『ミッドナイトスワン』燦然とした母性という愛の形を、凪沙の静かな涙に見る
このレビューを書くために喫茶店へ向かう間、西の柔らかい斜光の中で歩く何組もの親子連れを見かけた。幼い子どもが親に手引かれ、家へと帰っていく姿を眺めながら、映画『ミッドナイトスワン』の余韻をもう一度思い起こしていた。
本作はトランスジェンダー(心と身体の性が不一致である人)の凪沙と、実親から虐待を受け凪沙の元にやってきた少女、一果の物語だ。「ラブストーリー」というキャッチコピーが付いているとおり、これは疑似母娘の間に存る愛の物語であり、恋愛や友愛とはまた別の、女性が少女に抱く母性という名の愛を描いている。
親子愛、というのは古くから映画の中の題材になることが多い。筆者が最も強く、母から子へ向ける愛の力を感じたのは、2016年のファンタジー映画『怪物はささやく』だった。病に臥せながらも、最期まで懸命に子を愛そうとする際限のない母の愛に人目を憚らず涙したものだが、本作『ミッドナイトスワン』では、一果が凪沙とは年の離れた遠縁にあたり、親戚として顔を合わせる機会がなかったゆえ、その心の距離は遠かった。そして主人公の凪沙は、心と身体が互いに軋み合うことによる苦痛を抱え、孤独を感じている人物である。
子どものためなら何を犠牲にしても構わない、という献身と無償の愛は、母という生き方を人生そのものたらしめるのだという気づきを観客に投げかけてくるが、凪沙は「肉体は完全には女になれず、母親になりきれない」という苦しみを抱き続けていた。その胸中にある痛ましさと反比例するように、一果に対する愛おしさが増していく様子は、美しいながらまるで圧迫されるかのような息苦しさと強い切なさを感じさせる。
ホルモン注射を打ち、不安定な状態で「なぜ私だけがこんな目に」と慟哭するシーンでは、主演の草彅剛がとめどなく頬から涙をこぼし、嗚咽する迫真の演技を披露している。凪沙の人となりが漂わせる淋しさと痛ましさ、そして柔らかさと優しさを、彼は見事に身ひとつで演じ切っている。内側から匂い立つかのように、物語を経て女にも母親にも、そしてひとりの人間にもなれる、監督が絶賛した彼の「瞳」に注目して観ていただきたい。金魚の水槽を眺めて細められるすっとしたまなじりと、どこか遠くをぼんやり見つめているような視線は、目は口ほどに物を言うのだということを体現してみせている。
そんな彼女の瞳からこぼれ落ちる涙は、終盤になると様相を変え始める。おそらく最も劇中で重要な海辺のシーンで、彼女はふたたび泣く。しかしその涙は以前のように、「苦しい」と訴え、世界の片隅で縮こまり、傷が開かないように耐え忍びながら嗚咽するのではなく、静かに音もなく、ひどくゆっくりと、まるで零れてしまうのが惜しいかのように涙するのだ。目の前でバレエを踊る一果を見つめ、「きれい」と囁く凪沙。孤独だった凪沙の「生」が、一果の存在により救われる。そうして流す涙はこれまでと全く種類の違う、充分すぎるほどに愛を帯びた温かい涙だった。
凪沙という淋しい人が、最後には愛する子の傍に寄り添い、自分の生を肯定し、生きられるようになったことに心の底から胸打たれた。疑似だとしても、周りが否定したとしても、凪沙はたったひとりの一果の「母」として生きることができた。それだけで彼女の人生は、真夜中のしんとした淋しさから夜明けをまたぎ、朝を迎えることができたに違いない。
エンドロール後の凪沙と一果のカットについて、当時SNSでは「受胎告知の構図なのではないか」という考察が挙がっていた。処女のマリアがキリストをその身に宿す宗教画である受胎告知を模したのだとしたら、やはり本当に、まことの意味で凪沙は一果の母親になれたのだと感じる。
世界が拒んでも、たったふたりだけの、彼女たちの間だけで生きている愛の脈動。それは特別でも異端でもない、普遍的で、そして凪沙という人間の輪郭をつくった忘れられない愛の形として、人々の心に残り続けるだろう。
これはれっきとしたラブストーリーだ。愛を抱く、ということの切なさと幸せを、心と身体すべてを開放してこの映画で感じてほしい。
【初出】2020.10.21 BadCats Weekly