2022秋アニメ10月段階感想 う・ゴ・ジョ・チェ・どぅ・B・ぼ・ポ
オタクみたいなことしてるけど、僕はアニメや漫画を日常的に消化してるだけのパンピー (今どきこんなのはオタクと呼べない) です。
秋のクールが1ヶ月分放送された段階での評価。後の展開では変動あり。
現段階で視聴 (を一度でもした) 済みの作品はこちら。
話題作ばっかりなのは、一定の支持を集める以上それなりの面白さが担保されているだろうし、大ハズレのリスクも少ないと考えるから。年々流行りに乗っかったほうが損がねぇなという日和った思考になっていくのをひしひしと感じる。自分にとってのベストを暗中模索するより、大衆の最大公約数を楽しむ方向にシフトしたほうが楽なのは自明の理 (漫画は別)。あと切実に労働後の趣味時間にハズレ作品をみて虚無に陥りたくない。
前置き終わり。
原作既読のものは先の展開のネタバレを含む可能性があります。話が横道に逸れまくる&文章下手なのでやたら長くなりました。2.7万字くらい?
8位:『ポプテピピック』2期 1〜2話 (脱落)
コメつきで見たかった。これにつきる。
これは1期でもそうだったが声優にそこまで興味がないのと (ベテラン声優はそこそこ分かるが若手がマジで分からん)、パロディの元ネタがあんま分からんのが非常にネック。1期はニコニコのコメントで有識者が解説及びツッコミを入れてくれたおかげで楽しめていたんだと再確認した。
それは一作品としてどうなん?というツッコミはさもありなんだが、観客側にメタ的な楽しみ方を要求するやり方は古典的な手法だし (パロディがテーマのコメディならなおさら)、僕はポプテピのような作り方自体には不誠実さは感じない。単純にネタがわからん。それだけのこと。
7位:『ジョジョの奇妙な冒険』6部 13〜16話 (脱落候補)
うーむ…やはり徐倫の能力にいまいち魅力を感じられない。
刑務所という閉鎖空間でのサスペンスに、徐倫や仲間たちのスタンド能力が噛み合ってない気がする。その代わり敵のスタンドが環境を最大限利用して襲いかかってくるのは良い。
回想だけどちょいちょいDIOが登場するのは嬉しい。やはり1〜3部の一連の流れが好きな者としては (部単体でなら2部が好き)、ジョースターの血脈に絡まり続けるDIOとの因縁がジョジョプロットの中心軸にあってほしい。
6位:『チェンソーマン』 1~3話 (継続)
期待値をあまり上げずに視聴に臨んだが、それすら若干下回る出だしでちょっと参った。
作画はすごいと思う…うん。「作画がすごい」ってなんだ?
なんか近年の視聴者側の態度として、「動画枚数が多くて、ヌルヌル動いた」ら「神作画」みたいな風潮ないか?
素人の横好きでベラベラとのたまうが、僕はリミテッドアニメ (基本3コマ打ち) の省略の効いた動きが好きだし、何よりそういうアニメ体験が下地にあるもんで、どうも昨今のそういう「神作画」要求に応えた「実際の人間 (CG素体) の動き」をガチガチに想定した、あるいはトレースしたリアルなアニメーションに違和感がある。
昔のディズニーのフルアニメともちょっと違う。今日持て囃される「神作画」アニメって演技演出にすごく抑制が効いていて、全体的にケレン味を排除しようとする志向があるというか。そしてそれが「クオリティー」とやらを上げているという信仰…。
さらに「神作画」信仰は、撮影処理による画面の美麗化を「作画」と賞賛してしまう層によって歪みを伴い強化されている。
ことアニメにおいて「作画」とはざっくりいって原画作業+ 動画作業で成される線で表現された人物や物体の「動き」を指すはずなのに、「作画すごい!」って賞賛が上がる時って「動き」ではなくて、そのキャラのビジュアルを補強するための装飾部分に焦点が当たるっていることが多い (緻密な背景美術に対する「背景作画 (がすごい)」という謎ワードにもモヤる。「背景動画」のことを指しているならまだしも、まさに動かない「背景」が「作画」と呼称されているときの違和感…)。
特に近年のアニメはもう撮影処理にめちゃくちゃこだわってて、とにかく美麗で豪華な画面を視聴者にお出ししようという意気込みが満載なのに、それが「作画」の一言で纏められたら、彼らが本当に褒めたいはずの「作画」も、実際に (無自覚に) 褒めている「撮影処理」も、本質的には評価されていない。
あえて「神作画」で検索かけて上位にあったアフィブログを引っ張ってきたけど、この記事内の太字で言及されている大半 (光、水面、水中の表現) が「作画」の領分ではない。タイトルの「作画が綺麗」を「画面が綺麗」くらいに改めるべき内容だ。そしてこれくらいの認識で「神作画」認定は横行している。
しかし、僕としてはその画面の美麗化もなんだか肌に合わない。ルックは至って写実的にして、輪郭や背景にぼかしを入れたり、塗りの上に光沢を足せるだけ足したり (テカテカお肌)、光源を増やしたり (フレアがうざったい時ない?) みたいな。この傾向、新海誠の悪影響とするのは安直か (新海誠のあれはやったもん勝ちな部分もあるが、割りとスタイルになっていると思うが…)?
