
柴怪 〜柴犬が語る怪談〜 【ホラー短編小説】
怪談【かい―だん】
不思議な話。あやしい話。気味が悪く、恐ろしい話。特に、化け物、幽霊などの話。
僕の飼い主は、オカルトと柴犬を吸って生きています。
そう犬仲間に話すと、妖怪の類と勘違いされがちですが、れっきとした人間です。
ひょろりと痩せた細長い体に、長毛種の猫のようなボサボサの頭。
青白い顔に黒ぶち眼鏡をのせて、どこか気の抜けた表情をした二十七歳のオスです。
七つ下の妹のマユと一緒に、祖母から借りた古い一軒家で暮らしています。
マユ曰く、飼い主は三度の飯よりオカルトが好きなのだそうです。
UMAから都市伝説、中でも興味があるのは「心霊」。
子どもの頃からテレビやラジオの心霊番組を欠かさずチェックし、怪しげなタイトルの本や雑誌を喜々として買い漁り、運転免許を取ってからは休日のたび、同好の士と心霊スポットに意気揚々と出向いては、家族に嫌な顔をされています。
我が家の本棚には、オカルト関連の本が山積みです。
そんな趣味が高じ、飼い主は本業のかたわら、兼業作家としてホラー小説を書いています。
近ごろは某大手動画サイトにはまっているらしく、暇さえあれば、食事中だろうと就寝前だろうと「すまほ」で怖い動画を視聴しています。
お行儀が悪いと家族に叱られても、言うことを聞きません。
さらに飼い主はホラー愛好者でありながら、人一倍怖がりな性格のため、その手のものを一人では鑑賞できません。
友人を誘ったり、ファミレスやカフェなど人がいる場所で楽しんだり、とにかく同じ空間一緒にいる誰かを必要とするのです。
誰もいない時は、僕にお供《とも》の役が回ってきます。
恐怖が一定値を超えると、飼い主はばくばくと鳴る胸を押さえながら、僕の後頭部や頬、背中を吸って、心を落ち着かせようとするのです。
毛が湿って不快なことこの上ありませんが、仕方がありません。
これからお話しするのは、そんな飼い主が「しめきり」に追われて「げんこう」を書いていた時に起きた、恐ろしくも少し自業自得な出来事です。
* * *
その日はお盆休みが差し迫った、八月の中頃でした。
夜になっても外は涼しくならず、なかなか蝉の声が鳴り止まなかったのを覚えています。
僕たちが住んでいるのは、山あいの小さな田舎町。
冬の冷え込みは厳しくも、夏は避暑地と言われる土地です。
町の四方をぐるりと囲む山々が熱気と湿気を吸ってくれるため、都心部より格段に涼しいのです。
日が沈めば気温は下がり、夜十時を回る頃には、兄妹はどちらからともなくエアコンを切ってしまいます。
ですがその日は普段より蒸し暑く、過ごしにくい一日でした。
湿気を帯びた生ぬるい空気が充満して、冷房が効いた部屋を出ると、ぺたりと被毛が湿ってしまうような。そんな夜でした。
飼い主はいつものように夕方、仕事から帰ってきました。
夕食もそこそこに、ササミジャーキーで僕をおびき寄せると、すばやく捕獲します。
体重8キロにも満たない小柄な僕は、あっさりと抱えられてしまいます。
何か憂鬱なのでしょうか。
僕の後頭部に顔を埋めては、ため息をつくという迷惑行為を繰り返します。
そんな飼い主を、台所でお皿を洗っていたマユがじろりと睨みました。
「フブキ、寝る時はちゃんとゲージに戻しといてよ」
「はいはい」
生返事をすると、飼い主は僕を小脇に抱え、階段をのぼります。
そうして二階の一番奥にある小さな書斎……飼い主の仕事部屋に連行されました。
何故、飼い犬である僕を、仕事部屋に連れてくるのか。
それは飼い主が一人でホラー小説を書けないという、ホラー小説家としてあまりに致命的な弱点を抱えているためです。
この家で暮らし始めた頃、飼い主は一階の僕のケージが置かれているリビングで作業をしていました。
しかし隣屋で寝ているマユから「きーぼーど」の音や独り言がうるさいと苦情が入ったため、やむなく作業部屋を二階に移し、僕を連れてくるようになったのです。
「そんなに怖いなら、わざわざホラー書かなきゃいいじゃん」
と呆れる妹に、飼い主は
「怖くなきゃ、面白くないだろ」
と、よく分からない返しをします。
