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『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』塩田明彦(‎イースト・プレス)~映像を作る人にはぜひ読んで欲しい本~

映画や映像を作る人、特にフィクションを演出する若い人にはぜひ読んで欲しい「演出術」に関する本だ。そしてこの本は、映画を観るにあたってもとても勉強になる本だと思う。

役者を演出するにあたり「動線」という考え方がある。役者をどう動かすかということだ。カメラ割りをすることや台詞を言わせるだけが演出ではない。その台詞をどのようなシチュエーションでどのように動かしながら芝居をつけるか、ということだ。もちろんロケ場所を決めること、セットの配置を決めるときから、その「動線」の演出は考えなければいけない。どこを通って、どこに行くか?そしてどういう動きのなかで台詞を言うか。そしてその動き、場所にはたびたび、大きな意味を持つ。下手な芝居になると、動かずに台詞を言うだけに必死になる。そこには台詞を言わされている身体しかない。身体が運動をし始めるとき、ドラマは生まれる。台詞の力や物語の力で、人は感動するのではない。物語とシンクロしつつ、役者も含めて<運動>が生まれるとき、ドラマが起きるのだ。

たとえば「男女が一線を超える」という動線について、塩田明彦は溝口健二の『西鶴一代女』を使って説明している。

男女が越えてはいけない一線がある。二人は同じ地平にいてはいけない。土の上にいることがほとんどない女と、土の上にいることしかできない男。その二人の間を白い障子が塞いでいる。若い武士が宮廷に仕えている高貴な女性に声をかけて、勝手に障子を開けてしまう。男は女の部屋に踏み込んできてしまう。それなのに彼女は彼を押し返すどころか、自ら庭先に出てしまう。彼女が犯した致命的なミス。「向こう側」と「こちら側」を維持しなければいけないのに、自分から「向こう側=男の生きている世界」に出てしまった。(P14)

上下の位置関係、同じ地平にいるのか、階段の上と下なのか。あるいは障子や敷居、玄関などの境界。

または、「川」や「橋を渡る」という行為、台所から「渡り板」を渡るという行為にも、「向こう側」と「こちら側」という一つの境界を超えるという「動線」がある。 一つ屋根の下での兄嫁と弟の関係を描いた成瀬巳喜男の『乱れる』の各場面を使って説明する。あるいは高峰秀子が衣装の「和服」を着ることによって「私は人妻です」という 「鎧」をまとっている女性心理を表しているのだ、と。

<俳優たちが求められる重要な役割とは、表現することではなくて、存在すること。>小津安二郎の『秋刀魚の味』で描かれる泣きたいのに表情を殺している岩下志麻。「戦場としての顔」がそこにある。複雑な感情を表している無表情な顔。表情を消すことによって「場」が立ち上がる。家族が集う居間を一種の法廷のように設計し、岩下志麻に被告人のように動線を与えて、男たちからの宣告を受けさせている。

または二人の視線の関係の演出。「水平」での最初の視線の関係から、二度目の出会いは「垂直」の関係へと変化させること。デヴィット・グリフィスの『散りゆく花』(1919年)のリリアン・ギッシュの男との出会いの視線の関係。リリアン・ギッシュが床に転がって、救世主を仰ぎ見るというような人物配置をすることで、「何かある決定的な感じ」を演出している。

映画は、視線を空間の中でどう位置付けるかによって、人と人との出会いが決定的になる。

たった一つのエモーションしか打ち出していない芝居は観ていて飽きる。いくつものエモーションが、潜在的にそこに存在していなきゃいけない。

こう思って動いた、だからこう動いた、という因果に陥っている「動き」は、すべて説明にしかならない。「怒った」から「殴った」ではなく、「いきなり走り出した」、なんで?「あっ、怒ってる!」という予想を超えた瞬間が世の中にはある。そこには常に複数のエモーションがあって、何が出てくるかわからない潜在意識が重なっていることで、人がただそこにいるだけでも緊張感が生まれる。(P30)

生命なきものに生命を与え、生命あるものは物として見つめる――まさにこれが「映画」だ。倒錯した欲望。映画は光と影を操り、動きを作り出すことでその欲望を現実化できた。

ヒッチコックの『サイコ』では、一人の女性の「顔」がまさに「人間」から「物体」へと化す瞬間を描いている。

「生」と「死」、生命と物質の間で立ち騒ぐこの倒錯的な欲望は、多くの映画監督が惹きつけられてきた映画という表現ジャンルの持つ欲望、映画の遺伝子に刻み込まれた本能なのだ。

『顔のない眼』ジョルジュ・フランジュ(1959年)で描かれた「仮面をつけた娘」。表情のない顔なのに、その心情が手に取るようにわかる。仮面の中の視線や瞳の動き、声の感触だけで、彼女の内面を察知することができる。それなのに俳優が自分の内面をわざわざ「表情」として表そうとすると、それは観客がしっている「追認」でしかなくなってしまう。演技が説明過剰になる。

映画におけるもっとも重要なエモーションとは、映画を観ている観客の心の中に生じるエモーションに他ならない。俳優は優れた「被写体」になる。

ロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』。「人は何かを見ているときには、別の何かを見ることができない」という原則が人間の独善を生み、その独善の行き着く先は共感の欠如、そして他者への不寛容が生まれる。少女ムシェットが移動遊園地で、初めて異性から熱い視線を受け止める瞬間がある。ゴーカートで車をぶつけてくる若い男。激しく頭を揺らし、ムシェットは初めて幸福を味わう。肉体が激しく揺さぶられる性的な欲望すら立ち上がってきている。そこへ親父がやってきて、幸福感をぶった切る。

映画とは「動きの創造」。動きを見出し、組み合わせ、ひとつの出来事を作り出すこと。肉体を揺さぶり、躍動させること。思いっきり車と車をぶつけあって、大笑いする。複雑なエモーションの渦巻きを作り出している。

こんな風に「動き」の創造にこそ、映画は立ち上がる。それはリュミエール『工場の出口』から変わらないのだ。カメラを回せる1分間という時間のフレームが、被写体の選択を迫り、被写体の動きをどう切り取るのかを考えた。それが映画になっていった。

そのほか「省略すること」の大切さがハリウッドの古典映画を通じて語れられ、台詞が歌に変わっていく「音楽としての映画」の魅力。あるいは、「性格(キャラクター)」ではなく「感情」を主役にしたジョン・カサヴェテスの革新性。「行動」を通して「感情」を捕まえようとしているのがカサヴェテス。内面を描いた映画ではなく、感情はしばしば一定せず、驚くほど揺れ動く。作劇によるサスペンスではなく、シーンが持続していく中での臨場感、どこへ向かうかわからない登場人物たちの感情にハラハラドキドキするサスペンスが生み出されるのだ。

一方、「感情」が「動き」に転化する神代辰巳の演出法。見事な「動き」の創造があって、そこに「ある感情」が呼び寄せられる。「感情」があって「動き」が生まれるのか?それとも「動き」があって「感情」が生まれるのか?ある「感情」が音の連なりを生み、音の連なりが、ある感情を生む。「映画が音楽に嫉妬する。」(黒沢清)

カサヴェテスは、男と女、妻と夫、基本形は一対一。一対一で関係が緊迫していくのに対して、日活ロマンポルノは三角関係、三人が基礎となる。なかでも神代辰巳の世界は、「枷のはめられた世界で描かれる、箍が外れた人物」を描き、「所詮そこで生きていくしかない、土地や過去や人間関係に縛られている。そこで箍が外れていく自由を陽気に笑い飛ばしていく。」

こんな風に古今東西の様々な映画を語りながら、その演出術について書いている本だ。

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