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亡霊のゴーストライター

「千の点描」 <第四九話>

そのそも事の始まりは、二枚の写真であった。二枚ともにセピア色に色褪せていて、いずれも戦争前後のものと思われた。一枚は鶏小屋の前に立つ中学生くらいの少年の写真で、もう一枚は軍隊の帽子を被って汚れたトラックの傍に立つ青年だった。軍隊の帽子を被っているが、ランニングシャツと作業ズボン姿で、足元にラッキーストライクの煙草のパッケージが捨てられていたので、おそらく戦後間もない頃に撮影されたものと思われた。
よく見ると、二枚の写真に写っている人物にはやや年齢差があるが同じ顔で、一人の人物の「戦前」と「戦後」の写真に違いない。私にこの写真を持ってきた広告会社のディレクターに、これは何かと尋ねたら、実はこの人物がいま自叙伝を執筆していて、ほぼ書き上げた状態にあるが、プロである私に文章のリライトをしてくれないとかいうことだった。その人物は何者かと尋ねたら、彼は奈良にある大きな養鶏会社の経営者だという。苦労しながらも事業に成功したので、一度自分の足跡を一冊の本に書き残したいということのようだった。

ディレクターが、最初に大阪の西天満にある私の事務所を訪ねて来た時は、自叙伝の原稿のリライトという話だった。ところが、いざ養鶏会社を訪問する日になって、場合によっては部分的に口述筆記のようにまとめてもらうことになるかも知れないと、微妙にディレクターの依頼内容が変わってきた。
.しかも、彼は手回しよくテープレコーダーを持参していた。これはこのディレクターのいつもの手口で、その手口を知っている私としては、二回に一回は彼の仕事をキャンセルしていた。しかし、その日は私の誕生日だったということもあって、理由なく広告会社のディレクターの誘いに乗って、養鶏会社を訪れてみる気になったのだった。しかしいざその会社に来てみると、養鶏の事業に大成功したと聞いていたほどには大きな規模の会社とは思えない。養鶏場の一画にプレハブ建ての社屋があり、応接室を兼ねた社長室で初めて社長と顔を会わせた。
 
ディレクターからは、社長は饒舌な人だと聞いていた。いろいろ横道に逸れて余分なことも喋(しゃべ)るだろうから、適当に必要な部分を拾って欲しいということでもあった。そう聞いていたものだから、自意識過剰で、あることないことを面白おかしく話す人だと思っていた。しかし実際に会ってみると、何か存念があるのか憮然とした表情で、昔のセピア色の写真に写っている人物が、歳だけ取ってそのまま目の前に座っているようだった。背の低い小太りな男だったが、私の真正面に座りながら、体を少し斜めにひねった姿勢なので、私はなぜかいつも覗き見されているような落ち着きのなさを感じていた。この社長は寡黙で、というより挨拶も目礼に毛が生えた程度のモノで、ほとんど口を開くことはなかった。
実際のところはディレクターも、社長と懇意であるように話していたが、この社長に会うのはこの場が初めのようだった。ディレクターのこれまでの説明とはまったく違っていたので、ディレクターは焦りながらもお世辞を重ねて社長の言葉を引き出そうと工夫するのだが、社長は完全黙秘のように一言も口にしない。私たち二人は、営業の担当者と社長との間に何か手違いがあって、社長が怒って黙っているのかと思ったのだが、ある瞬間突然ポツリと、「鶏は観音様の化身」とだけ意味不明な言葉を呟いて、また完全黙秘の世界に閉じこもってしまったのだった。

大の大人が三人揃って、ただ黙ってお茶を飲んでいるだけという何とも間の抜けた面談に終始したのだった。その間の悪い緊張感に耐えられなくなったディレクターは、今回は社長への挨拶とライターの紹介に来ただけだと見え透いた言い訳をして、その日は早々に引き上げることになった。大阪へと帰る近鉄電車の中でディレクターは、社長は人見知りをする人で、きっと今日は緊張していたのだろうと安易な結論を出し、次は大丈夫だろうと自分自身への気休めにすぎない独り言を呟いていた。
それからしばらくして、ディレクターは養鶏会社に二度目の訪問を計画するのだが、実際のところ私は相当に忙しく、無駄になりそうな時間は費やしたくない。そんな膠着状態がそこそこ続いた後で、ディレクターも知恵を働かせ自分の代理として才色兼備の女性ディレクターを起用することにしたのだ。この女性は仕事が緻密で、相手が女性という事で養鶏会社の社長もいく分口が軽くなり、同時に美しい人なら、養鶏会社に行きたがらない私の抵抗が多少軽減されると考えたのだろう。
広告会社のメンバーが女性のディレクター変わり、万全の態勢で臨んだこともあり、二度目の訪問では社長も幾分打ち解けて雑談はするが、相変わらず訪問の目的である自叙伝の話などは全く出なくて、状況はほとんど前回と変わらない。ただ、「鶏は観音様の化身」という意味不明な発言は前回と同様だった。私は完全にやる気をなくし、ディレクターに早々の撤退を申し入れた。しかし広告会社はこの会社がよほど重要な顧客らしく、何としても出版に漕ぎつけたいと思っているようで、なかなか辞めさせてくれない。

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