明日ちゃんがドア開けるカットは撮影処理前のが好きだ (流石にさっぱりしすぎ?)。コントラストが効いてパキッとした色彩が好みだし、なにより主線がくっきりしてキャラの動きが映える。処理後のフレア、ゴースト、ぼかしを入れた、上乗せの情報量で圧倒する画面は好みじゃない (これはまだマシな方)。
では撮影処理を抜きにした単純な「作画」に対する評価はというと。一枚絵として整っているか…極論言えば一時停止した時の人体デッサン、全編を通したビジュアルの統一感が崩れていないかどうか (作監修正バリバリのキャラ表絶対遵守による画一化)、が過度に重視されているきらいを感じる (こういう話題で有名な『NARUTO』のサスケ一時停止画像は、『映像研』の作者がキレてたからツッコまない)。
もちろんリアルな作風の作品にはビジュアルの統一感、整合性は重要だろう。でもそれがコミカルな作風の作品にまで侵食しているような気がしてならない。あえてビジュアルを崩したり、デフォルメを効かせることで勢いが出たりするのに、それすらも「メインビジュアルからの逸脱 (作画崩壊と呼ばれるなにか)」として処理されたらいよいよアニメーションは窮屈な世界になりそうだ (レイアウトへの言及ならまだ分かる。「このキャラ、足が地面についてなくね?」みたいな)。
そういった価値観のもと、特定の制作会社礼賛or叩きが行われている。「○○は作画神 (を指してない時あり) だから当たり!」or「□□は作画ゴミ (を指してない時あり) だからハズレ!」といった言説を見るにつけ息苦しさを感じる。
基本分業制で、一つの作品にその時々で様々な下請け組織、フリーランスが関わるアニメ業界において、その枝葉はネームバリューのある制作会社ごとに一纏めにくくられ、雑に個別化され、結局は画面を構成する物量の多寡を比べるだけの資本力評価バトル…。
なんか拗れたオタクみたいになってるけど、僕は個々の役職についているスタッフとか、その仕事内容に全く詳しくない。「このカットは〇〇さんの担当だな…いい仕事してる」みたいなオタク分析などまるでできない。ただ出来上がったものの印象をテキトーに述べているだけで、その点「神作画」を褒めそやす層と対して変わりないが、画面を構成する素材の判別くらいはつけたいと心がけている (それは僕の自己満足だし人に押し付けたい訳ではないが、「神作画」信仰者は、当人が言うところの「作画」にやたらうるさいのに、その実「作画」に言及できてない有様で「一家言あるオタク」なのか…という苛立ちがないかと言えば嘘になる。マジでにわか叩きを今すぐやめろ。もちろんガチガチに詳しい人もいるが、そういう声はむしろ煙たがられている)。
話が逸れまくった。『チェンソーマン』で言いたいことはそこじゃないんだ。
1話、PVから想像した通り実写映画的な、絵の演技、声優の演技ともに抑制の効いた、大袈裟じゃない自然な演出。多分そこは監督もこだわっているんだろうけど、それ『チェンソーマン』でやることなのか?という疑念が拭えない。
藤本タツキは「第1話が最高潮でそっから尻下がり」と評されるけど、裏を返せば「1話のつかみは完璧」ってこと。その「つかみ」がアニメではどうにも弱くされてしまった感がある。
別に「原作通りやるのが絶対!」みたいな原理主義者ではないから、改変自体はなんぼでもしてもらっていいけど、改変した結果面白いかどうかは別問題なんで…。
藤本タツキが映画好きで、作品の随所にそういった趣味趣向を詰め込んでいることは理解している。今まで公開された作品はほぼ読んでるし、単行本は紙と電子両方で揃えている程にはタツキ節のファンだ (『ルックバック』まだ読んでない)。
でも、『チェンソーマン』って20ページ未満の週刊連載において贅沢に大ゴマを使いまくり、セリフも展開もテンポ良くポンポンと回していって、いっちゃあなんだがド派手なハッタリでゴリ押しするのが基本じゃない?
所々に岩井俊二っぽい演出が挟まるけど、顕著に出るのはマキマさんや、レゼとのデート回くらいで、基本路線はあくまで下品なB級スプラッタだったでしょう。
そういう意味では日常芝居には滅茶苦茶気合入ってた。「アニメっぽくしないぞぉ!」という気合 (何が何でもリップシンク!)。
ただアニメを「アニメっぽくしないこと」にあんまり魅力を感じないというか、やっぱり繊細路線や写実主義路線はどうにも洒落臭く感じる。「これがリアルだぜ」的な押し付けがましさかなぁ。
その手の作風で好きな演出家はいるにはいる。山田尚子とか。でも山田尚子は当人が至って「無邪気に」それをやるから鼻に付かないんだよな (繊細すぎてもはや過剰演出な『リズと青い鳥』のブックレットで、「でも“のぞみぞ”は末長く添い遂げてほしい!」的なカプ厨丸出し発言してて、「そんなわけあるかい (笑)」と思ったくらいだ)。
また話がそれた。まぁ、とにもかくにも倉庫での一連のシーンですよ。なんで、あんな引きで撮っちゃうのぉ?なんで、ゾンビがまばらで迫ってくるのぉ?
