#120 コミュニタリアニズム
コミュニタリアニズムをご存じだろうか?
リベラルという言葉はメジャーで、リベラリズムやリバタリアンの言葉は日常でも見聞きすることが多い。
しかし、コミュニタリアニズムやコミュニタリアンはあまり浸透していない。(もしかしたら浸透しているが好まれていない)
なぜなら、コミュニタリアニズムは共同体主義とも訳される政治哲学用語で、自由主義であるリベラリズムと対極にあると考えられているためだろう。
社会の多くの人が自由を謳歌し、自由意思によって自己選択をし多様な個性を重視する社会にとってコミュニタリアニズムは不要のような誤解を受ける。
自由主義では価値の中立性を重視している。
この価値観は「ゲシュタルトの祈り」の詩の中に凝縮されている。
つまり、自由な選択にのみに責任を負うのであり、責任のないところに自由はない。
この個人の自由を重視するリベラリズムを批判するのがコミュニタリアニズムになるのだが、彼ら(コミュニタリアン)は共同体における共通善を重視するべきだと説く。
そうして1980年代にリベラル・コミュニタリアン論争が起きた。
コミュニタリアンは、リベラリズムが想定する「自己」の概念が、歴史や伝統、共同体といった文脈から切り離されていることと、リベラルの主張する正義を導くための過程の正しさを優先し、正義の中身である道徳や善に関する議論を放棄していると主張する。
つまり、コミュニタリアンは共同体における自己の位置づけを重視し、
道徳や善に関する議論を行うといえる。
最近では、アメリカの政治哲学者であるマイケル・サンデルが有名。
サンデル氏によれば、わたしたちは特定の環境から完全に独立して存在しているわけではない。むしろ、自分の属する共同体と深く関係をもつ存在であるとさえいえる。
こうした主体を「位置づけられた自己」と呼んだ。
位置づけられた自己は、自らの属する共同体に深く関係しているので、共同体に愛着をもっている。
そうしてそこで生まれた美徳を重視する。
コミュニタリアニズムは、共同体の成員に共有された美徳や善に価値を置くのだ。
つづく
最後まで読んでいただきありがとうございます。
参考文献「無理ゲー社会 橘玲著」
駄々こね太さん画像を使用させていただきました。
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