僕たち犬が「おすわり」や「お手」という号令に逆らえないように、きっと飼い主も本能的なレベルで、怖いものへの興味や執着から逃れられないのかもしれません。
飼い主が「しっぴつ」をしている間、僕は部屋でごろごろしています。
退屈ですが、彼が作業している間は、ベタベタされないぶん居心地は良いと言えるでしょう。
最初は煩わしい「きーぼーど」の音も、慣れればどうということはありません。
飼い主はいつものように座布団の上に僕をおろすと、壁際の小さな座卓の前に座り、小さな黒いイヤホンを両耳にはめました。
さっそく動画をBGMに、パソコンで「げんこう」を始めます。
音で気が散らないのかと僕は思うのですが、飼い主はラジオや動画を流し聞きしながら作業した方が捗るのだとか。
ホラー動画……ネットに流布する都市伝説や怪異譚、小泉八雲や岡本綺堂など著作権の切れた昔の怪異譚などを、人間や人工音声が朗読する動画を、ひっきりなしに流します。
どうやら「しめきり」が差し迫っているようです。
猫のように丸めた背中から、そこはかとなく焦りと緊迫感がただよってきます。
僕は部屋の隅の座布団に横たわると、小さな文机に置かれた「ぱそこん」の画面に向かう飼い主の背中を、ぼんやりと眺めました。
時々退屈まぎれに、飼い主の膝に乗ってみますが、ろくに撫でもせず降ろされてしまいます。
面白くなくて、僕がふすん、と鼻を鳴らしてみも、飼い主は気付きません。
ぱそこん、すまほ、まうす、きーぼーど。
げんこう、しっぴつ、しめきり。
奴らはいつも、僕と飼い主の時間を奪ってゆきます。
それにしても冷房の効いた部屋は充分涼しいはずなのに、ぬぐいがたい不快感を感じる夜でした。
熱帯夜とは、少し違う気がします。
気温が高いというよりは、どろりと空気が重く、生暖かく湿って、かすかに嫌な匂いがするのです。
冷房の風も手伝って、やけに喉が渇き、僕は何度も水を飲みます。
マユも寝苦しかったのか、珍しくエアコンをつけたまま眠ってしまったようです。
階下からも、室外機の音が聞こえてきます。
窓の外で響く室外機と蝉の声、山から響く鹿の鳴き声。
そして「いやほん」から漏れ聞こえる、動画の淡々とした朗読の声、カタカタと「きーぼーど」を叩く規則的な音。
すっかり馴染んだ生活音たちに眠気を誘われ、僕が寝落ちするまで、さほど時間は経ちませんでした。
僕が寝ている間も、飼い主は動画をBGMに「しっぴつ」を続け――
どれほどの時間が経った頃でしょうか。
『……が降りてくる』
ふと耳元で響いた声に、僕はハッと目を覚ましました。
今のは、誰の声だったのでしょうか。
飼い主やマユの声ではありません。
けれど、どこか聞き覚えのあるような、ないような――なにか短い夢を見ていたような気もしますが、うまく思い出せませんでした。
顔を上げれば、飼い主のぼさぼさ頭が、うつらうつらと揺れています。
抗いがたい眠気に見舞われているのでしょう。
無理もありません。昨夜も仕事から帰ってきたら、日付が変わるまで作業していたのです。
僕は二度寝しようと、座布団の上で体をドーナツ状に丸めた、その時。
不意に湿った土と、嗅いだことのないにおいが、鼻先をかすめたのです。
『うぅぅ……』
同時にうなり声のような、低く喉を鳴らすような音が聞こえ、僕は耳をぴんと立てました。
立ち上がり、きょろきょろと室内を見回しますが、部屋には飼い主しかいません。
動画の音だったのでしょうか。
怪談を朗読する動画では、よくストーリーに合わせてBGMや効果音がつけられています。
先ほどの音もきっと、その手の音声だったのかもしれません。
けれど、先ほど一瞬だけ鼻をかすめた異臭は何だったか。
かすかに湿った土の香りに混じって、今まで嗅いだことのない、けれど覚えのあるようなにおいがしたのです。
記憶をたどっても思い出せず、そのもどかしさに僕は足元の畳をぞりぞりと舐めました。
すると飼い主が目を覚ましたのか、僕を振り返ります。
「ん?」
座布団の上に立つ僕に、少し不思議そうに首をかしげます。
しかし僕がじっと見つめ返すと、飼い主は気を取り直したようにエナジードリンクを一口飲み、「ぱそこん」に向き直りました。
