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幸田露伴の「努力論⑥ 努力の堆積・修学の四標的」
努力の堆積
人間の行為を種々に分類すれば、随分多数に分類できる。そして、その行為の価値に多くの階級もあろうが、努力ということは確かにその中でも高貴な部分に属するものである。このごろ世に行われている言葉に奮闘という言葉があって、努力とやや近い意味を表わしているが、これは仮想の敵が有るような場合に適当するもので、努力は我が敵の有無にかかわらず、自分の最良を尽してそして或る事に勉励する意味で、奮闘という言葉が持つ感情意義よりも高大で、中正で、明白で、人間の真面目な意義を発揮している。元来一切の世界の文明は、この努力の二字に根にしてそこから芽を出し、枝をつけ、葉を生じ、花を開くのであると云うことが出来る。
しかし努力に比べて、丁度その相手のように見えるものがある、それは好んで為(な)すことである。好んで為すという事である。努力は厭な事を忍んで為し苦しい思いにも堪えて、そして労に服し事に当たるという意味である。しかし好むという場合には苦しい事も打ち忘れ厭うという感情も全く無くて、即ち意志と感情とが並行線的、もしくは同一線的に働いている場合をいうのである。努力はそれとやや違った意味を持ち、意志と感情とが相反し背(そむ)く場合でも、意識の火を燃え立たせて感情の水に負けないようにして、そして熱して、熱して、止まないのを云うのである。
或る人が或る事に従事し、そしてその人が我知らず自分の全力をそこに没頭して事に当たるという場合、それは努力というよりは好んで為すと云った方が適当である。そこで世界の文明は、努力から生じている乎(か)、好んで之を為す処から生じている乎(か)と云えば、努力から生じているように見える場合も、好みから生じているように見える場合もある。例えば文明の恩人、即ち各時代の俊秀な人物が或る事業の為に働いて、その恩恵を後世に遺した場合を考えて見るに、努力の結果のように見える場合もあり、又好んで為した結果のように見える場合もある。これは人々の観察、解釈、批評の仕方に拠ってどちらにも取れる。しかし正しく之を解釈して見たならば、好んで為す場合にも努力が伴わない時はその進行は頓挫してしまう。そうならないにしても偉大な結果を期待する事は出来ない。パリッシーの陶器製造に於いても、コロンブスの新大陸発見に於いても皆そうである。いかに好んで為すと云っても、例えば有福の人が園芸に従事する場合についても、或る時は確かにそれは苦痛を感じよう。即ち酷寒酷暑に於ける従事、或いは虫害その他についての繁雑な手当て、緻密な観察、時間的に不規則な労働に服す等の種々の場合に、努力しなければ中途で止(や)める状態になることも間々ある理屈で、換言すれば好んで為すと云っても、その間には好ましくない事情が生じるようなことは人生に有りがちな事である。その好ましくない場合が生じた時に、自分の感情に打ち克ち、その目的の遂行に只管(ひたすら)努めるのが即ち努力である。
人生の事と云うものは、座敷で道中双六をして花の都に到達するようなものではない。真実(ほんとう)の旅行に於いては旅行を好むにしても尚(なお)かつ風雪の悩みがあり峻坂険路の艱難があり、或る時は磯路に阻まれ、或る時は九折(つづらおり)の山路に白雲を分け青苔に滑る等、種々な艱苦を忍ばなければならない。即ちそこには明らかに努力が必要である。もし、一路坦々として、砥石のように滑らかで、しかも春風に吹かれ良馬に跨って旅行するのなら、努力は無いようなものの、全部の旅行がそうばかりは行かない。どんなに財に富み地位に於いて高くとも、天の時、地の状態等に因(よ)って、相当の艱難困苦に遭遇するのは旅行の免れないところである。