なんか戦闘シーンがしょぼいという感想に対して、「作画がCG (を使うのが悪) だったから」とか「いやCGに見えるくらい手描きに気合入ってるんだ (ヌルヌル作画最高!)」とか論争起きてたけど、いや違う違う、そういう個別の技術の是非より、単にコンテ/演出の問題でしょうよ (作画作画うるせぇ!)。
なんで?呪術とか進撃の時に散々やってた3DCGカメラワークは?あそここそ被写体を中心にカメラぐるんぐるん回して、襲い掛かるゾンビどもをばったばったと切り伏せるやつやってくれよ。なんかちまちま一匹ずつ殺してるのがしょぼくてね…。
あの辺は、どんどん大袈裟になっていったミラジョヴォ版『バイオハザード』並みのゾンビの大群衆を登場させ、そこにステージダイブかまして、そのど真ん中でアホほどチェーンソー振り回して、デンジくんが全身真っ赤になるくらい血飛沫飛ばしまくって、腕だの足だのポンポン飛ばして、もう画面がわっちゃわっちゃになるくらいでよかったのに。
グロ表現が好きという訳ではない。生活で起こり得そうなグロが特段嫌いだ。チェーンソーは仕事で使うからその意味では『チェンソーマン』は結構ギリギリ。
でも『チェンソーマン』のグロはギャグとして処理できていた。原作じゃあ人型の敵をバッサリ一刀両断なんてざらにあったけど、人体なんて複雑な構造物をチェーンソーできれいに真っ二つにできるわけないじゃん。つまりあれは『北斗の拳』の「ひでぶ!」に相当するB級ギャグスプラッタ表現であって、そんなチェーンソー使い慣れてない (用途からして間違っている) からよたよた動くみたいなリアリティはあんまいらないわけですよ。
「チェーンソー生やしてみました!」という素っ頓狂なアイデアと、デンジくんの非知性的なキャラクターの相乗効果で、馬鹿丸出しのバトルシーンが映えるのに、めっちゃ小ぢんまりした演出のせいでただの馬鹿っぽい映像になっちゃった感が否めない。
『チェンソーマン』はやっぱ90年代くらいのハリウッドで量産されたB級モンスターパニックの雰囲気を纏ってるから、そんな高級感だそうとしなくて良いと思う。『トレマーズ』、『アナコンダ』、『ザ・グリード』くらいの、とりあえず人間がチープな特撮やCGのモンスターにグロめに殺されまくる、サンテレビ (兵庫県民です) とか、木曜洋画劇場で放送されるような、とにかく刺激で溢れた映画群のエッセンスが満載だ。
今の僕はバリバリのネットユーザーだけど、それでも小学生のころはテレビっ子で、毎週そういう映画番組を楽しみにしてたから、『チェンソーマン』のアホ臭さがすごい懐かしい。
毎週のテレビ放送じゃ物足りなくなって、でも田舎にはレンタルショップなんてないから、2つ隣の町にまで親にねだって連れてってもらって、『エイリアン∞インフィニティ』とか今だったら絶対地雷だと分かるバカタイトルを、キャッキャと喜びながらカゴに放り込んだときの高揚感を思い出す。
ただ『ザ・グリード』をこないだ見返したら普通に面白かったから、単に成長してないだけかもしれん。でもそんなんでいいんだよ、なんかOPの映画のオマージュがオシャレとか、丁寧な芝居が良いとかじゃなくて、もっと素直にB級路線を楽しみたい。
あと、「声優合ってなくね?」問題。
僕はデンジくん役の新人さんはなんだかんだ良いと思う。全体的に元気が足りないのがネックだけど、キャリアのある人でこなれた演技をされるのはなんか違う。
やっぱりマキマさんだよなぁ。声優マジで詳しくない (演技や声が好きな人はちらほらいるが、個人には興味がない。演技論聞くのは結構好き) けど、マキマさんは原作読んでる時からずーっと坂本真綾で再生してたから、実際のマキマさん役の人の声だと、マキマさんにイメージする年齢に対して10歳位若く聞こえる。まぁマキマさんの正体的には何歳かは不明だけど、見た目年齢的に判断すると20代後半だよね (30代でも良い)。
僕ぁ、デンジくんが職場のだいぶ年上の女性に振り回される社会人おねショタ (?) ものとして、『チェンソーマン』を楽しんでたから、マキマさんの声には若干の貫禄を持たせてほしかった。
どうでもいいですが僕はおねショタは「おね」の立場に欲望を仮託して、「ショタ」が蹂躙される様を楽しむ、という楽しみ方をしています。僕にとってのおねショタ願望は、半分女性化 (それもショタに対して10歳差はある女性になりたい) 願望です。つまり、『チェンソーマン』で一番可愛いと思うのはデンジくんです、宜しくお願いします。
2、3話は結構よかった。
パワーちゃんでてきて、メリハリが出てきた。
それでも全体のテンションはもっと上げてほしい。
デンパワの二人は、「うるせぇだけじゃん!」ってクレームくるくらいでもいい。
そう、デンパワはうるさい。
ぶっちゃけパワーちゃんの声も坂本真綾 (忍野忍中学生モードの声) で再生してたから、ドンピシャかと言われたら違う。ていうか、『チェンソーマン』に坂本真綾ボイスで再生できるキャラがいすぎ。他の候補が思い当たらないのと、坂本真綾の多芸なのが相まってあと二人くらいは坂本真綾で再生できる。
つーか、EDの絵柄がベストマッチじゃねぇか?
5位:『BLEACH』 -千年決戦篇- 1話 (脱落候補)
『チェンソーマン』と対照的に、エフェクト盛り盛り、演技盛り盛りのこれぞジャンプのバトル漫画!が満載でよかった。
『チェンソーマン』もこんくらいド派手で…と思わずにはいられない。そんな『チェンソーマン』より順位が上なのに脱落候補なのはなぜか?
それは以下の感想に絡めて述べる。
まず思い出が駆け巡った。
『BLEACH』って前シリーズ放送からもう何年振りくらいなんだ?まだ小学生だったのは確実だ。ゴールデン帯にジャンプアニメが集中していた時代…。当時の僕は「週刊少年ジャンプ」の漫画は『銀魂』(単行本派) しか読んでなかったので、『BLEACH』も『NARUTO』も『ONE PIECE』もアニメでその時々に見たくらいだ。
それでもにわかなりに要所はしっかり見ていたつもりだし、好きなエピソードもある。『ワンピ』はインペルダウンから頂上決戦の終わり、『NARUTO』はペイン六道 (から原作を最終巻まで読んだ)、そして『BLEACH』はやっぱり藍染とのラストバトルまでの一連。
そんなわけで、ある程度「王道ジャンプ」の基礎感覚はあるつもりで視聴した。
死神っていうのがいて〜、ホロウっていうのを退治してあの世とこの世のバランスを保とうとしてて〜、なんか必殺技にスペイン語だかイタリア語だかが使われててオシャレで〜、と、それくらいで全然続編エピソードにも参入できると思っていたのが甘かった。
久方ぶりのシリーズ再開1話目ということで、新規にもやさしくキャラ紹介パートと説明台詞多めの展開で、アバンのくだりは完全に新規視聴者のための準備運動だった (あんな雑魚軍団に卍解とかしないでしょ?)。 にもかかわらず、僕はまったく話についていけなかったのだ!
『BLEACH』ってこんなに作中用語を連発する作品だったのか!?
