【読書メモ】今週読んだ5冊
☆おすすめ!『神に愛されていた』木爾 チレン
巨大感情はすれちがう。
・まだ少女と言っていい年齢で小説家デビューした主人公の女性は、20代になって歳を重ねることで「若き小説家」の肩書きを失っていく。そして彼女の前に天才小説家の少女が現れたことで、元少女の心は大きく乱れ始める。本作は、小説家の女性が天才小説家の少女へ向ける巨大感情のお話。
若さで注目された作家は、歳を取ると年齢の面では注目されなくなる。当たり前と言えば当たり前なんだけど、なんとも悲しい。私の好きな作家で佐藤友哉という人がいるんだけど、彼は小説賞のメフィスト賞を当時の最年少で受賞してデビューした。若者特有の良くも悪くも青臭い作風が魅力的だったんだけど、やがて30代、40代となって若さを売りにした作風では書けなくなった。小説家は作品の出来が自身のメンタルと直結するので、若さに任せて作品を書いていたら30代あたりで行き詰まる。若くしてデビューした作家は、歳を重ねるごとに「若者」という肩書きを失っていくことに怯える。だけど、私は思う。当たり前だけど、小説を書くのに年齢は関係ない。これは小説に限った話ではなく、全てのクリエイティブ活動に言えること。自分がやりたいことをやるのに「遅すぎる」ことはないし、若さを失っても別のアイデンティティが自然と見つかるものだから焦ることもない。
・女が女へ向けるコンプレックスや鬱屈した感情がこれでもかと余すことなく描かれていて、めちゃくちゃ好みです。巨大感情の解像度が8K。Twitterでミュートした相手のツイートをわざわざ覗きにいくのがめっちゃリアル。知っていたかな、ミュートされた側よりも、した側のほうがずっと感情がデカいということを。
・男性との恋愛展開や異性愛セックスする展開もあるけれど、性描写はごくわずか。「こんな色気の無いセックス描写ある?」って思うくらい。妊娠・出産する展開もあるんだけれど、本作においてはこの展開がないとシナリオが成立しないので、私としては、まあいいかな、という所感。
・女が女に向ける巨大感情と、小説家のコンプレックスや小説への愛が、百合小説家志望である私の心にダブルで突き刺さった。私も読書量だけは確保していることもあり、小説への愛はけっこう持っているほうなので。
・これは小説を書けなくなった作家が、再び筆を執るお話。クリエイター志望の人、叶えたい夢がある人、迷いや葛藤を抱えているクリエイターの人、何かに必死になって取り組んでいる人にぜひ読んでほしい。書ける限り、書き続ける限り、作家は死なない。
・ここからはネタバレありの感想。未読の方は注意。
・平凡小説家の主人公と、天才小説家の少女。お互いに感情がデカすぎる。主人公は少女と自分を事あるごとに比べてしまい、果てしないコンプレックスを抱く。少女の作品は全て読み、SNSもすべてチェックする。並々ならぬ執着をしながら、自分の心を傷つけ続ける。
一方で、実は少女は主人公の小説が大好きだった。生きる希望を失っていた頃に主人公の作品と出会い救われたことで、主人公に対して神のような憧憬を抱くようになる。主人公の作品は何回も何十回も何百回も読み返し、小説家になったのも主人公に少しでも近づくためだった。人生捧げてる。そして、小説を書く環境に恵まれずスランプに陥りがちな主人公に小説家を書いてもらうためにあらゆる手を尽くす。主人公の毒親を殺し、主人公を弄んでいる男を誘惑して結婚することで彼を主人公から引き剥がす。この展開は読んでいて凄まじいものがあった。愛が重すぎる。ほとんど崇拝に近い巨大感情。
・メインで描かれる同性同士の関係性は非恋愛の巨大感情で、異性愛展開もある。けれど、本編から30年後には主人公は想いを寄せられていたサブキャラの女性と同性婚をしていることが分かる。同性同士の非恋愛関係を描く一方で、同性愛もしっかり描くところが嬉しい。
『メルカトルかく語りき』麻耶 雄嵩