であれば、どれほどこれを好む力が猛烈で、そしてこれを為す才能が卓越していても、徹頭徹尾、好適の感情で或る事業を遂行する事は、実際の人生では殆どあり得ない。種々の障害或いは失敗の伴う事は、已むを得ない事実である。そしてそれを押し切って進むのは、その人の努力に期待する他(ほか)はないのである。周公、孔子のような聖人、ナポレオン、アレキサンダーのような英雄、或いはニュートン、コペルニクスのような学者であっても、皆その努力に因(よ)ってその事業に光彩を添え、勉励に因って大成している事実は、ここでクドクド云う迄もないことである。まして才能乏しく徳の低い者にあっては、努力は唯一の味方であると断言しても可(よ)いのである。それはちょうど財力乏しく地位また低い旅行者が、馬にも乗れず車にも乗れず、ひたすら二ツの脚(あし)の力を頼むより他に山河跋渉の方法がないのと同様なのである。
しかし、俊秀な人の仕業(しわざ)を見ると、時にはこの努力無くして出来たように見える場合もあるが、それは表面的な観察で、馬に乗っても雪の日は寒く、車に乗っても荒れた路面では難儀をする。どんなに大才厚徳の人であっても、やはり楽々とした好適の状態だけで終始する事は出来ない。況(いわん)や千里の駿馬は自然と駑馬(どば)よりは多くを行き、大才厚徳の人は常人(じょうじん)よりは人世の旅行を多くして、常人の到達し得ない処に到達しようとするものなので、その遭遇する各種の不快・不安・障害・躓(つまづ)きは従って多いのであるから、その努力が常人を越えているのは云う迄もない。文明の恩人の伝記を繙(ひもと)いて見るとき、誰か努力の痕(あと)を留(とど)めないものがあろう。殊に各種の発明者もしくは新説の唱道者、真理の発見者等は、皆この努力に因ってその一代の事業を築き上げていると言わなければならない。東洋の伝記や歴史を見ると、英才頓悟(えいさいとんご・英才は修行無しで直ちに悟る)、若(も)しくは生れながらに智勇を兼ね備えていたと云ったようなものがあって、俊秀な人は何事も容易に為し得たかのように書いてあるが、それは寧(むし)ろ事実ではないと云わなければならない。又、仮に英才の人が容易に或る事を為し得たとしても、その英才は何れから来たか。これはその人の系統上の前代の人々の「努力の堆積」がその人の血液の中に宿って、そしてその人が英才たる事を得たのである。
天才と云う言葉はともすれば、努力に因(よ)らずに得た知識才能を指すように解釈されているのが世間の常であるが、しかしそれは表面的な観方(みかた)である。いわゆる天才というものは、その系統上に於ける先人の努力の堆積がそうさせた結果と見るのが至当である。美しい斑紋を持ち、若(も)しくは珍しい形をした万年青(おもと)が生じると愛好家はその非常な価値を認めるが、しかしその万年青をつくづく研究して見ると決して偶然に生じたものではなく、やはりその系統の中にその高貴な由緒を持っていた事が発見される。草木にしてそうなのである、まして人間において稀有な尊いものが突如として生れる筈はないのである。
盲人の指の感覚はその文字が読めない紙幣に対しても真贋(しんがん)を弁別出来る程に鋭敏になっている。しかしその感覚力は偶然に得たものではなく、その盲目の不便から生じる欠陥を補おうとする努力の結果が、その指頭(ゆびがしら)の神経細胞の配布を緻密にしたのであって、換言すれば単にその感覚が鋭敏なだけではなく、解剖学上に於ける神経分布が細密となり、そして後に鋭敏な感覚力を持つに至ったのである。即ち「機能」が卓越するというばかりでなく、その「器質」に変化が生じて、そして常人に卓越したものとなったのである。これは結局、努力の絶えない堆積は、やがては物質上に変化を与える例証として、認識するに十分ではないか。
