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人生は美しいアルバムじゃない
こういうカッコいいセリフを思いついたのは、もちろん自分ではなく、東京スカパラダイスオーケストラの一曲です。
東日本大震災からの復興途上にある被災地への応援歌として作られたとも言われているらしいのですが、そういう背景を踏まえたうえで現在試練に直面して破滅の瀬戸際にある人に聞いてみてほしい曲でもあります。振り返れば遠くに光る星がまだお前を守っている・・・
撮れなかった写真の方がはるかに多い!
以前に自分には人が撮れないという事を書きました。そんな訳で自分にとってはまず「人」の写真。ポートレートが「撮れなかった写真」。
ポートレートが撮れない代わりに花の写真を撮るという事も書きました。シーズンに入った桜。バラ園。アジサイ園や、植物園などに出かけて行って写真を撮ります。
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その時は一枚だけ撮るのではなく、アングルや構図を変えて何枚もとっているのですが、後で見返してみてアーやっぱり違う撮り方をすればよかったーと思ってしまう事がしばしばあって、これも「撮れなかった写真」になります。
「撮れなかった写真」を少しでも減らしたい!と思った時に自分だけが見つけた何かを撮っておきたい。と思って一眼にこだわらず、可能な限りカメラを - 写真を撮る道具を携帯し(持っていなければスマホカメラも動員して)自分の目に留まったものを出来るだけ撮るようにしています。
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植物園などに咲いている花は色々な人に手入れしてもらって、いわばスターやアイドルのように扱われて注目されて当然の立場にある花ですが、実は川原や道路の隙間などで咲いている「雑草」のようなものにもこれはと思う花が咲いていて撮ることがあります。
しかし、そういったものに注目して写真を撮り始めるとこの世には「撮れなかった写真」のなんと多いことかと余計に悩みは大きくなってしまうのです。
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リアルであるほど、「現実」から遠ざかる
ここに載せた写真も実際にはワンショットで撮ったものは一枚もありません。何度もシャッターを切ってその中でまあマシだろうと思う写真をここに載せているのであって、本当の意味でのベストショットは「撮れなかった写真」の中にあります。
それは写真と言うものは現実を忠実に写したものであるはずなのに実物の花の美しさを全く伝えていないように見える瞬間でもあります。
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何とかあの時見た美しさを写真を見た人にも伝わるようにしたい・・・そう思って色調整やレタッチなどもやってみるわけですが、そうするとその写真は目立つようにはなるでしょうが実物からはますます遠ざかってしまうのです。
こういった物事を他者へ正確に伝える技術として考えた時、写真のようなビジュアルより言葉の方がより正確に現実を伝える能力に秀でているように思います。これはビジュアルをあくまでビジュアルとして焼き付けているフィルム~プリントの写真と実体はRGBデータでディスプレイが再構成いるという仕組みによって色の正確性に秀でているデジタルとの違いに通じるのかも知れません。
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真実はあなたの感じたもの
詳細は忘れてしまったのですが、確か有名な映画監督だったと思うのですが、映画製作の最も面白いところは何かと聞かれたときに、人によって感じ方が全然違うところと答えていたのを覚えています。
実際に全く同じ写真(デジタルでもフィルムでも)全く同じ言葉、文章、物語。全く同じ音楽に目にしても受け取り方は全員違うという事が普通にあったりします。
人によって感じ方がみんな違うのだとしたら、自分の見たもの。感じたことを正確に伝えることは例え写真をもってしても不可能なことなのかも知れないと思えます。
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だったら自分の見た、感じた事実を正確に伝える努力は無駄なのかとなってしまいますが、もちろんそんなことはないと思うのです。
自分と他人では違う以上、自分の考え方、感じ方をコピーすることは出来ないでしょうが、何を見たのか。どう感じたかを伝える努力が現れていれば、それを見た人はその努力も含めて見てくれているはずで、その中に一部分であっても伝える人と同じ考え方や感じ方を共有できればそれは「共感」と呼ぶものになるでしょう
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伝える人の考え方、感じ方と違う部分には意味はないのか?その部分もまた大切な部分で、特にそう感じた本人にとっては共感の部分、共感できない部分全て含めてその人オリジナルの考え方、感じ方であってその感性は何より大事にしなければならないものです。
自分の写真や文章を見て、自分なりの考え方、感じ方を大事に保持したうえで、それが良い影響 - 他者を傷つけるものではなく、反社会的なものでもない考え方。感じ方 - であったなら、それは自分の考え方をコピーすることより重要な事を成し遂げられたと考えていいのではと思っています。
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