説明台詞を聞いても、個々のタームが何を意味してるのかまるで分からん!オシャレすぎる。用語が全部オシャレなエヴァ。
小学生の時は、アホみたいにバトル描写だけ見て「カッケェ!」となっていればよかったのに…。
そしてこれはもうセンスが噛み合うかどうかの話なので、『BLEACH』に罪はない。
それは脱落候補になっている最大の原因でもある、『BLEACH』の中二病観と、僕の中二病観との根本的な摩擦だ。
『BLEACH』の中二病観は万能感に満たされた、それを「本気でかっこいい」と思い込んでいるまさしく「中二病」だ。対して僕の中二病観はどうしてもその辺に照れが生じてしまい、しかしそれを「かっこいい」と思っていることもまた事実なので、なんとかそこの辻褄を合わせるためにメタな理由づけや屁理屈を捏ね出すタイプの、正直ダサさで言えば圧倒的にこちらがダサい「メタ中二病」なのだ。
僕はまさに中二の頃からそういう「中二病」をちょっと痛いよねぇ…とせせら笑いながらその実「中二病世界」に憧れていた人間なのだ…。タイトルの長ったらしいラノベとかよーわからんわwwwと言いながら『物語シリーズ』を読み耽っていた。
うおおおお!俺だって「月牙天衝」をキメ顔で言いたかった!!!
これが『血界戦線』になると途端に読めるようになる。なぜって?「技名を叫んでから殴る漫画」っていうコンセプトがお出しされているからだ。エクスキューズがあるから安心して読めるね!「エスメラルダ式血凍道」が好き。あとバカつえぇ吸血鬼大好き。「太陽が弱点とかそんな迷信効きませんけど?」みたいな涼しい顔で出てくるけど、お前が迷信そのものやろがい!っていうテンションが良い。
このように「中二病」と「メタ中二病」という似て非なる両者の間には、大きな溝が存在している。僕はその溝を飛び越えられない…少なくとも『BLEACH』の溝はでかい。最近ようやく読んだ『HUNTER×HUNTER』にはその溝がなかった。
あれのファンの過半数はきっと「メタ中二病」だ。捻った日本語にカタカナのルビ振るやつ大好きだぜ。「絶対時間」とか、「伸縮自在の愛」とかな。なのに主人公の技は「ジャジャン拳」で、最強ジジイの技が「百式観音」というルビ振りなしのシンプルネーミング。「こういのって中二っぽいよねぇ」という一歩引いた目線を用意してくれるとこに隙がない。
あと、これは元も子もないことだが、やっぱ「最後の月牙天衝」で終わりでよかったんじゃね?と心のどこそこで囁きが聞こえる。
いや僕はマジで一護vs藍染が好きで、そこはしっかり本誌で読んだのだ。
小学生時代、かかりつけの歯医者の待合室の本棚に随時補充されていたWジャンプで、僕は『銀魂』の単行本より先のエピソードを読んでいたのだが、ちょうど掲載順が近かった『BLEACH』でまさに「最後の月牙天衝」のエピソードが展開していた。
当時ひねたガキだった僕は「友情・努力・勝利」とかいうけど (諸説あり)、ナルトもルフィも一護も、バリバリ親の血筋から受け継いだ才能で無双するやんけ!と、ジャンプ主人公の抱える本質的な血統主義に唾を吐いていた (「メタ中二病」の初期症状)。
血統主義自体は別に押し出しても構わなかった。父親の買ってくる月刊少年マガジンユーザーだった当時の僕の好きな漫画は『修羅の門』(血統の話しかしない) だったし。しかし、ことジャンプに関しては、どうせ全て生まれ持った才能が前提にあって無際限に強くなっていくのに、「仲間」だの「努力」だのというのがすごく白々しいと思えたのだ。
そんな大人ぶったクソガキの性根にするりとハマったのが、酒が飲める年齢ですでに自立した大人である「坂田銀時」というキャラクターだったわけだが、そこに突如現れた「最後の月牙天衝」は当時の僕にはめちゃくちゃ革新的だったのだ。
詳しくは覚えてないけど、なんか藍染がめっちゃ強くなって一つメタな次元に達した上位存在になったところに、そのさらに上をいく次元に達した一護が、死神としての全能力と引き換えに放つのが「最後の月牙天衝」だったはず。
これに小学生の僕は「え?マジで力失うん!?」と歯医者の恐怖を忘れるくらい驚嘆したのだ。
これなら「友情(仲間との相互扶助)・努力 (凡人の足掻き)・勝利 (前者二つを兼ねた上の目標達成)」がテーマとして蘇生するじゃん!と、さすがにそこまでこねくりまわして考えてはいなかったが、ともかく「主人公が限界以上に極めた先でその力能を全て失う」少年漫画に初遭遇したのが『BLEACH』だったので、その衝撃と感動は『BLEACH』は他のジャンプ漫画とは一味違うなと思わしめるには十分だった (似た展開かつ僕が一番好きな王道少年漫画は『鋼の錬金術師』)。
で、しばらくしてアニメでも「最後の月牙天衝」が放送されて、「おーBLEACHもこれで終わりかぁ… (連載続いてるの知らない) 」と思っていたら、なんか蛇足のアニメオリジナルが始まり、なんやかんやで本編に合流し、死神もどきっぽい力を手に入れて、最終的になんかデフォでパワーアップした状態で復活したから (「今のは剣圧だ…」でポカーンとなった)、「おいおい!」というツッコミを禁じ得なかった。これも月島さんのおかげか?