この迷探偵、有能につき。
・あざといほどにシャーロック・ホームズがモデルだと分かる、コテコテの変人探偵が主役の連作短編ミステリ。ホームズの社会性をさらに2/3ぐらいに漸減させたようなヤバい探偵の男と、彼に振り回されるワトソン役の男の二人組がさまざまな事件と遭遇する。
これだけ見たらオーソドックスなミステリかと思うけれど、事件の解決方法にどれもこれもクセがありすぎる。ある事件は犯人をでっち上げて無理やり解決としてしまい、真犯人が分からないまま終わる。その理由は、探偵がちゃっちゃと事件を片付けたかったから。また、ある事件ではいわゆる「第二の殺人」が起こる前に終わる。被害者が増えることを探偵は察知しているのに、わざと放置することを決め込んだところで話が終わる。自分の都合で事件をねじ曲げる、なんという探偵でしょう。なんというミステリなんでしょう。探偵としては有能なのに、才能の使い方を完璧に間違っている。
・清涼院流水先生の『コズミック 世紀末探偵神話』を読んだ時の「ふざけんなコラ」といういっそ心地よいまでの憤り。あれを『コズミック』の1/4くらいのページ数で味わえる一冊です。
・有能な探偵の傍若無人な振る舞いを浴びるほど味わえるので、そういうキャラが好きな人にもオススメ。
・なお、「収束」という話にレイプ描写があるので注意。
『魔女狩りのヨーロッパ史』池上 俊一
・新書。
・今にちにおいて、魔女は様々な捉えられ方をしている。時に「魔女っ子」などのサブカル文脈で、時に「これは魔女狩りだ!」と政治家が自身への批判をそう呼ぶような政治文脈で。しかし、そこにヨーロッパで語られてきたような魔女の実像はない。本書では魔女狩りを通して、魔女がヨーロッパにおいてどのような捉えられ方をしてきたかを追う。
・魔女に関する研究の歴史は意外と浅く、1960年代になってようやく本格的に研究が始まった。その原因は二つある。一つ目、近代において魔女の研究をすることは「輝かしいヨーロッパ史の研究に相応しくない」と敬遠された。二つ目、ナチスドイツでは魔女の研究がナチス親衛隊のヒムラーの指示のもとで行なわれていたため、第二次世界大戦後もしばらくはナチスが関わった分野ということで敬遠されていたから。ナチス曰く「金髪碧眼という理想的なゲルマン民族たる魔女を、オリエントのイタリア系が弾圧したのである」とのこと。
・魔女の扱いは地域によって差があるため、地域史として魔女を語ることは比較的たやすい。しかし本書では「その土地の問題」として片付けず、ヨーロッパ史全体として魔女を総合的に考察する。
・魔女狩りの根拠として人々の間で訴えられた「魔女の悪行」には様々な種類があるが、中でも「母性に関わる悪行」が目立つ。「赤ちゃんが痩せこけてしまった、魔女の仕業だ」「赤ちゃんが母乳を飲まない、魔女の仕業だ」など。ここに、子どもたちを養う代わりに損なわせる「悪しき母」としての魔女のイメージが見て取れる。
また、子どもへの攻撃以外にも家畜への攻撃も魔女の悪行として挙げられていた。「牛が乳を出さなくなった、魔女の仕業だ」など。子育て関連という直接的な母性のみならず、家畜などの自然がもたらす母性・豊饒性への攻撃が広く「母性にまつわる魔女の悪行」として捉えられていたと本書は考察する。
・魔女狩りが広まった大きな要因としてミソジニーがある。魔女として捕まった人の多くが高齢女性だったこともあり、特に高齢女性への蔑視が顕著に見て取れる。実際に魔女狩りに携わった者や魔女狩りを扇動した学者の男性の多くが、ここで書くのは憚られるような凄まじい女性蔑視に基づく価値観を彼女たちを捕らえる根拠としていた。
・魔女狩りが行なわれた地域は深い森や山に囲まれた地域が多い。これは「森に囲まれた陰鬱とした村のほうが魔女が出そうな雰囲気がある」というよりも、地政学的にアクセスが悪い場所は中央集権の力が及びにくく、現地の権力者が魔女狩りを主導しやすいことが原因である。現に、アクセスが良い平地では魔女狩りは比較的少ない。
