幸田露伴の随筆「如何にして書は読むべきか」
如何にして書は読むべきか
読書はどのようにしたら良いかという問いの中には、どのような本を選らんだら良いかというのと、どのように本を読めば良いかというのと、大体この二ツの意味合いがある。この中の、どのような本を選らんだら良いかという方は非常に難問であって、別段これというものは無い。やはり多くの人の読んだ本、多くの人の読む本、即ち一般の人が歩く大通りの道路のような本を読めば、大きな間違いはないだろう。そこで、ここでは既に選択が終わって、或る本を読む場合の態度を述べようと思う。
これにも凡そ二通りの態度があって、第一の読み方は全部をざっと通読して、次に再び細部にわたって精読する方法、第二の読み方は最初から精読の態度をとって、章を追い節を拾って綿密丁寧に、一字一句漏れなく解釈して行く読み方である。しかしこの両極の読み方には各々一利一害があって、どちらが万人に良いと決めることは出来ない。この最初から一字一句余さず漏らさず、念には念を入れ疑いには疑いを重ねて、少しの疑点も留めないように読んで行くという遣り方は、大変骨の折れるものであって、最初の第一章は特に困難を感じる。第二章に入ればその困難がやや薄らぐのを覚え、第三章・第四章と読み進む章数が次第に進むにつれて、困難の程度は減じてくる。これを例えて云えば竹を破(わ)るのに、そのもとの一節二節を切り破ってしまえば、他はその余力で少しも困難を感じないのと同様である。ただ、最初の節を割る苦労を通過することでその後の破竹の勢いが得られる訳で、最初の節が自分の力を越えた難しい本であろうものなら、最初の一章を終えないうちに歯が萎え精神が眩(くら)み、本を抛(なげう)って呆然とする事になるだろう。
彼(か)の鳩や鷲などの鳥が己(おのれ)の欲する方向へ飛ぼうとする前には、必ず中空高く舞い上って下を見下ろし地上の光景を物色し、そうした上でおもむろに方向を定めるのが常である。それと同様に本に対するにも、最初から部分を攻め少しづつ齧(かじ)ってゆく前に、ひとまず全体を丸呑みに飲み込んでしまう遣り方がある。例えば甲という一冊の本を読む場合、これを通読しても初めて読むのであれば無論多く理解できないから、茫漠として何が書いてあるのやら少しも判らないけれども、どこか遠くの方に朦朧とした或る物が幽かに仄めいて、何物かが有るように感じる。この認めたものの正体は誠に取り止めのない漠然としたもので、この際の理解というものは、もとより信頼できるもので無いことは明らかである。しかし、彼の鳥が高揚して雲煙漠々とした地平線の彼方に、漠然と前途の道程を認めるように、この最初に全体を掴むという遣り方は、凡その見当を冥々の内に見定めることが出来るものである。混沌の中に何かが有るような感じを得られるのである。このようにした後で精読をすれば、おぼろげながらも見当がついているので、初めから直ちに精読してゆくやり方に較べるとその困難度は幾らか軽いのである。そうであれば、この両者の優劣はどうかと云うと、先生に就いて学ぶ者は第二の読み方で無くても良いが、独学者が初めての本を最初から精読してゆくには中々困難であろう。先生は既に内容が解っているから学生の無駄な労を省いてくれるのだが、独学の人が筋も判らずに最初から精しく読みだしても、雲を掴むような感じがするに違いない。ことに古書は難解である。第一章を精読すると直ぐに疲れて先を続ける勇気がなくなるものだ。世間に桐壺源氏・隠公左伝という諺がある。これは最初から精読して一章で退屈して辟易した先生方が、甚だ少なく無いことを証明しているのである。
しかし、何れにしても結局は精読ということになるので、要するに精読に尽きるのである。細心熟読、ことに難解の本においては他の遣り方はない。ただ熟読し細読してゆくばかりである。すべて本の事だけに限らず何事においても、表現でき難いもの・思い・・その心持はただ黙々の裡(うち)に交感し会得されるということが有るもので、今先生が教えようとして言葉を知らず、口を虚しくしてもどかしがるという事もよくある事であろう。今日の人の感情や事物に古い言葉では表現できないものが有るように、古語が表わす意味を今日の言葉では言い尽くせないこともあるし、また全く解釈できないことも多い。外国語に至っては到底言い表せない語や言い表し方がある。これが即ち味わいというものである。味なので、丸呑みにして解るものではない。よくよく嘗めて見て、舌鼓を打って嘗めて見て、歯に懸かる所はよくよく咬み砕いて、舌の上で味わって見なくては、その真の味はとても判るものではない。これを一口で言えば、結局は精読に尽きる訳で、更に細かく言えば細読や熟読で、細かに読み砕き、精しく読み尽くし、熟慮し、常に本の中に呼吸する状態が習慣になれば、その昔には歯の立たなかった章も自然に咬み砕かれて、味わえなかった汁も喰い絞れて、真にその本の趣旨は得られるのである。「読書百遍義自ずと通じる」と云った古い格言もつまりはこの辺の消息を洩らしたものであろう。
前に言ったように、本の選択は大変困難な事で別段良い方法も無いと言ったが、だからと云って等閑(なおざり)にできる問題でもない。選択の適否によってどんな結果となるか、鼠小僧の伝記を読んで泥棒となったのは極端な例だが、人間が境遇や自然環境によって造り出されるように、読書によっても造られるものであるから、この選択も余程注意してするべきであると思われる。それぞれ行く道が異なれば選ぶ本も違う道理であるが、何れの道を歩んでも無暗に近道・抜け道を求めようとしたり、人の知らない妙な道を知って見たがったりすると、妙な所へ迷い込むものである。俗に壁書(へきしょ)読みと称す一種の人が世間にいるが、あれらは読書の外道である。変な本を掘り出して鼻高々と読むのはいいが、このために不自然な思想・偏狭な見地に感染して奇矯な品性の人物に成りかねない。こうなってはその害は測り知れない。このような危険を避けて迷うことの無いようにするには、万人が通って支障のない大道を歩むことである。その道の先覚者の指し示す方へ進路を取り直さなくてはならない。
何事もそうであるが、本も興味がなければ読み耽るものではない。本を読む第一着歩は興味を呼ぶのである。興味が得られれば本に耽り、本の中に耽溺して真にその味を見出すのである。
これを読むには、黙読・音読ともにその適するところに従えば良い、概して理知の本は黙読がよく、情緒の本は音読が面白いだろう。
(明治三十九年九月)