ということで、これらの気分をどうしても引きずってしまうのが『BLEACH』脱落候補の理由だ。いちアニメ作品として現時点の評価は確実に『チェンソーマン』より良い。小賢しい気の衒い方とかなく、ド王道をぶち込むその胆力にはやはり往年の名作としての貫禄がある。変にテイストをいじらず正統派ジャンプ漫画を貫いて欲しい (脱落みたいな言い草では?)。
自白
この文章を読み返した時に「藍染」をずっと「愛染」(なんか味方っぽいよなぁ?と思い調べた)と変換していたことに気づきました。ファンの皆様に謹んでお詫び申し上げます。
4位 『ゴールデンカムイ』4期 37〜39話 (とりま継続)
「金玉が左右入れ替わる!!」で一生笑った。
まさにポンポイズム。
※動画は不適切な表現を含みます。
80s、90sのアメリカマッチョ映画で育ったもんで、やはり筋骨隆々の男の姿には惹かれるものがある。
同性愛的な指向 (或いは嗜好?) があるのかは定かではないが、3次元ポルノは男の娘/ニューハーフものじゃないと抜けない (豊胸とかしてない男体型寄りで腹筋も割れてるとなお良い)。自分のセクシュアリティについて全然真剣に考えてないから、チンコついてる彼女 (彼氏?なんだ?)ができてもそんなこともあるわなくらいの気分でいるだろう (実際に経験が2回ほどある)。
「美少女動物園」と対をなす「イケメン博覧会 (これは自作造語)」のようなBL的消費をされる漫画にも抵抗がない。美少女がイケメンに囲まれているのを、美少女の立場で楽しんでいる (本質的には女性化願望がある。年上成人女性になって年下イケメンを可愛がりたい)。僕のなかでは『桜蘭高校ホスト部』のオルタナティブに『ゴールデンカムイ』は存在している。
3位 『うる星やつら』2022 1〜3話 (とりま継続)
『チェンソーマン』に足りないものを全て持ち合わせているのに、根本のノリが現代の若者たる僕と微妙に合わない非常に惜しい作品。
いや、合っているといえば合っている。
「昭和のギャグ」は一応僕の守備範囲に存在はしている。『8時だョ!全員集合』から『オレたちひょうきん族』の流れにあるギャグ (スカパーの再放送や、総集編番組を僕はよく見ていた。テレビっ子だったので)。基本、ツッコミに暴力が伴い、明らかに殺傷能力のあるものでぶん殴ってもタンコブができるくらいに済まされるギャグ時空の世界観。爆発オチを平然とやるノリ。
ただこの令和の時代に、昭和の価値観のネタを今風に希釈せず、メタな迂回も挟まずにぶちかまされたらスッと許容できない程には、僕も現代の感覚をデフォに備えてしまっている。奇しくも旧アニメ版の押井守最新作、『ぶらどらぶ』を見た時と同じ気持ちだ (あれはオリジナルアニメでそれをやったのがヤバかった)。
それでもなお、「冴えない主人公の元に、とびきりの不思議要素を兼ね備えた美少女が突如現れ、大事件に巻き込まれつつ、なんだかんだイチャイチャする。幼馴染の負けヒロイン付き」という、40年以上たっても続く強固なフォーマットを完成させているのは感服する。マジで高橋留美子天才。しかも同時に『めぞん一刻』も連載してたんでしょ? (『アオイホノオ』情報)ヤバすぎる。
ラブコメ好き (恋愛ドラマでないことに注意されたし) としては、その始祖たる存在である『うる星やつら』を読んでいないことに若干の不勉強を恥じいる気持ちがないではなかった。でも生まれる20年も前に始まった作品だぜ?腰が重いて。
あと、悪名高き押井守版の『うる星やつら』も、なんとか放送までにコンプリートしておきたい気持ちもあったが、話数をみて愕然とした。4クール×4シーズンて、200話超えるじゃねぇか!!今と感覚が違いすぎる…。アニメ自体、今より本数が少なかったんだもんな。おまけに劇場版もあると…。
ということでサンデーうぇぶりの無料公開分をつまみつつ、原作準拠 (この辺の論争もあるっぽい) という触れ込みの2022年版を視聴している。
注目なのは、ラムちゃんの髪色。
押井版時代のセルアニメではどうしても表現できなかった、高橋留美子のセンス抜群のカラー。タマムシのように光のあたり方によってその色を変える (構造色というらしい) 虹色の髪が、現代のデジタル彩色の技術で表情豊かに表現されている。
特に電撃を放つときにフレーム単位で色が変化するラムちゃんの髪は、ゲーミングPCによくついてるLEDファンのようだ。こんなセンスを白黒漫画に持ち込んだのはマジですごいと思う。読者によってラムちゃんの髪は何色にも変化するのだ。そして、そのビジュアルがとうとう映像で実にフレキシブルに再現された。ファンアートの風向きも一気に変わるのではないか?
笑ったり、怒ったり、表情がコロコロ変わりながら、ずーっとあたる一筋でいてくれるラムちゃん。そりゃ当時の (男性) 読者の心をつかみますわなぁ。
実際マジでラムちゃんのパワーは凄すぎる。現代のラブコメヒロインの元気を総動員しても敵わないだろう。
そんな『うる星やつら』2022年版を見ている時にひたすら思うこと、このドタバタハチャメチャをほんの少しでいい、『チェンソーマン』にわけたってくれ…。これにつきる。もう登場人物がどいつもこいつもやかましく、荒唐無稽で、話が通じず、そしてとんでもないスピードで事件が起こりまくる。全部アニメ『チェンソーマン』が取り去ってしまったものだ (現時点では)。
こんなとこでまで『チェンソーマン』の愚痴はよそう。
ついでの感想だが、OP&EDが曲、映像ともに良すぎる。
このために見ていると言っても過言ではない。
特にEDがめちゃくちゃいい曲。
花譜ちゃん、あんな難しい曲、歌いこなせるようになったんだねぇ (デビュー当時から知ってるアピールをしつつ最近の動向は知らないやつ)。
頑張って曲の雰囲気を崩さずギターの弾き語りアレンジを試みようと思ったがリズムはむずいし、サウンドイメージが完全に曲と分離できないのでとりあえずコード進行だけさらって、てきとーに弾くことにした。
今季のアニソン、どれも複雑でめんどくさいのばっかりだ。もっとシンプルなのをくれ!!!