・魔女狩りが起こった根本的な原因をひとつに特定することは難しい。悪魔と魔女を研究するという悪魔学者と呼ばれる人々が、悪魔と契約を結んだ魔女なるものを定義して、これは忌むべき存在だというイメージを民衆の間に広めたことは事実である。しかし、民衆も魔女狩りに積極的に加担していたこともまた事実。「あいつは魔女じゃないか」「あいつが怪しい動きをしているのを見た」という噂が家庭内でなされて、それが村の井戸端会議の話題で上がり、村の広場まで広がり、ついには村長の家にまで伝わり、魔女とされた女性が引っ立てられる。こうしたケースが無数に起こっていたのだろう。悪魔学者と民衆のどちらの方により原因があるか、というよりは、悪魔学者が定義したイメージを民衆が信じて広まり、そのトレンドに乗っかる形で学者がさらにエスカレートした魔女のイメージを作りあげる。ニワトリが先かタマゴが先か、ともかくこのような相互作用を起こして魔女狩りを加速させていたことが考えられる。
・魔女狩りは戦争が無い時に起こりやすい。戦争中は敵兵が村に入り込んできて傍若無人を働くため、民衆も政治に携わる者も魔女の噂を広めている余裕なんてない。また戦争では敵勢力という明確な「敵」が存在するため、魔女をわざわざ「敵」として担ぎあげる必要もない。魔女が「敵」とされるのは、たとえば疫病が広まって明確な「敵」が存在しないなか、それでも困難を皆で乗り越えるために共通の「敵」を作る必要に駆られるケースが多いからだ。
・魔女狩りは家父長制と根深い関係にある。当時、女性は家の中で夫に服従することが「良き女」とされていた。そうでない反抗的な妻や、そもそも家の秩序の外にある独り身の女性が民衆から魔女として名指されやすい傾向にある。つまり、魔女とは家父長制的社会への反逆者であり、魔女の存在は社会の秩序を乱すものとされていた。魔女狩りの背景には女性に対する社会的規律の強制もある。
『かわいそうだね?』綿矢 りさ
・同じ男を巡る女ふたりの複雑な感情と関係性を描く異性愛恋愛小説。いわゆる「女同士ってドロドロしてるんでしょ」みたいなステレオタイプではなく、もっと解像度が高くて痛烈でクレイジーな展開が楽しめる、優しすぎて逆に不誠実な男を愛した女の愉快痛快な悲劇のお話。
・「かわいそう」とは何だろう、と考えた。作中では主人公が小学生の時にクラスで人権標語を考える際に「かわいそうな人たちを助けよう」と発表して、クラスメイトから「なんか偉そう」「上から目線」と総スカンを食らったエピソードがある。私も、被差別属性やマイノリティの人たちに対して「かわいそう」という言葉は使わないようにしている(というか「かわいそう」というよりも、単純に権利の不平等の問題と捉えているのだけど)。クラスメイトの言う通り、それは彼ら彼女らを自分より下の立場に位置付ける言葉になってしまうから。主人公は「そんなつもりはなかったのに」と憤るが、そういうものは本人の意図とは関係なく独り歩きするもの。
本作では主人公の彼氏の元カノが「かわいそうな人」として描かれる(「主人公の彼氏の元カノ」は長ったらしいので以降「元カノ」と呼称する)。元カノは職を失い求職中の身であり、実家にも帰れない。彼氏は元来の優しい性格から元カノを自分の部屋に住まわせる。主人公はそのことに最初は憤るが、中盤で元カノと直接話をしたことで絆されて、「かわいそうだから」と彼氏の部屋に住むことを了承する。これは彼氏の今カノが自分であることの優越感から、元カノを下の立場に位置付けているのだと解釈した。だが、それが間違いだった。
誰かに対して「かわいそう」という感情を抱くことは相手を見下すだけでなく、時に足元をすくわれることにもなる。
