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幸田露伴の「努力論⑤ 植福の説(幸福三説第三)」

植福の説(幸福三説第三)

 人は皆、有福の羨(うらや)むべきことを知って更に大いに羨むべきものが有るのを知らない。人は皆、惜福の敢えてすべきことを知って更に大いに敢えてすべきものが有るのを知らない。人は皆、分福の学ぶべきことを知って更に大いに学ぶべきものが有るのを知らない。有福は羨むべきものである、しかも福を有するというのは放たれた矢が天に向って上がる間の状態のようなものであって、力尽きる時は下り落ちるのを免れないと同じく、福をもたらした根本の力が尽きる時は直ちに福を失うのである。惜福は敢えてすべきである、しかも福を惜しむというのは炉中の炭火を妄りに露出させないようなものであって、たとえこれを惜しむことに徹底しても、新(あらた)に炭を加えることが無ければ、その火勢火力は増殖することがない。分福の学ぶべきは勿論である。しかも福を分かつというのは、紅熟したおいしい果物を人と共に食うようなもので、食い了(お)われば即ち空しいのである。人が悦び我が悦べばその時に於いて一応は決済が行われて仕舞ったような訳なのであって、要は人の悦びを得たことが我だけの悦びに比べて優っているに止まるのである。有福、惜福、分福、何れも皆良い事であるが、それ等に優って卓越している良い事は植福という事である。植福とは何であるかというと、我が力や情や知を以って人の世に吉慶幸福となるような物質や清趣や知識を与える事をいうのである。即ち人の世の慶福を増進長育させる行為を植福というのである。このような行為が尊ぶべきであることは、常識ある者は自然に理解していることであるが、解り切った事と批判を受けることを忘れて試みに之を説いて見よう。
 私は単に植福と云ったが、植福の一ツの行為は自然に二重の意義を持ち、二重の結果を生じる。何を二重の意義、二重の結果というかと云うと、植福の一ツの行為は自己の福を植えることであると同時に、社会の福を植えることに当たる。これを二重の意義を持つという。後日自分にその福を収穫させると同時に、社会にも同じくこれを收穫させる事になるから、之を二重の結果を生じると云うのである。
 今ここに最も些細で最も手近な一例を示せば、人の庭先に一ツの大きなリンゴの樹が有るとする、そのリンゴの樹に年々に花が咲き年々に実って、甘美清快な味を提供することは、確かにその人に幸福を感じさせるに違いない。で、それはその人が幸福を有するのであって即ち有福である。そのリンゴの果実を妄(みだ)りに多産にしないで、樹の堅実と健全繁栄とを保たせるのは即ち惜福である。豊大甘美な果実が出来たところで、自分だけがこれを独り占めにしないで、近親朋友に分かつのは分福である。有福には善も悪も無く、可も否も無いが、惜福分福は皆大いに貴ぶべきことである。これ等の事は既に説いたところであるが、さて植福というのはどういうことかと云うと、新(あらた)にリンゴの種子を播いてこれを成木にしようとするのが植福である。同じ苗木を植付けて成木にしようするのも植福である。また悪木に良樹の穂を接いで、美果を実らせようとするのも植福である。虫の害に遇って枯れようとする樹が有るとすると、これを薬療して蘇生復活させるのもまた植福である。およそ天地の生々化育の作用を助け、または人畜の福利が増進するのに役立つ事をするのが即ち植福である。
 一株のリンゴの樹と軽んじてはいけない。一株の樹もまた数果数十果ないし数百果の実を結ぶのであって、その一果からはまた数株ないし数十株の樹が生じ、果と樹は交互に循環して、限りなく果てしない発生と産出とを為すのである。それなので、一株の樹を植えるその事は甚だ微少些細なことであるけれども、その事の中に含まれている将来は甚だ永遠無限なもので、その久遠宏大の結果は実に人の信念の機微に繋がっているものであって、一心一念の善良な働きがどれほどの福を将来に生じさせるか知れないのである。一株の果樹は霜害や雪害に堪えさえすれば、必ず或る時間に於いて無より有を生じ、地の水と天の光とを結んで甘美芳香の果実を生じ出す。既に果実が生じれば、必ず之を味わう人に幸福を感じさせるのであって、主人が自ら之を味わうにしろ、主人の近親朋友が之を味わうにしろ、又は主人に売却されて或る他の人が之を味わうにしろ、誰かが造物主が人間に贈るところの福恵を享受して、満ち足りた喜びの情を湛えるに違いない。そうであれば一株の樹を培養成長させることは、些事には違いないが、自己に取っても他人に取っても幸福利益の始まりとなることである、それなので福を植えると云って誤りはないのである。