この理屈に拠(よ)って帰納すれば、俊秀な人なども偶然に現れた生れ付きの才能の所有者と云うよりは、俊秀な器質の遺伝、即ち不断の努力の堆積の相続者、もしくは煥発者と云う方が適当である。このような説は、或いは英雄聖賢の人に対して、その徳を減じるようにも聞えるが、実はそうではない。努力は人生の最大最善の尊いもので、英雄聖賢はその不断に努めた堆積の結果だというのだから、いよいよ英雄聖賢が光輝を揚げるところであると思う。
未開人が算数に疎(うと)いと云うのも、つまり算数に対する努力がまだ堆積していないからで、即ち代々の努力を基本としていない者が、突然に高等の数理を解釈出来る訳がないから、そこで数学の高尚な域に到達し難いという証例である。我々はともすると努力しないで或る事を成そうとする考えを持つが、それは間違い切った話で、努力より他に我々の未来を良くするものはなく、努力より他に我々の過去を美しくしたものはない。努力は即ち生活の充実である。努力は即ち各人自己の発展である。努力は即ち生の意義である。
修学の四標的
射(しゃ)を学ぶには標的が無くてはならない、舟を進めるにも標的が無くてはならない。路を取るにも標的が無くてはならない。人の学を修め、身を治めるにもまた標的が無くてはならない。従って普通教育、即ち人々個々の世に立ち功を成す根本の基礎となる教育にも、また標的が無くてはならない。従ってその教育を受ける者に有っても、標的とするところが無くてはならない。標的が無くて射を学べば、射の芸は空しいものになる。標的が無くて舟を進めれば、舟は漂流してその達するところが分からなくなる。標的が無くて路を取れば、「日暮れて宿を得ず、身飢えて食を得ず」となる。人として標的とするものが無ければ、結局のところ造糞機に過ぎなくなる。教育にして標的が無く、教育を受ける者が標的とするところを知らなければ、読書の音読はつまり蚊や虻の唸り声と変わらず、苦労して勉学に励むことも、無理して心身を疲らせるだけに過ぎないものになろう。では、基礎教育の標的とすべきはどんなものであろうか。又その教育を受ける者の標的として眼を着け、心を注ぐべきところはどういうところであるべきだろうか。
現今の教育は、その完全に普及していることに於いて、前代に比べられないほどに発達している。その善美精細なことに於いても往時が及ばないほどに進歩している。必ずしも知育に偏してはいない。必ずしも徳育を欠いてはいない。必ずしも体育を怠ってはいない。教育家が十二分に教育方針を研究して、十二分に教育設備を完璧にしようとして努力している結果、ほとんど口出しする余地のないまでに、一切は整頓しているのが現今の状態であるから、その点に就いては尚(なお)欠陥もあろうけれども、多く言わなくても可である。ただ教育の目標が簡単明瞭に提示されていない。教育を受ける者も明白にその目標を、意識していないように見えるのは遺憾である。そこで、今その点に就いて少しく語ろうと欲するのである。
私が教育及び教育を受ける者の、もしくは独学で学ぶ者の為に、その標的にすることを奨めるものは、僅かに四箇の義である。標的ただ四ツ、その題を称えれば一口で余りあり、しかもその義理、その意味、その情趣、その応用に於いては、滾々(こんこん)として尽きず、汪々(おうおう)として溢れんとするものがある。願わくは私は天下に為そうとする人と共に、これを口に唱(とな)え心に念じて、忘れないものとしたいのである。
四ツの標的とはどんなものであるか。一に言う正なり。二に言う大なり。三に言う精なり。四に言う深なり。この四ツはこれ学問を修め、身を立て、功を成し、徳に進もうとする者の、眼(まなこ)必ず之に注ぎ、心(こころ)必ず之を念じ、身必ず之に従わなければならないところのものである。之を標的として進めば時に小さな失敗があろうとも、終(つい)に必ず大いに伸達することは疑うべくもない。