2位『ぼっち・ざ・ろっく!』1〜4話 (絶対継続) (注意:他作品のネタバレ『けいおん!』、『明日ちゃん』含む)
原作古参ファンです。今季一番ハードルを上げて待ってました。
大大大好きな『ワンダーエッグ・プライオリティ』を手掛けたClover Works...。あれ以降なんだかんだ『明日ちゃんのセーラー服』しかまともに見てなくて、『ぼっち・ざ・ろっく』の制作がClover Worksと知った時はちょーっと心配だった。
というのも『明日ちゃん』で苦手、苦手、と散々言った美麗画面路線に突入してしまい、それが原作のイメージに対してしっくりこなかったうえに (お前、結局原作厨か?)、もしClover Worksがこの路線を『ぼっち・ざ・ろっく!』にも採用したらやだなぁという懸念があったからだ。
『ぼっち・ざ・ろっく!』はバンド×萌えの開祖『けいおん!』のような、ゆるふわ「日常系」でもなければ、『BECK』とか『ウッドストック』のようなエモ全開のバンドドラマでもない。むしろ「日常系」と「ロック」をメタな位置から茶化す要素を含んだコメディ4コマ漫画だ。
「陰キャ」というもはや形骸化した属性を背負った主人公、後藤ひとりが「承認欲求のために始める楽器No.1」ことギターをまさしく承認欲求のために始める (僕もそう) というトートロジカルなテンプレを前面に押し出すことで、「美少女がいっぱいのゆるい日常系」&「エモいドラマが付与されがちな音楽系」をネタ化して、基本はギャグ多めで面白おかしく、たまに申し訳程度のエモを挟みつつ、しかしオチはきっちりつけるという、岡崎体育的な態度の作品なわけだ。
そこに、過度にエモい青春要素とかドラマは必要ない。むしろYouTubeとかにありそうな「陰キャあるあるwww」とか「バンドあるあるwww」みたいなノリが重要なのだ。
参考までにと「バンドあるある」で検索をかけたら、思ったより的を射た「陰キャ×バンドマン(又は楽器演奏者) あるある」がヒットして、「www」の雰囲気を伝える例としてはあまり相応しくないが、基本この動画で語られる内容が下地にあることは確かだ。
これでもし、『明日ちゃん』のような「日常の美しさ、青春の美しさ (それは偶像化した美少女)」 をゴリゴリに押し出されたらどうしよう…、恐る恐る第1話を視聴した。
結論からいって、Clover Works、お前最高だよ。
めちゃくちゃ良かったんだが?なんだ、この満足度は。
最初は写実的な背景美術と青を基調とした画作りからなる控えめな立ち上がりに、「まて!エモにしないでくれ…!!」と一瞬ヒヤリとしたが、3年後のテロップとともに絵柄がパキッと変わり、夜中の押し入れの中、エレキギター、オーディオインターフェース、ノートPC、というミニマムかつオーソドックスな宅録セットで、歪みゴリゴリのスケールライクなインプロヴィゼーション (お馴染みのEmペンタ) をぶちかまし、「ちや…ほや…?」と腑抜けた表情のぼっちちゃん、かーらーのOPで、「勝ったな (何に?)」とほくそ笑んでしまった。
突然ですがここから話逸れます。
僕はギターを弾くので、どうしてもギター演奏の描写にはめざとくなってしまう。
「ギターを弾く」ことへのこだわりで代表的なのは『けいおん!』だろう (『涼宮ハルヒ』の長門もすごいが、僕の好みではない)。
僕がお気に入りなのは『けいおん!』2期の10話。おでん屋にて、軽音部OGの人が、主人公のギターを借りてちょろっとフレーズを弾くカットはすごい。ほんの一瞬の描写だが、休符を意識したノリのあるフレーズに合うように、運指 (左手) とピッキング (右手) が忠実に作画されている。
当該カットはこちら。
これの何が凄いって、運指 (左手) とピッキング (右手) 作画の音ハメの正確さだけじゃなくて、それにともなう、体の姿勢、親指の位置の変化をきっちり描いているところだ。
以下、僕のうるさい解説付き。
字が汚ねぇのはゆるしてくれ…。
と、このように聞かれてもいないギター解説を未経験者にイキって垂れ流したくなるくらいには、『けいおん』の演奏作画は優れている。みんな、京アニの「作画」を褒めたいなら『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の美麗画面ばっかり持ち上げるんじゃなくて、こういう細かい芝居にこめられたこだわりと、それを成り立たせるレイアウトを褒めような! (そうじゃなくて、お前は『ぼっち・ざ・ろっく!』の話をしろ)
さぁここでClover Worksのギター描写だ。
『明日ちゃん』のギター少女回からすでに明らかだったが、Clover Worksの場合は、アングルを変えながら、カットをまたいでなおギターの手元をシームレスに描写するのが凄すぎる。モーショアクターの動きを忠実にトレースしてるんだろうけど、きちんとアニメ調に落とし込むのが本当に感心する。
ギター少女 (名前忘れた) の回は、視聴者の記憶に深く刻まれた神回だったことは言うまでもない。全体的な原作イメージとの乖離にうーん…となってしまっていた僕もあの回だけは、「うおおおおおおお!!!!!」とならざるを得なかった。
とてつもない劣等感を植え付けられたギター少女が、聴き手の反応を伺いつつ、もたつきながらもひとつひとつ丁寧に息を紡ぐように弾き語る。それを一身に受け止めた聖コミチ・アケビウスの曇りなきの賞賛と祝福の眼に胸打たれた視聴者は数知れず。
だが、めざといギター警察の僕はあのシーンを成立させるために込められた製作陣の執念を見逃さなかった (多分気づいた人はいっぱいいる。俺でなくても見逃さないね。てか、いた。)。
まずはこのカットだ。
はい、天才。
このアングル。YouTubeでこんなアングルの弾き語り動画、またはギター演奏動画を見た人も多いはずだ。きつめのパース上でコードフォーム (押さえているのはCコード) が完璧に描画されており、ネック裏の手の形、フレットを押さえていない小指の形 (弦に触れて鳴るべき音がミュートされないようにちょっと浮かしている) まで整合性が取れている。ストローク (右手) のぎこちなさも素晴らしい。
次はこれ
枚数が多いのは許してくれ (要所だけを繋がるように抜粋した)。
ここガチで鳥肌が立った。
ギター弾いてて、なおかつアニメをちょっと細かく見る人間ならこの衝撃が分かるはずだ。
コードチェンジが!!完璧に!!!作画されている!!!!
