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#123 中庸

中庸とは、ほどほどという意味で使われる。

ほどほど・・・適度に程よい・・・塩梅などと同じ意味で物事の中間ともとらえれる。

東洋の思想家である孔子が言うには過不足なく適度な態度を保つことだという。
一方、西洋の哲学者であるアリストテレスは、推奨されるべき人間の徳であるという。

『ニコマコス倫理学』の中で、恐怖・自信・欲望・怒り・憐れみなどの快不快は、感じすぎても感じなさすぎても良くなく、適切な事物に対し、適切な人々に向かい、適切な動機により、適切な方法で感じることが、中庸であると同時に最善であり、これを徳といった。

たとえば、「勇気」は無謀(超過)と臆病(不足)の間の中庸の状態であるといえる。

孔子も論語の中で徳を説いているが、孔子のいう徳とは人のあるべき姿(理想像)であり、アリストテレスのいう徳とは少し異なるように感じる。

アリストテレスは方法論的にすべての条件下でベストな選択をし、それが最善であり徳だと述べているように、中庸と徳が混合している。

一方、孔子は、適度な状態を保つことが中庸であり、それを実践できている人物のことを「徳のある者」と呼び、このような人格者を君子と表現した。

アリストテレスと孔子は時代背景が異なりますが、東洋と西洋の賢者が同じ結論にたどり着いているところには興味を抱きますね。

論語:里仁篇4-25

『子曰く、徳は孤ならず、必ず隣あり(子曰、徳不孤、必有隣)』。

徳について、徳のある者はけっして孤立することはなく、必ず仲間が現れるものだといいます。

徳=中庸を実践する者として考えると、行き過ぎず節度を保ち人に接するような人は孤立することはなく、たとえ孤立する場面になっても必ず誰かが手を差し伸べてくれ仲間ができるものだよと、読み解くことができます。

また、論語の中で中庸であることの難しさが垣間見える一節がある。

『子曰く、奢れば則ち不遜、倹なれば則ち固なり。その不遜ならんよりは寧ろ固なれ』

贅沢は傲慢に通じ、倹約は頑固に通ずる。傲慢であるよりは、頑固の方がまだましだろうといった。

傲慢な人間は周囲の人を不快にします。その結果、忌み嫌われるようになる。また、頑固な人間は周囲との協調性はないものの、一徹さがあり、自分の殻に閉じこもるので直接他人への迷惑は及びません。

このように、頑固者は困りものだが、傲慢な人に比べれば人に迷惑をかけないのでまだましで、傲慢な人間は人に迷惑をかけるのでなってはいけないと孔子はいいます。

この場合の中庸は、贅沢をしない程度に節度を保って生活をすることなのでしょうか。

他にも

『子曰く、巧言令色、鮮なし仁』

口先のうまい人や、見かけばかりのものにロクなものはないといいます。

一見、口先のうまいこと(プレゼンが上手なこと)は美徳に感じますが、まず先にそこには仁がともなっていなくてはいけません。

この仁を体現できている人に、口先のうまい人が少ないため、多くの口先のうまい人間は仁が欠けていることが多いと警鐘を鳴らしたのでしょう。

ここでいう仁とは、思いやりや、いつくしみの心や、他者への愛を指します。

口先のうまい人は、物事の利点のみを他者に伝えることが多い気がします。
そこには自己利益的思想が含まれているためで、相手を煙に巻きたいという深層心理が垣間見えます。

つまり、仁をともなった人は相手のことを最優先に考えるので、まず欠点や不利な点を指摘するともいえます。そのうえで、利点を述べるので、口先がうまい印象がないのでしょう。

中庸はその状況下で最適(マスト)な選択をすることなのでしょう。

例えば、Aさんが10で、Bさんが0なら、中庸は5です。しかし、Aさんが8で、Bさんが2ならば、中庸は4です。

つまり、同じ条件下でも人の立ち位置が違えば、その最適点は変化します。

あまりにも単純な例えで申し訳ありませんが、社会においてはさまざまな条件や人同士がいるわけですから、その都度中庸を選択するのは非常に難しいことがわかります。

しかし、アバウトでも中庸が人にとっての最適点であり、それを目指すことに間違いはないように思えます。

あなたも人生の中庸を探してみてはどうでしょう。


おわり


最後まで読んでいただきありがとうございます。



ねむさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますので、よろしくお願いします。
no.123.2022.06.17

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