現実」は悲惨なものだ。虚構だった、そのはずなのに。
リーディング劇という形で私たち観客は「虚構」を「虚構」として楽しむ。しかしその私たちの前にこの戯曲は、「虚構」が「現実」に侵食していく様を描く。その構造がなんだかとても面白いなぁ、と思った。
色々ごちゃごちゃよくわからないことを書いちゃったけど、結論としてはめっちゃ良いもの見ました。音楽も最高に良いんだ〜!!三人の俳優様もすごく良くて、特に奥様役の谷山さんの存在感に圧倒された。場を一気に持っていくあの感じ。まさに「奥様」。
あー、もっと演劇みたいなぁ。