その間も黒いイヤホンから、人の話し声が漏れ聞こえてきます。
『G県にある私の実家の裏には、小さなお山がありました。一年中鬱蒼と木々が生い茂っていて、手入れの届いていない、暗く荒れた山でした』
中低音で少しかすれた、年配の女性の声でした。
『禁足地、というのでしょうか。立入禁止の立て札があって、地域の人は山に入りませんでした。私も子供心に怖くて、やんちゃな子たちでさえ近付かなかったと思います。けれど年に、一度だけ……』
落ち着いた声がなだらかに、語り部の女性の身に起きた怪異を語りはじめました。
『毎年八月に、お盆が来る前に一度だけ、大人たちがお山に入る習慣があったのです。猟友会に入っていた私の父も、その一員でした』
山――僕は何気なく、頭上の出窓を見上げました。
飼い主がカーテンを閉め忘れているため、窓の外の暗がりの中に、小高くそびえる裏山がうっすらと見えます。
『父に何度か、山で何をしているか聞いたことが聞いたことがあります。私が幼かった頃は、決して教えてくれなかったのですが……嫁入り前にぽつりと、父が少しだけ話してくれたんです』
そこから、女性は父親との会話を語りました。
『あのお山には、お供えを捧げに行ってるんだ。野菜とか、猪とか鹿の干し肉とか、するめとか、あとは酒と米か。けっこうな荷物になるから、神主さんと一緒に、猟友会のもんが持ち回りで行くんだよ』
『お供えってことは、山の神様に?』
父親はわずかな間を開けて
『まあ、そうだな』
と答えたそうです。
『でも暑い中、大変じゃない。もしお供えをしなかったら、どうなるの?』
『……供え物がなかったら、降りてくる』
『降りてくる? 神様が?』
『そうだ。山から里に¡∈ⅰ∮*#が降りてくるんだ』
父親が何と言ったのか上手く聞き取れず、僕が再び耳を立てた、その時。
ピシッと、硬いものにヒビが入るような音が空気を震わせました。
家鳴りというには、少し大きな音です。
飼い主も怪訝そうに、右耳から「いやほん」を外しました。
すると今まで煌々と光っていた「ぱそこん」の画面が、急に真っ黒になったのです。
「は? ちょっ、待って」
飼い主が素っ頓狂な声をあげた、次の瞬間、僕の視界は黒一色に覆われました。
「おいおいおいおい。このタイミングで停電とか、勘弁してくれよ」
どうやら部屋の照明が落ちたようです。
真っ暗な中で耳を澄ませば、エアコンの音が聞こえません。
すぐ闇に目が慣れ、飼い主があわあわと、手探りで「すまほ」を探す様子がうっすらと見えました。
充電中の「すまほ」を掴み、飼い主が立ち上がった、次の瞬間。
バンッ、と鈍く湿った音が、背後で鳴り響きました。
僕と飼い主はそろって、音がした方を振り返ります。
ベランダに通じる掃き出し窓。
壁を大きく切り取った窓の真ん中に、忽然と、白く小さな何かが浮かび上がりました。
なんだろうと、僕は暗がりに目を凝《こ》らします。
すると飼い主から「ひゅっ」と、息を呑む音がしました。
バンッ、バンッ。
再び叩きつけるような音が響くとともに、窓が小刻みに揺れ、白い何かが四つ増えたのです。
それが人間の手のひらの形をしていると気付いた瞬間、全身の毛がざわりと逆立ちました。
先ほど一瞬だけ、僕の鼻をかすめた異臭。
人とも獣とも判別のつかない奇妙なにおいが、窓の外から濃く漂ってきます。
「な、なんだあれ」
僕はとっさに、飼い主の足元に駆け寄りました。
バン、バン、と窓はひっきりなしに叩かれ、無数の手のひらが白く浮かび上がります。
飼い主は這うようにして屈み、僕の首元に手を回しました。
「フ、フブキ、大丈夫だ。大丈夫だから……」
顎の下を撫でながら、震える声で僕をなだめます。
その手はいつもより冷たく、ひどく汗ばんでいました。
鼓膜の内側で、低い振動音が聞こえます。
無意識のうちに、僕は呻《うな》っていたのです。
しかし刹那の後、掃き出し窓に浮かんだ無数の手のひらは一斉に、音もなく姿を消しました。
「はっ、ええっ!?」
間の抜けた飼い主の声を残し、部屋に静寂が降ります。