正、大、精、深。このようなことは陳腐(ちんぷ・古臭い)である。今更点出して指示されなくても、我既に之を知るという人もあろう。いかにも陳腐である。新奇のことではない。しかし修学進徳の標的としてはこれほど適切なものはない。陳腐だとしてこれを斥(しりぞ)け、新奇だとしてこれを迎えるのは、才気走ったオッチョコチョイの行為である。日照月曜(日照や月の輝き)は、その永久性によって人はこれに頼り、山峙河流(山の聳え、河の流れ)は、その常時在ることによって人はこれに依り、三三が九、二五の十の数理は、その変わらないことによって、人はこれを争わないのである。いわゆる大道理は、その行われること変らず、その在ることを否定し難い、よって人はこれを信頼し人はこれに従うのである。即ちいよいよ久しくしていよいよ信ずべきものを見、いよいよ古くしていよいよ依るべきものを見るのである。彼(か)の毒菌が湿気で生じ、冷炎が朽木(くちき)に燃えるように、忽ち生じ忽ち滅すような安定しないものは、そのいよいよ新にしていよいよ取るに足りず、いよいよ奇にしていよいよ言うに価(あたい)しないのである。教育を受ける者、若(も)しくは自ら教える者等に対して、新奇の題目を捻出してその視聴を驚かすようなことは、或いは歓迎されるかも知れないが実際は無益なのである。正、大、精、深の四標的、取出して新規なしといえども、決してその陳腐だからとしてこれを斥(しりぞ)けるべきではない。況(いわん)やまた「日月(にちげつ)は古いといえども朝暮(ちょうぼ)に新しく、山河は老いたといえども春秋に鮮やか」で、三三が九、二五の十の数理は珍しくないといえども、算数の術が日々に新(あらた)に開けるのも、つまりはこの通りなのである。これを思えばこれら皆いよいよ古くしていよいよ新に、いよいよ易(い)にしていよいよ奇なのである。正、大、精、深の四ツの事これを味わえば味わって窮まりなく、これを取れば取って尽きない妙味がある。どうしてこれを新奇でないと言えようかである。
正とは中である。邪(よこしま)でなく誤魔化しのないことをいうのである。学問を為すに当たって、人に勝とうと欲する気持ちが強いのは悪いことではない。しかし人に勝とうと欲する気持ちが強い者はともすれば中正を失う傾向がある。人の知らないことを知り得、人の思わないことに思い至り、人の為さないことを為そうとする傾向が生じて、不知不識(しらずしらず)正道から外れ脇道に入るような状態になるものである。努めてこれを避けて自分から正しくしようとしない時は、後になって非常な損失を招く。偏(かたよ)った書物を読むのも正を失っているのである。奇説に随うのも正を失っているのである。ありきたりの普通の事は全てこれを面白くないとし、怪奇で珍しい事だけを面白いとするのも正を失っているのである。例えば飲食の事は、先ず良くその飯(めし)を不硬不軟に作ることに努めるべきである。燕窩鯊翅(えんこうしゃし・燕の巣や櫨の羽―中国料理)の珍味はその後にすべきである。であるのに、ひたすら珍味を探し求めて料理し、却って日常の食事を甚だ疎(おろそ)かにするのは正を失っているのである。学問を為すのもまたそうで、学問の道にも自然と大門があり正道があって、師はこれを教え世はこれを示し、先ずは平坦な大道路を歩かせ、その後に人々の志(こころざ)すところに至らそうとしているのである。それなのに好んで私見を立て小智に任せ脇道を望んで走る者はその意を悪くむべきでないが、その結果は決して良くはないのである。近来、人は皆勝つことを好んで心昂(たか)ぶり、好んでまやかしの説を聴き、昔から万人が行って過たず、万々人が行って過ちのない大道路を役立たないとし、石ころだらけの荊道(いばらみち)に力を奮い、前進し、突破しようとする傾向がある。その意気は愛すべきものの、その中正を失っているのは悦べない事である。学問が進んだ後にそういう道を取るのなら、或いはその人の考え次第で良いかも知れないが、それですら正を失ってはいけないとする心がその人に無くてはならないのである。まして書を読んで未(いま)だ万巻に達せず、知識未だ古今を照らすに及ばない程度の力量分際で、正を失わないようにとする心の甚だ乏しく、奇を追う念がいよいよ壮(さか)んで、たまたま片々たる新聞雑誌等の一時の矯激の言論等に動かされ、好んで脇道や横道に走ろうとするのは甚だ危ないことである。くれぐれも正を失わないようにして、自分を正しくする念を抱いて学問に従わなければならない。