何を言っとんねんと思うだろうか。
いやここマジで凄いんだ。「ゆめをわたーるきーろいすなー、にーどーと」ってとこね。ここのコード進行は|F|G |C|。
まずこのカットの入りで、Fコードを弾き終えた左手が、次のコードに移行するために一瞬フリーハンドになる。そこが動画できちっと処理され、そのままスムーズにGコードを押さえている。
続け様に、Gコードのフォームが崩れ、1弦を押さえていた薬指と、5弦の人差し指、6弦の中指、が一瞬平行に揃いつつ、すっとCコードのフォームに移行するこの一連の動作を、こんな言い訳できない寄りのショットで、破綻なく描き切ったのがどれだけ凄いことか!こんなん『けいおん!』でも見ませんでしたぜ。地味に弦がダウンストロークの際に、6弦から1弦に向かって順番に振動しているのも凄いが、多分ここは撮影処理が一役買っているはずだ (実際めちゃくちゃ凄い)。
さて、ここまでは「作画 (動き)」が凄いって話だ (『ぼっち・ざ・ろっく』の感想は…)。
まさしく「神作画」であるこのシーンで注目すべきなのは、かのギター少女の「切迫した初心者感」を出すためになされたディレクションだ。
さぁここで「Fコード」の話だ!
『ぼっち・ざ・ろっく!』第3話でもキタちゃんにその猛威を振るった「Fコード」(ヨシ本筋にちょっと触れたぞ)。
だいたいのギター初心者が脱落する最初の関門である。
僕はアコギから始めたので、Em (めっちゃ簡単) ですら指が痛くてしばらく放置してたが…。アコギの弦はエレキの弦より基本太いし素材も違う (ブロンズ弦) ので、弦高が高かったりするとめちゃ弾きにくいしなにより痛い。
さらに安物のギターは作りが甘くて弾きにくいものが多いので、なるべく1〜2万円台の初心者セットとかは避けようね!予算の許す限りでいいやつ買うと弾きにくさで挫折するリスクは減るよ!試奏もしようね!(2敗)
おっと話が逸れた (もう逸れてる)。
『けいおん!』の解説でもちらと触れたが、バレーコードを押さえるときのコツがある。人差し指は、他の指が担当している弦に力を込める必要はなく、力を込めるのは人差し指のみが当たる弦だけで良いのだ。…お前マジで説明下手か。
えーっと…
これで伝わるだろうか。
人差し指は、6弦、2弦、1弦にかかる部分に力を込めればよい (『ドミナント』でこれ言及してて嬉しかった)。これが王道の「Fコード」の押さえ方。
そう王道…つまり、邪道が存在するのだ。
「Fコード」の押さえ方には抜け道がある!
ポップスで使用されるコードの基本形は、異なる3つの音を重ねた三和音 (トライアド) と呼ばれる。
細かい説明は省くが、この「Fコード」においては、ルート音(そのコードで一番低い音であり、コードネームを決める基準の音)のF (ファ) に、A (ラ) とC (ド) が重なって「Fコード」という和音を形作っている。
つまり3つの音さえ鳴っていればコードとしては成立するのだ。
ギターならそのコードの構成音に対応する箇所を3つ押さえてしまえばコードは弾ける!
弦6本も要らねぇんだよ!! (要る)
さあ、ここで「Fコード」の構成音に対応する箇所を見てみよう。
さて、画像を見てなにか気づくことはないだろうか。
赤字で示した6箇所の中に「同名の音が複数あるやんけ!」ということだ。
先ほど、「コードは3つの音を鳴らせば成立」すると述べた。
するとどうだろう、わざわざバレーコードなんぞ押さえずとも、「Fコード」を成立させる道筋が見えてこないだろうか。
つまりこう!
これが「省略形Fコード」の箇所!!そしてぇ!!
件のギター少女が押さえていた「Fコード」こそが!!!
見たまえ!!これが「ギター?まぁ弾けるけど」とハッタリをかましたら、2週間くらいで1曲仕上げなければいけなくなった初心者がたどり着く、「省略形Fコード」を採用した姿だ!!!
ここめちゃくちゃ熱かった。マジでちゃんと初心者のことを分かってる人が監修に入ってる。
2週間そこらで、バレーコードのコードチェンジとかできんわなぁ…、と言いつつ初心者が2週間でスピッツの『チェリー』を、もたつきながらでもワンコーラス弾きながら歌い切るのは並大抵のことではない。少なくともこのギター少女は、始めたてのころの僕より才能も根気もある。「だーきしーめーてー」のとこのシンコペーション意識できてたしね。
僕ぁコード3つくらいの曲ですら挫折したからねぇ。
しかし、僕が感動したポイントはそこだけにとどまらない。
さっきから、映像面ばかり褒めてるけども、そこだけじゃあないんだ。
このシーンは「弾き語り」をしてるわけなんだぜ?