飼い主は呆然と、真っ暗な窓を見つめました。
ややあってから、飼い主はおもむろに立ち上がります。
「……消えた?」
僕の全身の毛は逆立ったまま、なかなか元に戻りません。
それでも掃き出し窓は静まり返り、ぴくりとも動かなくなりました。
「なんだったんだ今の……なあ、フブキ」
恐怖と困惑を紛らわせるように、飼い主は僕に声をかけます。
けれど僕は、掃き出し窓から目を離せません。
飼い主の声が途切れるたび、部屋は静寂に包まれます。
山の獣たちの声はおろか、虫の鳴き声すら聞こえてきません。
冷房の切れた室内で、徐々に蒸し暑さが戻ってきます。
湿気と、不自然な静寂を振り払うように、僕はぶるりと体を震わせました。
――――まだ、いる。
先ほどの異臭は、まだ消えていません。
それどころか更に濃く、鼻を刺すように漂ってくるのです。
「もう大丈夫だぞ。な、フブキ」
警戒を解かない僕に焦ったのか、飼い主は少し大げさに僕の頭をなでくり回してきます。
「よーしよしよし、怖かったよな。ジャーキーでも食べ――」
不意に飼い主の言葉と、僕をなでる手が止まりました。
飼い主の指の間からのぞく、掃き出し窓。
そこに浴衣をまとった男性が、いつの間にか、僕たちに背を向けて立っていたのです。
「あ……あぁ……」
飼い主のかすれた声が、静まり返った部屋で、やけに大きく聞こえました。
白髪交じりの短く薄い髪に、ひょろりと痩せた背の高い体。
白い布地に、くっきりと染め抜かれた青海波の模様。
僕たち犬は、人間ほど視力が良くはありません。
認識できる色も少なく、もっぱら声やにおいで相手を識別しています。
けれど不思議と先ほどの白い手のひらたちや、目の前の老爺の姿は、まるで暗がりに浮かび上がる月のように、ありありと見えるのです。
目の前の男性に、僕は見覚えがありました。
「……じいちゃん?」
おそるおそる尋ねた飼い主の声が、かすれて裏返ります。
『開けてくれ』
しわがれた低い老爺の声が、窓の外で響きました。
それは確かに僕も聞き覚えのある、飼い主の祖父の声だったのです。
「う、嘘だろ?」
飼い主が愕然とするのは当然でした。
この家のかつての住民……飼い主の祖父にあたる人物は、数年前に他界しているはずなのです。
『戸を開けてくれ、£€3※∆¿』
老爺は僕たちに背を向けたまま、窓の外で再び声が響きました。
何と言われたのか、半分聞き取れず、鼓膜にへばりつくような違和感が残ります。
「ほ……本当に、じいちゃんなのか?」
違う。
全身の毛が痛いほど逆立つのを感じ、僕は低く低く喉を鳴らしました。
硬直していた飼い主が、よろよろと立ち上がり、窓へと近寄ります。
すると老爺の姿をした「それ」は、まるでフクロウのように、首だけをぐるりと回してこちらを振り返りました。
そうして見えた青白い顔には――
「ひっ」
目も鼻も口も、あるべきものが何一つありませんでした。
卵のようにつるりとした、のっぺらぼうのような顔だったのです。
「うっ、うわあああああっ!!」
飼い主が絶叫とともにひっくり返り、尻餅をついた、次の瞬間。
『わん!』
闇を裂くように、低く鋭い吠声が響き渡りました。
すると飼い主が驚いたように、こちらを振り返ったのです。
「……フブキ?」
今にもずり落ちそうな黒縁メガネもそのままに、まじまじと僕を凝視します。
僕も無言で飼い主を見つめ返した、その時。
真っ暗だった部屋に、パッと照明がつきました。
飼い主が天井を見上げると、スパン、と勢いよく書斎の襖《ふすま》が開きます。
同時に、かすかですが窓の外で、ドサッ、と何か重いものが落ちたような音が響きました。
「さっきからうるさいんだけど。今、何時だと思ってんの?」
パジャマ姿のマユが、不機嫌そうに部屋に乗り込んできました。
妹の登場にホッとしたのも束の間、飼い主はあわてて窓を指差します。
「じ、じいちゃんが! じゃなくて、じいちゃんののっぺらぼうが」
「はぁ? なに言ってんの」
「じいちゃんの幽霊が出たんだよ!」
「幽霊?」
飼い主の絶叫に、マユはぽかんと彼が指した先を見遣りました。
「窓の外の、ベランダにいたんだ。待て、危な……」