大は人皆これを好む。多言は無用である。今の人ことに大を好む。いよいよ多言は無用である。だが世は時に自分を小にして可とする者がある。憐れにも善良謹直の青年の一派に特に自分を小にする者が多い。一二例を挙げようか、彼等の或る者は言う、私は才能なく学問にも暗い、ただ偶々(たまたま)俳諧を好み高桑闌更(俳人、江戸時代)にあこがれる。出来れば一生をかけて闌更を研究したいと。或る者は云う、私、詩文算数法医工技、皆これを能(よ)くしない、ただ心ひそかに庶物を蒐集することを悦ぶ。マッチの貼紙(ペーパー)を集めて既に一年、約三万五千枚を得た。やがて集積大成して天下に誇ろうと欲すと。このような類(たぐい)、学者のような、好事家(こうずか・趣味人)のような、奇人のような者が甚だ少なくない。これとは別に又一派の青年が有って、甚だ小さなことを思っている。或いは言う、私は大望なし、卒業して生活でき、幾らかの貯金が出来れば満足であると。或いは曰く、私は父祖のお陰で家と広い土地と公債が若干ある。今は学問に従っているが、学問が成っても用いるところはない、ただ我が好む書を読み、画を観、浪費もせず、収入も得ず、一生を中流生活で送ろうと思うと。このような類の卑陋のような、達識のような者もまた甚だ少なくない。これ等は皆強(し)いて咎(とが)めるべきではない。闌更を研究するのも可、マッチのペーパーを集めるのも可、身を低くして財を積むのも可、徒座して徒死するのも犯罪をするのに比べて不可はない。されども学問を修める時に当たってこのように我が学ぶところを限り、少しも自分を大にしようとする念のないのは甚だ不可である。少なくとも学問に従う以上は常に自分で自分を大きくしようと思わなければならない。妄(みだ)りに大望野心を懐くことを勧めるのではない。闌更の研究やマッチのペーパーの蒐集を廃(よ)せというのではない。ただこのようなことは、学問が成り年がやや長(た)けた後にこれを為すべきである。学問に従っている中(うち)は努めて限界を拡大し、心境を開拓し、知能を広くし、知識を多くし、自分で自分を大にすることを、欲しなければならない。
七才八才の時には、努力しても僅かしか挙げることの出来なかった重石(おもし)も、成長し身体が大きくなれば、簡単に之を挙げられるものである。七才八才の我が十五才二十才の我に及ばないことは明らかである。これ故(ゆえ)に青年修学時代の我が、後日の壮年になって学やや成れる頃の我に及ばないのもまた明白である。であれば、今の我を以って後(のち)の我を決定するよりは、今はただ当面の事に努め学んでそして習うのみで、何を苦しんで自分を小にし、自分を卑しくし、自分を限り、自分を狭くする必要があろう。修学の道は最も自分を小にすることを忌(い)む、自尊自大もまた忌むべきこと勿論であるが、大になることを欲し、自分を大にすることを努めるのは、最も大切なことである。人学べば即ち次第に大に、学ばなければ即ち永遠に小なのであるから、換言すれば学問は人を大にする根源だと云っても良いくらいである。決して自分で限界を作って、小にしてはならない。自分で自分を真に大にしようと、努めなければならない。
大には広の意味を含んでいる。今や世界の知識は、相交じり相流れ込み大きな渦巻きになっているのである。この時に当たって学問を修める者は、特に広大を期さなければならない。眼も大に、胆も大にして、見晴らしの良い山上の岩頭から、国の隅々までを見渡す気概(きがい)が無くてはならない。世界を見ること掌中(しょうちゅう)の物を見るが如くという位の意気でなくてはならない。一巻の虫食い本に眼を眩(くら)まされて、死ぬまで尚(なお)机を離れないようであってはならない。これまた当然に大の一字を念じて、そのような境地を脱しなければならないのである。
