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推し活

少し前の投稿で取り上げたウジェーヌ・アジェですが、彼が写真家として認知される過程で同じ写真家であるベレニス・アボットの活動について取り上げないわけにはいかないと思ったので、今回はベレニス・アボットのお話を少し。


連邦美術計画

前回の記事で少し紹介した通り、ベレニス・アボットが写真家として実績を積み始めたのは1930年ごろはちょうど世界恐慌まっただ中で町中に失業者があふれていた時代でした。

この世界恐慌は日本も含めて国家財政が傾くほどのダメージを受け、生き残りのために産業構造の変革を迫られるなど、最終的に第二次世界大戦の間接的な原因の一つになるほどの大事件になったわけですが、発端となったアメリカでも経済対策としてニューディール政策を発動。1930年前後には第二期ニューディール政策の芸術家の失業対策として連邦美術計画(Federal Art Project - FAP)という政策が立ち上げられました。

連邦美術計画は本質的にはアーティストの失業者対策だったのですが、結果的にはアメリカ独自の芸術を確立する結果になりました。国家として独立してまだ200年余り。経済的には大きな力を持ち始めていた言ってもヨーロッパの列強とは格下で金は持っていても文化も教養もない国と見なされていたアメリカ。芸術分野でもアメリカ産は様々な国の芸術の模倣と見なされていてたものを打破する結果に繋がっていったのですが、この計画に参加し、アメリカ独自の写真芸術の確立の一翼を担ったのがベレニス・アボットでした。

国立公園事業の政府ポスター Nicholson, Frank S., for Works Projects Administration

パブリック・アート

失業者対策であるニューデール政策の一環として連邦美術計画が進められたのは、ニューデール政策で行われた様々な事業が有効に機能していると宣伝するという目的もありました。その為この計画に参加した写真家は芸術的な技巧より、報道写真のような写実的な撮影。ストレートフォトグラフィが重視されるようになりました。

撮影される内容も権力者の権威を高める肖像写真や記念碑的な巨大建造物の写真などではなく、一般市民が(ニューデール政策で与えられた)労働に従事している姿や、失業対策で新たに建てられた一般住宅や図書館など、一般市民が住む街中の様子でした。

これらの写真は失業者対策の成果を見せるための写真なので、特定の人々しか見ないような美術館などではなく政府広報のポスターや広告看板などに利用されて誰もが目にすることができる - パブリック・アートとして扱われました。

ベレニス・アボットの写真もこの技巧に走らないストレートフォトだったのですが、彼女は写真家として活動する少し前。1925年にパリでアジェに会っていて彼の写真を目にしていたようです。

FAPの一環として働く労働者を描く芸術家の写真 Wikiより

写真家が写真家を推す

こういう時代背景を考えるとパブリックアートやストレートフォトグラフィという写真芸術は1930年代のアメリカでなければ成立しなかったものかも知れません。アボットもまた国家事業として推し進めた失業者対策に助けられた写真家でした。

対するウジェーヌ・アジェはフランスのパリでの写真家生活。ヨーロッパでも最も伝統と権威に満ちた街で新しい写真芸術が生まれる余地はあまり多くなかったと思うのですが、それでも後にアメリカで広まる写真芸術の始祖というべき撮影スタイルをパリに住んでいたアジェが始めていたというのは流石芸術の都と言うべきでしょうか。

今回はベレニス・アボットがどれほどアジェと交流があったのか、詳しく調べることは出来ませんでした。分かったのは本格的な写真家活動を始める前の1925年にパリで会ったことがある。という事。アジェの死後、詳細不明のただの資料写真として失われていく運命にあったアジェの写真を原版も含めて収集、保管し、最終的にニューヨーク近代美術館に購入させることに成功したという事まででした。

そこにはたとえ無名であっても、自分の好きな撮影スタイルを進めていた偉大な先駆者をみんなに知ってもらいたい。という推し活の精神が多分にあったように思います。


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