観客側として「演技」に恐怖を感じたという話
はじめに、私は演者ではない。ただ鑑賞し消費するだけの人間である。そんな私が「演じる」ことについて語るのは不快に思う方も多いと思う。足りない点、現実に即していない点も多いと思う。
ただ、1消費者としてこう思いました、という話として読んでほしい。
演技とは何なのか。人によって様々な答えがあると思う。私はそれを、「自分とは違う存在になる」ということだと捉えている。
私はとある役者さんを応援しているが、舞台の上の彼は演技をしていない時(勿論ファンである私の前である以上ある程度は仮面を被っていると思うが)とはまるで別人だ。それは、脚本に載った言葉を解釈し、役のことを深く理解しようとし、その結果出力されるものなのだと思う。
そんな彼の出る舞台を見た際に、ギョッとする瞬間があった。それは、彼自身の演技ではなく、彼の共演者の方の演技ではあるが、ファンではない私をも強く、強く惹きつけるものだった。そこには力があり、役のことを深く考えて出力されていることがわかった。
しかし、私は怖かった。
1つ前のnoteで感想を書いた舞台「白蟻」。その中には、おそらく認知症の男性が出てくる。その男性を演じる役者様は非常に演技が上手く、その姿はとても「リアル」であった。その発声が、身体の使い方が、目の動きが、私がこれまで接してきた「当事者」の方にそっくりだった。本当にこの役者様は、その病気の当事者なのではないか?と思うほどに。
きっと役者様は、研究を重ねてその境地に至ったのだと思う。そこには私たち消費者には計り知れないほどの努力があったのだと思う。その努力の結果に対し、「怖い」と思ってしまうことに躊躇いもある。しかし、素直な感情として「怖い」と思ってしまったのだ。
病気、それは非常にデリケートなものだ。それを「演じる」ということはどういうことか。その病気がもたらす特徴を模倣することになる。
私はそれに恐怖を感じてしまうのだ。非当事者がより当事者らしくするためにはどうすれば良いか。その特徴的な動作などを、分かりやすく表現する必要がある。強い言い方をすれば、「誇張して模倣する」ことになる。もちろん、その演技がリアルであるための誇張であることは理解している。しかし私はそれを、非当事者による特権性の行使だと感じてしまうのだ。
話をぐっと身近なものにしてみる。例えば、日本語話者である私が外来語である英語を話してみた時。その発音はネイティブの方からしたら聞くに耐えないものだろうと思う。ただ、ネイティブの人が私という人間を演じるにあたり、その発音の下手くそさを誇張して表現されたとしたら。私個人としてはかなり不愉快だ。その人にとっての私という人間を表すもの、それが英語の発音の下手さだということは理解している。しかしそれは、ネイティブの立場を使った非ネイティブへ向けられた特権性の行使だと感じてしまう。
この例ではネイティブと非ネイティブという立場の差がある。しかし病気の当事者と非当事者の間には、上下などないではないか。そのように差を感じることこそ、非当事者を見下しているのではないか。そのような意見があるかもしれない。
しかし、それは綺麗事にすぎない。実際完全にユニバーサルな社会には現状なっていない。何らかの障害を抱えている人は、そうでない人よりも生き辛い。そのような社会において、当事者と非当事者の間には明確な立場の差が生まれるのである。
では、どうしたら良いのだろうか。
まずシンプルな答えが一つある。病気を持つ役を演劇に出さない、ということだ。そうすれば、非当事者が当事者を演じることは無くなる。
しかしそれは、もっと大きな問題が生まれてしまう。病気の人の存在がないことになってしまうのだ。描かれなければ存在していないことに等しい。私たち人間は、身の回りにないことについてはとことん無関心である。そんな私たちが、フィクションを通して様々な社会問題に興味を持ち、その解決に向かって動こうとする。そのような動きには非常に大きな社会的意義がある。
当事者の役は当事者が。そのようなムーブメントがあることも事実だ。それは非常に正しく、具体的な方法に思える。実際に、障害を持つ方専門の芸能プロダクションもあるという。ダイバーシティがうたわれる現代において、その需要は今後も高まっていくであろう。雇用を生み出す、という意味でもこの活動には意義がある。
しかし現実的な問題として当事者が当事者の役を演じることを100%にすることは難しい。コストや制度の面は勿論、「障害を見せものにしているのではないか」という声も無視できない。現実的な課題と、道徳的な課題。新たに二つの課題が生まれるのである。
今の私には、この「演じる」ことの特権性に対する明確かつ有効的な答えを出すことができない。だが、一つだけ考えることがある。
以前、とある役者の方と幸運にも少しの間だけ対話する機会があった。
それを生業としている方に対して、演技の恐怖についてという不躾にも程がある問いかけをしてしまったが、彼は丁寧に考え、答えてくれた。
その時彼が答えてくれたのは、「これは差別の問題にも関わってくる非常にデリケートなものだ。そして現状「これが正しい」という絶対的基準のようなものはおそらく無いだろう」というものである。
しかし彼はこうも続けた。「ただ、貴方がこのことについて疑問を自分にぶつけ、こうして対話が生まれている。その事実が重要だ。」と。消費者である私が製作者である彼に意見をぶつけ、個別に対話が生まれる。こうした個別具体的なやり取りが違いを乗り越える手がかりになる、と彼は考えを述べてくれた。
今私が出せる答えとしては、「考え続ける」ということである。私が舞台を見て、演じられた役を見て、当事者の「リアル」を感じた。その感じたことを、「あー、舞台面白かったなぁ」と終わるのではなく、当事者に思いを馳せ、社会を少しでも動かすための一歩とすることができれば、と思うのだ。
だから私は考える。その演目が、役者さまの演技が、伝えたいことは何なのか。それが、役者様、脚本家様をはじめとする製作者の方々との双方向のコミュニケーションだと思う。そして、その舞台にのせられた思いを受け取って、社会に返していくというプロセスが大切になるのではないか、と私は思う。