精の一語はこれと反対の粗の一語に照らして、明らかに理解すべきである。卑俗の語のゾンザイというのは精でないことを指して言うので、精は即ちゾンザイでないものをいうのである。物が緻密を欠き、琢磨を欠き、選択疎(おろそ)かで、構造の行き届かない類(たぐい)は即ち粗である。米の精白でなく、良美でなく、食っておいしくなく、糟(かす)や糠(ぬか)のいたずらに多い類(たぐい)は即ち粗である。これに反して物の実質が良く、緻密で琢磨も十分で選択も非で無く構造も行届いている類は即ち精である。米の糟糠が全て取り除かれ、良美で精白、玉のような、水晶のような、味わってその味の良いものは即ち精である。精の一字を以ってこれを評価する机があると仮定すると、その机は必ずこれを使う人を満足させるだけでなく、必ず永く保存され永く使用に堪えるものであるに違いない。何故かというと、その材の選択に十分の注意が払われていれば、乾湿に遇っても急に反ったり裂けたり歪んだり縮んだりするようなことも無いだろうし、構造に十分の注意が払われていれば、少しくらいの衝突衝撃を受けても忽ち脚が脱けたり前板(まえいた)や向板(むこういた)が外れて、バラバラに解体して仕舞うというような事もないだろうし、また実質が緻密であれば、粗末で脆弱でもないだろうから自然と傷つき損傷する事も少ないだろうし、琢磨が十分であれば、外観も人の愛好珍重を買うに足りるだけの事はあるだろうから、即ち永く使用されるに堪え永く保存されて人に常に満足を感じさせように自然となるだろう。米もまたそうで、もし精の一語を以って評価するような米ならば米として十分な価値を持つものだろう。これに反して粗の一語を以って評価するような机であれば、その机はこれを使う人に不満足を感じさせ不快を覚えさせるだけでなく、幾らも経たずに使用に堪えずに破損して廃物となるだろう。何故かと云えば材料実質が悪くて構造も親切でなく琢磨も行届かないものならば、誰しもこれの取扱いに愛惜の情も薄らぐだろうし、物それ自体も少しの衝突衝撃にも直ちに破損するだろうから、そういう運命を生じるのも必然の勢いである。米もまたそうで、その粗なものは却って他の賤しい穀物の精なるものにも劣るくらいである。何によらず精粗の差は実に大である。学問の道にも精粗の二ツがある。勿論その精を尊ぶのである。その大ザツパでゾンザイであるのを斥(しりぞ)けなければならないのである。しかし机や米に対しては、誰しも精の一語を下(くだ)してその製作を評価仕たりその物を評価するのを可とするが、学問に於いては時に異議あることを免れない。と云うのは昔の大人(たいじん)や偉才が、時に精と云うことに反するような学問の仕方をしたかのように見えることが有るからで、後(のち)の怠け者等がともすればこれに託けて豪傑ぶったことを敢えて放言して憚らないところから、自然と精を尊ばない一派が生じているからである。しかしながらその主張は誤解から来ているものが多い。
学問の精を尊ばない徒がともすれば口にすることは、句読訓詁(くとうくんこ・読み方や字句の解釈)の学など乃公(おれ)は敢えてしないというのが一ツである。なるほど句読訓詁の学は、学問の最大必要なことでは無いに違いないけれども、昔の人が句読訓詁の学問を欲しなかった点についてはその志(こころざし)の高く大なるところを見習うべきであって、その語があるから句読訓詁などはどうでもよいと思うのは間違いである。句読訓詁の学を為してただ句読訓詁を理解することで満足とし、句読訓詁の師であることに甘んじるような学問の仕方をしたならそれは非であろう。しかし句読訓詁を全然顧みないで、何を以って書を読んでこれを理解し悟り得ようかである。句読訓詁に没頭して仕舞うのは勿論非である。句読訓詁などと豪語してゾンザイな学風を身に浸みさせて仕舞うのも決して宜しくはない。字以って文を載せ、文以って意を伝える以上は、全く句読訓詁に通じないで、そもそもまた何を学び得ようかである。文辞に通じないことは弊害を受ける元である。徂徠先生(荻生徂徠・儒学者、江戸時代)のような豪傑の資質を以って、尚かつ文辞についてクドクド言うのも、実に已むを得ないものがあるからである。