・表題作の他に『亜美ちゃんは美人』という作品も収録されている。めっちゃ綺麗な子の隣にいる「二番目に綺麗な子」の視点から、綺麗な子への複雑な友情を描く。高校時代の顔の良さでカーストが自然と決まる空気とか、大学のコンパで綺麗な子の添え物みたいに周囲から扱われる流れとか、ヒリつくほど生々しく感じる。やだなぁ、と思いつつも読む手が止まらない。
『#ハッシュタグストーリー』麻布競馬場, 柿原 朋哉, カツセ マサヒコ, 木爾 チレン
・あえて新しいジャンルを作るならば、本作はインターネット文学。といっても末尾に草を生やしたりネット用語を連発したりするわけではない。現代のインターネット文化から生まれるであろう物語を綴る、4人の新鋭作家による短編集。
・インターネットにどっぷり浸かっている人なら一度は見たことがあるであろう、「田舎の道路でこちらに向けてポーズを取っている女学生と、その後ろで倒れている犬の散歩中と思しき人物」の画像。これを元ネタ(作中では写真の内容は小説用に少し変えてある)にして、あの画像に映っている二人と犬は何者なのかが語られる『#ネットミームと私』。あの情報量が多い画像からストーリーを考えつく発想に脱帽した。
・インターネットにどっぷり浸かっている人なら一度は見たことがあるであろう、ギャルが「私も超オタクだよ!? ワンピースとか全巻持ってるし」と言っている漫画の一コマ。彼女のような所謂「にわかオタク」に憤るガチオタクの女性の葛藤と逡巡を描く『#いにしえーしょんず』。隠れ古オタクの哀歌。
・高校生の時の友人の言葉がいまの自分を救ってくれる『#ウルトラサッドアンドグレイトデストロイクラブ』。こちらはネット要素は薄め。異性愛要素は少しだけあるけど、女性同士の大切な関係性を描いていて好み。
・『#ファインダー越しの私の世界』。大学生、京都。無類の映画好きでサブカルオタクをこじらせていた主人公の女性は、何者かになりたかった。それから10年経った今では何の変哲もない専業主婦となって隣人の苦情に怯えつつ、夜泣きする我が子をひとり夜の公園であやす日々。映画好きを自称しておいて好きな映画は何かと聞かれたら『ジュラシックパーク』や『テルマエ・ロマエ』を挙げる人間を軽蔑していた主人公は、その彼ら彼女らのような平凡な人間となった。
大学生の頃、主人公には付き合っていた男性がいた。小説家を目指して努力を重ねており、彼もまた何者かになろうとしている人だった。しかしその作品は主人公曰く「村上春樹の劣化コピー」であり、まだ未熟だったことが窺える。彼とはその後に別れ、それから10年経って小説家としてようやく花開こうとしていることを主人公は知る。そうして主人公は、自分の人生を見つめて捉え直す決意をした。
このエピソードは作者の木爾チレン先生が自身と重ね合わせていることが窺える。彼女も大学生の時に短編小説で賞を取ったが、それから小説家として活躍できるまでに約10年の歳月を要した。
むかし夢見ていた何者かになれる人がいれば、夢見た自分にはなれなかったけれど、それでも自分の人生を手に入れる人もいる。何者かになれた人と、なれなかった人。どちらも肯定しているのが嬉しい。
ここからは個人的な所感。私も百合小説作家を目指して目下修行中の身なので、この記事の最初に挙げた同作者の『神に愛されていた』と同じく本作も刺さった。小説教室に通ったり、少なくとも300字の小説を毎日書いたり、地道に努力を続けている。こうして読んだ本をブログ記事としてまとめているのも、感想を振り返ることで作家志望としてのインプットに真剣に取り組めるようにするため。対外的に書くことを意識すると、自然とまとまりのある文章が書けるようになるから。自分しか読まない文章だと、どうしてもクオリティがおざなりになってしまうので。先述した通り、木爾チレン先生は小説家になるまで10年掛かった。商業デビューするつもりはないけど、自分もそれだけのスパンで努力を重ねたいと思う。
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