幸田露伴の随筆「如何に読むべきか」
如何に読むべきか
「作家になるには先ずどんな本を読むと良いでしょうか。」これは私どもの再三出会う質問である。しかし寧ろ、何を読むべきかよりもどのよう読むべきかが問題ではないか、それはともかく、本というものは読んでもそれを反吐(へど)にして吐いてしまうか、もしくは我が血にするか、そこが読書問題の眼目であろう。反吐に吐いてしまうならば、どんな良書の何処を読んでも仕方がない。蚕(かいこ)のように桑を食って価値ある絹糸を吐く。絹さえ吐けば良いのだ、人にオカラや菜っ葉は良くないとは言えない。そんなものを食っても鬼のように強壮な農夫もいる。朝に夕に美味三昧しながら蒼い顔をしている良家の子供もいる。だから一概に食物の評価だけで健康は定(き)まらない。
何を読んだら良いだろうかという問題は、丁度何を食ったら健康になれるかという問題と同じである。これは医者がしばしば出会う質問であろう。そして答えにくい質問であろう。ところが試験前にでもなると、ともすれば急に栄養を摂ろうなどと考え出して、何を食ったらいいだろうか?卵か、牛乳か、というような事を言い出す者がいる。また或る医者になると、「卵が宜しい」「牛乳が宜しい」などと教えてやる。私はそれは間違いだろうと思う。身体の状態はその人の消化力、腸の吸収力など、寧ろその人の生活本能の働きの強弱にあるので、これが衰微していれば幾ら卵を注ぎ込んでも底抜け同然であるが、それ等機関の活動が旺盛だと、たとえ粗食であっても健康で元気で、鮮やかな花のような顔をしている青年もいる。空気・水・日光、種々な力にその物の特性は養われて、いろいろな花も咲き出すのである。同じ肥料をやりさえすれば皆同じ色に咲くという訳にゆくものではない。なので、何を読めばどうなるということは、ちょいと疑わしい。それにまた、同じものは二ツも必要としない。世の中に同一の詩人を二人も必要としない。だから杜甫の詩がいいからと言って、杜甫の詩を読んで杜甫の反吐を吐くのであれば全く無駄な読書だ。
いろいろな人に読書問題の質問を受ける。答えはどうしてもその人次第です、ということになる。余り読書をしない者がいる、絶対にもう本は読まないという人もいる、それも結構だが・・・とにかく余り本を読まない者には、「大いに読書しなくちゃいけない」と注意する訳になるし、また、本ばかりに凝り固まっている者には、「そう古いことや他所の事ばかり言っても仕方ない、モッと実世間を知らなくては、第一今、目の前にある物を何一ツよく知らないのでは、充分な観察は出来ないだろう。火鉢・茶器・置き床・幅、何一ツ話にならないだろう」、といったような文句をならべる事になる。仮にどこか立派な邸に招かれて行ったとする。帰って来て何と話す。「立派だった!」ただそれだけでは少しも分かりはしない。聴く方が物を識っている人で、庭は・座敷は・道具は・石は・樹はと聴かれて、一々「分かりません」では話にならない。「どうも立派なだけじゃわからない」「ダッテ立派より外言いようがない」「しかしそんな抽象的な言葉だけじゃどんなに立派なんだか分りゃしない」「ダッテそういう感じより無いから仕方ない」こうなってはそれっきりで夢を見たのと何の変りもないのだ。「ナントそれじゃ困るじゃないか。チット実際の世間を見てもらいたいね」、という訳になる。そうかと言って世事の上っ面を雑駁に知っているだけで、読書も瞑想も何もないのも困る。つまり読むのも読まないのもその人次第、何を読むかもその人次第。
シェークスピアは何を読んだか、近松は何を読んだか、西鶴・芭蕉は何を読んだか、読んだものが分らない人もある。分かっている人もある。多読している人もある。そうでない人もある。けれどオカラを食ったから徂徠が出来たという訳でもない。多く読んだから偉くなったのでもない。世には百巻を読んで、然るに一巻も読み得ない人もある。一巻を読んで一巻を得る人がある。百巻を読んで然るに一巻も読み得ない者よりも、真に一巻を読む人の方が遥かに優れている事は言うまでもない。百巻を読んで百巻を読み得た者は恐らくあるまい、それが出来れば非常に善いのだが・・・なので、或いは百巻を読んで一巻を得、或いは五巻を得、十巻を得、或いは二十巻を得、三十巻を得る。得るところが多いほど善いことは勿論であるが、またその一巻の悉(ことごと)くが役に立つ訳でもない。要するにいわゆる会得のところ!それを読書を繰り返し繰り返しする中で得るのである。会得するところが無ければ何の利益も無いのである。
そこで、百巻を読んでも、その読まれたものが直ちに力になるのではなく、その読む心の状態・・・主観の状態が肝要である。即ち会得のカギは物にはなく我に有るのである。なるほど常陸山にぶつかって懸命に稽古を積めば、だんだん強くなるに違いない。しかし、常陸山が力を授けるという訳ではないのだ、やはり我自身の力を発達させるのである。この眼目さえ捉まえてかかれば、本を読んでも善し、本を読まなくても善し、何を読んでも善しであろうと思う。
ただし、初心の者はなるべく趣味を高くするような本を選ぶ、という注意だけは必要であろう。個々の人々の問題は別であるが、一般に俗悪なものの感化を避けることはその趣味を高くする上から必要な注意である。例えば徳川文学にしてもその末期のものを読むなどは利益が少ないだろう。俳句にしてもそうである。天明とか元禄とか、そういう善い時代のものを読むのはいいが、末期のものは寧ろ避けた方が善いらしい。この類(たぐい)の注意は初心の人に必要であるが、サテ進んで百巻を読み、その中に会得の境地を拓く事は、結局のところその人自身が発見するのである。(談)
(明治四十一年六月)