 およそ、このように幸福利益の始まりとなることを為すのを植福というのであるが、この植福の精神や作業によって世界はどれほど進歩するか知れず、又どれほど幸福となるかも知れないのである。もし、人類に植福の精神や行為が無ければ、人類がたとえ勇猛であったとしても、数千年の昔から今なお獅子や熊のような野獣の仲間で居なければならないだろう。たとえ知恵が有るにしても今なお猿や狒々の類(たぐい)と林を分けて棲(す)まなければならないだろう。たとえ社会組織をする性質が有るにしても今なお蜂や蟻と同様な生活をしなければならないだろう。幸いに我々は数千年の昔の祖先から、植福の精神に富み植福の行為に努めた為、一時代は一時代より幸福が増進し、祖先以来の勇気によって建設された人類の権利は他動物に卓絶し、祖先以来の智識を堆積し得て生じた人類の便利は他動物の到底及ばないものとなり、祖先以来の社会組織の経験を重ね来たことによって他動物には到底見られない複雑で巧妙な社会組織を持つようになったのである。農業は植福の精神や行為を体現したかの観のあるものであるが、実にその種を播き苗を植える労苦は、福神が農民の姿を借りて世に現れて、その福の道を伝えようとしてする労苦と云っても良い程のものである。工業も商業もまたそのとおりで、少なくとも真に自分の将来の幸福や他人の幸福の根源となるものである以上は、これに従事する人は皆福を植える人である。
 世に福を持つことを願う人は甚だ多い。しかし福を持つ人は少ない。福を得て福を惜しむことを知る人は少ない。福を惜しむことを知っても福を分かつことを知る人は少ない。福を分かつことを知っても福を植えることを知る人は少ない。考えてみれば稲を得ようとするならば稲を植えるしかない。ブドウを得ようとすればブドウを植えるしかない。この道理から考えれば福を得るには福を植えるしかない。であるのに、多くの人は福を植えることを迂闊(うかつ)の事として顧みない傾向にあるのは甚だ遺憾な事である。
 樹を植えることを例としたから再びその例で言うと、既に一度樹を植えた以上、必ずその樹はその人や他の人や国家に対して与えるところが無くて止むものではないから、このくらい植福の事例として明らかな良い説明となるものはない。即ち植えられた福は時々刻々に生長し、分々寸々に伸展して少しも止むことなく、天運星移と共に進み進んで何時となく増大し、何時となく結果を挙げるものである。杉や松の大木は天に聳えるものもある。しかしその種子は二つの指で摘まんで余るものである。植福の結果は非常に大なるものである。しかしその植えられた福は甚だ微小些細なものでも不思議はないのである。
 喉の渇いた人に一杯の水を与えるぐらいの事は、どんな微力の人でもすることの出来ることである。飢えた人に食事を振舞うぐらいの事は、貧者もまた之を良くすることが出来る事である。しかし世にはこのような微小些細な事にソモソモ何の価値が有るかと思って、之をしない人がある。しかしそれは明らかに誤りであって、一掴(ひとつか)みに余りある微少の種子から摩天の大樹が生じることを理解したならば、その些細なこともまた必ずしも些細なことで終るとは限らないことを理解することだろう。自分が幸福を得ようと思って他人に福恵を与えるのは、善美を尽したものではないけれども、福は植えなくてはならないと覚悟して植福の事に従うのは、福を植えないことに勝ること万々である。一杯の水や一碗の飯は、渇者や飢者に取ってどんなにか幸福を感じさせることであろう。
 このようなことは福を植えるに於いて最も末端の事ではあるが、しかもまた決して小事ではない。人の飢渇を気の毒に思い、人の飢渇を救うのは、即ち人が野獣とは異なる根本のものを発揮したもので、このような人類の情愛が積り重なって、人類社会は今日のように成立っているのである。他者の困憊衰弱を襲って之を餌食(えじき)にするのは野獣の行為であって、このような心を持つ野獣は今なお野獣の生活を続けているのである。それなので人の飢渇に同情する仕ないは些細なようだが、野獣の社会とは異なる人類の今日の社会が出現する仕ないに、関係していると言ってもよい程の大きな隔たりを生じる微妙で大切なところが、ここに存ると思わない訳にはいかない。
 今日の我々は古代に比べ、もしくは原始人に比べて大きな幸福を有している。これは皆前人(ぜんじん)の植福の結果である。即ち良いリンゴの樹を持つ者は、良いリンゴの樹を植えた人の恵みを受けているのである。既に前人の植福のお陰である。我々もまた植福の事を為して子孫に贈らなければならない。真の文明ということは全て或る人々が福を植えた結果なのである。災禍ということは全て或る人々が福を焼尽した結果なのである。我々は自分の将来の福利について判断して植福の工夫をするのでなく、我々が野獣たるを甘んじない、即ち野獣ではない立場から福を植えたい。徳を積むのは人類の今日の幸福の因(もと)になっている。真智識を積むのもまた人類の今日の幸福の因(もと)になっている。徳を積み、智を積むことは即ち大きな植福を得る因(もと)であって、樹を植えて福恵を来者に贈るのとは比べものにならない。植福なる哉(かな)、植福なる哉、植福の工夫を能(よ)くすることで始めて人は価値があると云える。
 有福は祖先のお陰に依るので尊ぶべきところはない。惜福の工夫があって人やや尊ぶべし、である。分福の工夫を能(よ)くするに至って人いよいよ尊ぶべし、である。能く福を植えるに至って人は真に敬愛すべき人たりと云えるのである。福を有する人は或いは福を失うことも有ろう。福を惜しむ人は思うに福を保つことが出来よう。能く福を分かつ人は思うに福を為すことが出来よう。福を植える人に至っては即ち福を造るのである。植福なる哉(かな)。植福なる哉。(努力論⑥につづく)


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