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幸田露伴の随筆「敬」

 本を読んで滋味なく、事に応じて齟齬(そご)の多いことは、学者の遺憾とするところで、また凡人の逃れられないところである。であれば、どのようにすれば本を読めば滋味を得、事に応じて充当が得られるかと云えば、それただ敬あるのみである。
 程子(中国、北宋の儒学者)は敬の字義を解釈して、「主一(しゅいつ・精神を一つに集中する)これを敬と云い、無適(むてき・他にそれない)これを一という」と云う。 朱子(中国、南宋の儒学者)はこれを合わせて、「主一無適(精神を一つに集中して心が他にそれない)これを敬と云う」と云う。すなわち共に、アレコレと思い悩むことのない心頭が純粋で清浄な状態であると云うのである。もし人が真に心身を用いるのに、頭から足の先に至るまで敬の一字で統一して、その気質の異常・人欲邪などをすべて敬の一字の中に滅却することが出来れば、聖賢の境地にもかなり近づけるのである。自己を修めて敬することは、孔子の云う君子の行うところで、宮廷では安らかに在られ、朝廟では敬(つつし)んで政務をとられた。文王が大人(たいじん)と称せられる理由である。
 朱子は云う、「モシこの敬の工夫をすることも無く、書物を読んで道理を得ようとするのは、まるで建物を建てるのに基礎を求めないようなもので、これでは屋根や柱を安置することはできないだろう。」今少し云う、「この敬を求める心は道理に適うか否か、聖賢の心に適うか否か、今この敬の心を求めるのは正にこの基礎を立てる為であり、この心の光明を得て精神を統一し、その後に学問をすれば結果が得られて謝ることは無い。もし心が混乱し雑然とするならば自然と頭は働かずに、正に却って汝の頭から学問は去ってしまうだろう。何処に功績の収めるところがあろうか」と、これ敬の必要を説いて極め尽していると云うことができる。
 陳北渓(朱子の高弟)は云う、「礼記に云う、空の器を取る時は充ちた器を取るようにし、空室に入る時は人の居るようにする」と、「このような心で敬の工夫を体得すれば、意(こころ)も象(かたち)も最も適切になる、もしも人に満ちた水の器を捧げるような敬の心が無いと、僅かに一歩を踏み出すだけで傾きこぼしてしまう、器を執って忘れずに敬の心が常にこの上に在れば、何処に行くにも傾きこぼすことは無いだろう、空室に入るにも人が在室するような心ですることは、一般社会に於いて、常に敬の心を厳粛に持って賓客(大切な客)に対応するようなことで、即ちこれが主一無適の意(こころ)である」と、これ敬の象(かたち)を説いて尽くしていると云える。
 張南軒(中国、南宋の儒学者)が潘叔昌(同様?)に答えて云う、「いわゆる思慮する時に生じる、思いが入り乱れて纏まらない懼(おそ)れを解決するには主一以外に無い。古書の中にこれを論じること甚だ多い。当然このことを反復玩味して、目下の事を理解しようとするに当たっては、敬の工夫をするべきである。例えば井戸水を汲むと汲むにつれて次第に澄んで来るようなものである。いわゆる未だ事に対する以前に先ずこの事が在って、対応の後にも未だこの事が在るのは、正に主一の工夫が足りないからである。当然この事を思う時はただこの事を思い、この事を為す時はただこの事を為すべきで、別の思いが交互に出て来ることの無いようにすれば、混乱することもない。理解の時は同じ様に思えても、為してみると極めて難しいものである」と、これ敬の工夫を説いて極めて実際であると云える。
 黄勉斎(朱子の高弟)は云う、「敬は霊妙な智覚を束ね留めた火炬(たいまつ)のようで、緊しく束ねると直ちに焔を上げる、束ねること無ければ散滅して終わる」と。これ敬の光景を説いて少し不足ではあるが、人の心胸の内にこのような状態はあり、外物に対する時にもこのような状態があると云える。
 嗚呼、先人がどうして我を欺(あざむ)こうか、皆これ諸先輩が実践躬行された言葉である。そして、私にもまたそのような経験がある。それゆえに云う、「本を読んで滋味あり、事に応じて充当を得る道は、ただ敬あるのみ」と。
(明治二十六年一月)

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