「死んだら負け」は誰の救いにもなっていない
死んだら負け。
世間で誰かが自ら命を絶つ度に必ず沸いて出てくるお馴染みのワード。
思考停止で著名人の発言をありがたがる無数のTwitterユーザー達がハートをタップしまくって膨大な数のいいねが付いたこのツイート。
松本さんを否定する訳ではないのですが、僕はこの「死んだら負け」に対してはどうしても強い違和感を感じます。
何に対しての「負け」なのか。僕らは何と戦って生きているのか。生きていることになっているのか。
そしてこの言葉は死にたいと思うほど苦しんでいる人への配慮が圧倒的に欠けている。耳にする度にいつもそう思う。
何かが上手くいかず、あるいは周囲の人間によって精神的に追い込まれている人は、そんな状況になってしまった自分自身を誰よりも強く責めている。
仕事を辞めた自分、学校に行っていない自分、人とうまく付き合えない自分、社会に居場所がない自分。
自分で夢見た将来を、あるいは親や家族に望まれた将来を歩む事ができず、期待に応える事ができなかった自分を誰よりも恥じている。
思い描いた「こうあるべき」の姿からどんどん離れていく自分。
身も心もボロボロ。いつ壊れてもおかしくない。
だからそんなギリギリの状態の人に「負け」なんて言葉を投げ付けないで欲しい。誰よりも「負け」を意識している人に勝ち負けを問うのはやめて欲しい。
うつ病の人に「頑張れ」なんて絶対に言ってはいけないのと同じです。
既に負けたと思っているのにお前は死んでも負けるぞなんて言われて、喜ぶような変態は僕の知る限りこの世界に一人も存在しない。
間違っても僕は自殺が正しいとは思わないし、何があっても生きる事が一番大切だと思う。
だから死んではいけないというメッセージを発信する上で「死んだら負け」には一定の効果があるかもしれないけど、生きる希望を失った人を救う言葉にはなっていないように思います。
今年のお正月にNHKで放送された「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 新春スペシャル」でタモリさんがこんな事を言っていました。
今年の抱負はと尋ねたアナウンサーに対してその質問はよくないと断った上で、生きる理由なんて今日何食べようとか明日どこ行こうとかそんなんで十分だと。
大きな目標や抱負は必要ない。人間生きているだけで十分。
影響力のある人には「死んだら負け」なんて言葉ではなくてこういう事を話して欲しい。
死にたいと思うほど辛い事があるなら、そこから逃げてでも生きる道を選んで欲しい。
逃げても死んだりしないし、負けても死んだりしない。
人間は意外と丈夫に出来ているらしい。
ビルから飛び降りるより、家でご飯炊いて味噌汁作ってた方がずっと簡単でずっと幸せです。
何年か前に「置かれた場所で咲きなさい」という書籍がベストセラーになっていましたが、何でこんな本が売れるんだろうなとずっと疑問に思っていました。
僕らは植物ではなく人間です。
自分が生きる場所を自分で選ぶ当然の権利がある。置かれた場所で咲いてやる必要なんてない。
自分を変えようとするより環境の方を変えてみるだけでずっと生きやすくなるかもしれない。
そんな考え方を頭の片隅に持っているだけで、少しでも楽観的に生きる事ができる。僕はそう思います。
ずっと思っていた事を書き殴ってみました。ちゃんと誰かに届いただろうか。
読んでいただきありがとうございました。皆さん良い週末をお過ごしください。