仮に句読訓詁を大事としないことが可であるとしても、書を読んで句読訓詁を顧みない習慣を身につけてしまっては、何事をするにも粗雑で脱漏が多く、間違いを甚だ多くするのを免れないのである。事を為すに当たって間違いの多いのを憎まない人は世に存在しないといえども、習慣がついてしまえばこれを脱するのは甚だ難しいのである。句読訓詁を大事にしないことは或いは可としても、事をするのに精緻を欠いて、しかもこれを意としない習慣を身に付けることは、百害あって一利無しである。まして学問が日々に精緻を加えるのは今日の大勢である。偽(にせ)豪傑達の習慣を決して身に付けないようにと心掛けなければならない。句読訓詁を大事にしろというのではないが、学問をするには精を尊ばなければならないと云うのである。
学問の精密であることを尊ばない徒のともすれば拠りどころとするのに、諸葛孔明(中国、三国時代の蜀漢の宰相)が「読書ただその大略を領する」ということも又その一ツである。陶淵明(中国、詩人)が「読書甚だ解することを求めず」と言ったと云うのも、又その一ツである。淵明は名家の後裔で、そして、どうにもならない世に生れた人である。一生を詩酒に終って仕舞ったのである。情意甚だ高いといえどもその境地そのままでは、普通の人の基準と仕難いものがある。まして不求甚解とは空疎疎漏で可と言ったのではない。甚解ということが良くないのである。それで甚解を求めないのである。学問読書は細心精緻を欠いて可であるとしたのではない。孔明の大略を領すというのも、領すというところに妙味があるのである。どうして孔明のような人が表面だけの学問をするものではない。孔明という人は身体が次第に衰え食が大いに減じた時に当たっても、尚(なお)自分で事務を執(と)ったくらいの人で、盲判を捺すような宰相ではなかった。事をするのに精密周到で労苦を辞さなかった英俊の士である。その孔明が書を読み学問を修めるに当たって、ゾンザイな事なぞを敢えてしたと思っては大きな誤りである。普通の人の読書は多くは枝葉些末の事を記得して却ってその大処を忘れるのである。孔明に至ってはその大略を領得したのである。淵明や孔明の伝記にこのような事があるのを引き来たって、学問をするのに精でなくても可であるかのように言う者は、即ちその人既に読書不精の過ちに落ち込んでいるのである。精は修学の一大標的としなければならない。
ことに近時は人の心はなはだ忙(せわ)しく、学問を修めるにも事を為すにも、人はただその速(すみ)やかなことに努めてその精であることを心掛けない傾向がある。これもまたその時の世の中がそうさせるところであって、直ちに個人を責めることは出来ないのである。しかし不精ということは、事の如何(いかん)にかかわらず甚だ好ましくないことである。矢をつくるのに精でなければ何(なん)で能(よ)く中(あた)ることを得よう。源為朝(平安末期の武将、剛弓の使い手)や養由基(中国、春秋時代の楚の武将。弓の名人)に射させても、真直ぐでなく羽(はね)が整っていなければ、馬を射っても中(あた)らないのは明らかである。学問が精でない時は人を誤るのみである。