飼い主が止める間もなく、マユはガラッと窓を開きます。
ベランダには誰もいませんでした。
煤《すす》をかぶった室外機が回っているだけで、他は何も見当たりません。
「誰もいないじゃん」
「そんな。確かにいたのに」
すると真っ黒だった「ぱそこん」の画面が、元に戻りました。
何故か「いやほん」からではなくスピーカーから、少しひび割れた音声が、結構な音量で流れ出します。
『次にお話するのは、猟師だった祖父が山で奇妙な化け物に出会った体験談です』
マユは顔をしかめて「まうす」を掴むと、素早く動画を一時停止しました。
「……こんなもんばっか聞いてるから、寝ぼけておかしな夢でも見たんでしょ!」
「いや、確かにいたんだって」
呆れを隠そうともしない妹に、飼い主は気まずそうに反論します。
しかし神妙な顔をしていたのも束の間、彼は何かを思い出したように「ぱそこん」にかじりつきました。
カチカチと「まうす」を操作し、みるみるうちにその横顔が青ざめてゆきます。
「ああああ嘘だろ……」
「え、なに。どうしたの?」
画面を凝視したまま、飼い主はわなわなと声を震わせました。
「消えてる……さっきまで書いてた分」
愕然と画面を見つめる飼い主に、マユは気の毒そうな表情を浮かべます。
「もう少し締切に余裕もって書けばいいのに」
妹の正論に、飼い主はぐうの音もなく髪を掻きむしりました。
こうなった今、彼に先ほどの怪異を気にする余裕などありません。
夜を徹して原稿に追われることとなったのです。
しかし怪我の功名、火事場の馬鹿力というのでしょうか。
飼い主は今までにない集中力を発揮し、日が昇る頃には「げんこう」を書き上げてしまいました。
白み始めた空に、しょぼしょぼと目をこすると、机飼い主はに突っ伏し、すうすうと寝息を立てはじめました。
机に転がった「いやほん」から、ずっと流しっぱなしの怪談朗読の声が聞こえてきました。
怪を語れば怪至る、という言葉がありますが――先ほどの不可解な現象は、一体何だったのでしょうか。
そんな謎を残し、迎えた翌朝。
「お兄ちゃん、ちょっと来て!」
マユの焦ったような声が、庭から響きました。
飼い主はむくりと机から顔を上げると、眠い目をこすりながら妹の元へ向かいます。
「どうした」
「この子、死んでるみたい……さっきからピクリとも動かないんだよ」
少し不安そうなマユの言葉に、飼い主は「うーん」と眠気のにじむ声で答えました。
「タヌキかなあ」
「違うぞ、こいつはハクビシンだ」
「え? ハクビシンって、こんな顔だったっけ?」
「鼻のまわりが白いだろ」
僕は少し気になって、リビングの窓から様子を窺いました。
物干し竿《ざお》のそばに、一匹の獣がうつ伏せで倒れています。
僕より一回り以上は大きく、ずんぐりと太った獣でした。
白茶けた毛並みに艶はなく、血の匂いはしません。熱中症か、何らかの病気にやられてしまったのか。
死臭が漂ってこないため、死んでからまだ間もないのでしょう。
「可哀想だから、埋めてあげようよ」
「そうだなぁ。庭はタイショウがいるから、畑に埋めてやるか」
獣の死骸は大きなビニール袋に乗せられ、兄妹に運ばれてゆきました。
畑から戻ると、飼い主は昨夜のように僕を連れて、書斎で「げんこう」のチェックをします。
手持ち無沙汰な僕は、後ろ足で耳や顎の下を掻いた後、掃き出し窓の外をなにげなく眺めました。
ベランダに設けられた安全柵の向こうには、小さな畑が見えます。
片隅にある盛り土は、先ほど飼い主がこしらえた獣の墓でしょう。
するとこんもりと盛られた土が、ボコッと盛り上がりました。
「……?」
何事かと、僕は目を凝らします。
真っ黒な手が突き出されたかと思えば、土をまき散らしながら、中から何かが這い出しました。
それは先ほど、飼い主とマユに埋められた獣でした。
ブルブルと体を震わせ土を飛ばすと、獣は脱兎のごとく、裏山に向かって走ってゆきます。
僕は思わず、飼い主を窺いました。
しかし飼い主は「げんこう」に向かい合ったまま、畑で起きた椿事《ちんじ》に気付く様子はありません。
先ほどの獣は、死んでなどいなかったのです。