「一事が万事」という諺(ことわざ)が教えるように、学問を修める者が仮にも学問の精であることを努めないようならば、その人の観察するところ施すところの万事が精にならないので、世に立ち事に処するに当たっても、自分で過ちを招き失敗することがさぞ多いことだろう。これに反して、学問の精に努めれば万事に心を用い、また自分も精を得て、不知(しらず)不識(しらず)の間に多くの智を得、多くの事を理解して、世に立ち事に処するに当たっても、自然と過ちを招き失敗することはさぞかし少なくなるであろう。ファラデーが電気法則を発見するのも、ニュートンが引力を発見するのも、世の無理解者はこれを偶然と理解しているが、実は精の効力がこれをそうさせたのである。学問に精に、思(おもい)に精に、何事もゾンザイにしない、等閑(なおざり)にしない習慣がその人にあったればこそ、このような有益な大発見を成し出したのである。ニュートンは現に自分で「不断の精思(せいし)の余(あまり)にこれを得た」と言っているではないか。およそ世界の文明史上の光輝は皆精(せい)の一字の変形でないもの無し、と云ってもよいくらいである。
深は大とはその趣きが異なっているが、これもまた修学の標的としなければならないものである。ただ大を努めて深を努めなければ浅薄になる嫌いがある。ただ精に努めて深を努めなければ拘(こだわ)り滞(とどこお)る懼れがある。ただ正を努めて深を努めなければ迂闊にも、新奇で奥深いところに至ることはできない。井を掘るのに能(よ)く深ければ水を得ないことはなく、学問を為すに能く深ければ効果を得ないことはない。学問を為すに偏狭固陋(偏狭で新を好まない)なのも病気であるが、学問を為すに博大で浅薄なのもまた病気である。ただ憾(うら)むべきはその大を努める人は、多くはその深を得るに至らないことである。
しかし人力は元より限り有るものであり、学海は広々と広がって果てし無く広いものであるから、全ての学科がことごとく能(よ)く深に達するという訳には行かないのは無論である。故(ゆえ)に深を目標とする場合は自然に限られた場合で無ければならない。一切の学科に於いて、皆その学問の深いことを欲すれば、超能力を持たない以上は、その人の心身は疲れ精力は尽きて、苦しみ死ぬのを免れないのが普通である。深はこの故(ゆえ)にその専攻部門にのみこれを求めるべきである。濫(みだ)りに深を求めれば狂気を発し病を得るに至るのである。
ただ人々の天分に厚薄があり、資質に強弱はあるけれども、既にその心を寄せ、念を繋ぐところを定(き)めた以上は、その深に努めなければ井を掘って水を得るに至らず、いたずらに空穴を造るだけになる。甚だ好ましくないと云わなければならない。どこまでも深く、深く、努め学ばなければならないのである。天分薄く資質弱く力能(よ)く巨井(きょせい)を掘るに堪えない者は、初めから巨井を掘ろうとしないで小井(しょうせい)を掘ることを思うように、即ち初めから部門広大な学問を為さないで、一小分科を修めるが良い。天分薄く資質弱いといえども一小科を修め、深を努めて已まなければ能くその深を為し得て、そして終には効果のあるべき理屈である。例えば純粋哲学を学ぶには甚大な能力を要するが、或る学者を選んでその哲学を攻究するとすれば、研究は自然とその深を為し易い理屈である。美術史を修めるのを一生の仕事とすれば、その深を為すことは甚だ容易ではないが、一探幽、一雪舟、一北斎を研究することは、資質弱く天分薄い者もまた、或いは良く他人の急には考え及ばないような、深い研究を為し得る理屈である。このゆえに深の一目標に対しては、人々個々で予(あらかじ)め考えておかなければならない。要するに修学の道、そのやや普通学を修了しようとするに際しては深の一目標を看取って、そして予め自分で選択しなければならない。そして学問世界、事業世界の何れに従うにしても、深の一字を眼中に置かなければならないことは、少なくとも或る事に従う者の、皆忘れてはならないところである。
以上述べたところは何の奇も無いことであるが、眼に正、大、精、深、この四標的を見て学問に従えばその人さぞかし大過の無いことだろう、私の確信するところである。(努力論⑦につづく)