気絶していたのか、それとも死んだフリをしていたのか。
呆気にとられる一方、脳裏にふと遠い昔の記憶が蘇ります。
八年前、僕がまだ生後半年にも満たない子犬だった頃。
山に捨てられ、吹雪の中、木の下でうずくまっていたところを、飼い主の祖父に保護された時のことです。
寒さと飢えで死にかけていた僕を、つききりで看病してくれたのは、当時まだ大学生だった飼い主でした。
日に日に回復してゆく中、僕は時折、家の近くを何かがうろつく気配を感じるようになったのです。
その日も僕は、庭の生け垣の向こうに「それ」のにおいを嗅ぎとりました。
姿形を見たわけでも、直接なにかをされたというわけでもありません。
けれど例えようのない不安と不快、歯がむずむずと疼くような感覚に見舞われます。
飼い主を呼ぼうかと迷っていた、その時。
わん、と鋭い吠声が、びりびりと家を震わせました
すると生け垣の向こうの何かが、ザッと走って逃げてゆきます。
「ねえ。あれは、なぁに?」
尋ねてみるも、台所でフードの用意をする飼い主は、こちらを見向きもしません。
すると低く静かな声が、僕の疑問に答えてくれたのです。
「あれは穴熊だ」
振り返れば、まるで秋田犬のように大きな赤柴が、扉の前に立っていました。
「お前を拾った爺さんが昔、仏心を出して罠から逃がしてやったせいで、時々うちに来る。畑の野菜をくすねにな。だがあと八年もすれば、あいつは狢になる」
「むじな……?」
「長く生きた穴熊の化け物だ。狸や狐のように、山から降りてきては人を化かす」
首をかしげる僕の前に座って、彼は飼い主の背中をついと見上げましあ。
「気をつけろ。お前の飼い主は怖がりなくせに、霊やら化け物やらが人一倍好きでな。そのせいか時々、その手のものを引き寄せる」
懐かしい記憶のおかげで、昨夜の怪奇現象が腑に落ちました。
狢。
かの小泉八雲の『怪談』でも語られた、のっぺらぼうの怪異。
あれは祖父の幽霊などではなく、狢の仕業だったのです。
そしてあの時、怪異をかき消すように響いた鋭い咆哮。
あの吠声は、僕の声ではありませんでした。
僕は「ぱそこん」の机に飾られた、小さな写真立てを見上げます。
中にはかつて飼い主の祖父母とともに、この家で暮らした、一匹の柴犬の写真がおさめられています。
彼の写真は今も、この家の至るところに飾られています。
柴犬にしては大柄で、僕よりひと回り大きく、秋田犬と見まがうほど骨太な体躯。
きりりとつり上がった黒い瞳に、狼のように大きな三角形の耳。
美濃柴犬の血を引く、朝焼けのように鮮やかな赤い毛並み。
七年前、享年十九歳でこの世を去った、タイショウという名のオスの赤柴。
飼い主いわく、血の繋がりはなくても僕の兄にあたる犬です。
僕が彼と過ごしたのは、ほんの一ヶ月の間でした。
けれど老いてもなお鋭い眼光と吠声を、今もはっきりと覚えています。
飼い主の祖母はこの家を去る前、老人ホームに持ってゆくアルバムを見ながら、亡き愛犬を懐かしんで言いました。
「タイショウは畑を荒らす獣だろうと、泥棒だろうと、いつもひと吠えで追い返してくれた。あの子は本当に、番犬の中の番犬だったんだよ」
兄は死後も尚、この家の番犬として、家人の危機に駆けつけたのでしょうか。
あれから八年が経った今。
あの穴熊が狢となり、此岸と彼岸の境が曖昧になるこの時期に、僕たちを心配して様子を見に来てくれたのでしようか。
狢に化かされたことも、亡き先住犬の活躍も預かり知らぬ飼い主はといえば。
印刷された「げんこう」の上に突っ伏し、すやすやと寝息を立てています。
猫のように丸く、呼吸に合わせて上下する背中を見ていると、なんだかこちらまで眠くなってしまいます。
僕は飼い主に歩み寄ると、ちょうどよい高さにある膝に、頭を乗せました。
エアコンがきき始めた部屋は涼しく、嗅ぎ慣れた飼い主のにおいに目を閉じれば、窓の外から室外機と、蝉の鳴き声が聞こえてくる。
そんなお盆を六日後に控えた、夏の日のことです。
居眠りから覚めた飼い主は、無事「しめきり」を乗り切り――
以後、この家が奇怪な現象に見舞われることはありませんでした。