そう、音だ。
実はこのシーン、コードチェンジのぎごちなさや、四分音符べったりのダウンストローク主体のバッキング、それゆえに生まれるテンポのもたつき以外にも、『初心者感』を醸し出す重要な要素がある。それはギター少女の「Fコード省略形」の手元の描写に注目すると分かってくる。
実は「省略形Fコード」には初心者がやりがちなミスが存在する。それは「開放弦のミュートし忘れ」だ。
ギターを弾く際に最も注意すべきなのは「鳴らしたい音以外の音を鳴らさない」ことだ。例えば3弦を鳴らしたいのに、ピッキングが雑だと他の弦も巻き込んで余計な音を鳴らしてしまうことになる。また狙った弦を鳴らせたとしても、その振動はすぐ隣の弦に伝わり、濁った音を生み出してしまう。
そこで重要になるのが、鳴らしたくない弦を余った指で軽く触れることで、振動させないテクニック。いわゆる「ミュート (消音) 」だ。上手い人ほど、そしていい音で演奏する人ほどこの「ミュート」がしっかりできている。
ご覧の通り省略形は、4、3、2弦を押さえればコード自体は成立するのだが、6、5弦をミュートしないとルート音 (基準の音) が変わってしまうのだ。ルート音が変わるとコードの役割が大きく変質してしまい、聴いた際に持たせたい印象が変わってしまう。
ではどうミュートするかというと、4弦を押さえている薬指の先っちょを5弦に触れさせ、さらにネックから親指を前のめりにして6弦に触れさせる。するときっちりと6,5弦がミュートされストロークの範囲に巻き込まれても雑音は鳴らない。また深く握り込む形になるので、人差し指の第一関節あたりが1弦を勝手にミュートして、「FM7コード」にならずにすむ (FM7は「チェリー」で使ってもそこまで違和感はない)。
では、再びギター少女の手元を見てみよう。
あーいけません!いけません!
5弦のミュートができていないならまだしも、6弦にも親指が触れていませんわ!
さぁ、ここでよーく耳をすまして聴いてみると、「Fコード」を弾いてる瞬間、6、5弦の音が入っちゃって、コードの響きが濁ってしまっているのだ。
楽器をやっていなくても、音感が多少ある方なら、なんかこの手の形のときだけ「ぼわん」とした鈍い響きが分かるはずだ。しかも細かいのは、6弦のミュートがたまにうまくいってて、結果的に5弦の開放が強調され、「Fコード」から最低音がAになった「FonAコード」になり、ここで本来果たすべき進行を若干損ねてしまっているのだ。
そもそも、歌い出しの後ろ姿で弾いているカットから、ミュートができていないのが音だけで分かるようになっている。
マージで初心者あるあるの完全再現。
Fコードに正面から挑めなかったから、省略形で代用したらそれも詰めが甘くて雑音混じりになってしまう。僕もやりましたねぇ。これガチで初心者に弾かせたのか、それとも経験者に「下手に弾く」ようディレクションしたのかどっちなんだろう。
まぁ、そんなこだわりぬいた「初心者あるある」を真正面から高級なアニメーションでぶつけられたら感動しますよそりゃ。演出として完璧だ、本当に。演奏後、間髪入れず惜しみない拍手を送る明日ちゃんのカットのカタルシスったら、そりゃあたまらんですよ。
ふぅ…そろそろ『ぼっち・ざ・ろっく!』にいってもらっていいすか。
1話冒頭、ぼっちちゃんの押し入れでのインプロヴィゼーション (即興弾き) のカットを見てみよう。
押し入れのカット
アニメーション、ここまで来たのか…。
『けいおん!』にもチョーキングの描写はあったが、TVアニメで、こんな一連のフレーズ中のチョーキングが描写されたのはこれが初だろう。しかもど正面で、こんな寄りの画でだ。しかもチョーキングに伴うギター本体の揺れまで自然に描かれている!
こんな一瞬のカット (だからこそ) に込める執念が凄まじい。
てかぼっちちゃんしれっとタッピング (ライトハンド奏法) 混ぜててワロタ。
さらに、この後押し入れの中に再びカメラが戻るカット。
アップの時は左手の動きに注目したが、当然右手もキッチリ描写されている。
このカット。ローポジション (ここでの左手の位置のこと) でピッキングした時にギターの音がいっそう甲高い音 (ピュィィィン?みたいな) になったことがわかるだろうか。これはピッキングハーモニクスといって、音を歪ませたエレキならではの奏法だ (アコギでもできんことはない)。
弦をピッキングした瞬間とほぼ同時に親指側面を一瞬軽く触れると、そのフレットでの倍音だけが強調され甲高い音となる。エレキギターはそれを歪ませることで、強調された高音を出すことができる。ぶっちゃけ僕はアコギばっかり弾いてるので、詳しい原理などの説明にはなっていないと思うが。
そこで2枚目の引き画。ぼっちちゃんの親指が弦と垂直に交差していることがお分かりだろうか。ピッキングハーモニクスは (これは個人差だが) 親指が弦に対して垂直になるようにピッキングすると鳴らしやすいのだ。ここまでこだわっているのを僕は見たことがない。
この後、プリングオフ (弦を指で引っ掻く) を駆使してスケール (音階) を降りていくフレーズがあるが、そこもちゃんと6弦の位置まで手が駆け上がっている。引きの画でもごまかさず、要所をしっかりと押さえている。
このように『ぼっち・ざ・ろっく!』には、『けいおん!』や『明日ちゃん』が積み上げてきた「ギター描写」の忰が詰まっている。
その他にもOPのリードギターのカットは、2音重ねのバッキングフレーズをさらっと描いているし、初ライブのシーンでは本来の実力を出せないぼっちちゃんが比較的難度の低い「オクターブ奏法」を中心とした演奏をしていて (ここもばっちり)、作画に整合性とストーリーを持たせている。
あと小ネタだが、押し入れで映ったオーディオIFはsteinbergのUR-24C (俺も使ってるから実質ぼっちちゃん)、DAWソフトはGarageBand。「風邪ひけ!」の時に映ってるアンプはYAMAHAのTHR-5。
特にIFとアンプは、お小遣いとお年玉を貯めれば (足りん分はバイト) なんとか手に届く範囲ですごい生々しい。
ギターのことばっかりに言及したが、普段のシーンでの演出もゴリゴリに良い。
ぼっちちゃんの「陰キャ・コミュ障」っぷりを最大限に際立たせる演出の数々。
3Dレイアウトのガチガチに整合性のとれた教室内に、虚しくひびく引き戸の音。
クラスメイトの数名がちらと反応し、すぐに会話に戻る感じ。
もうどうしようもない。
ただ正直、このアニメ化唯一の欠点というか、原作とのギャップなのだが、この (陰キャ) クオリティの高すぎる演出が、4コマ原作ではギャグで流せた部分に嫌な迫真性を持たせてしまっている。
僕はぼっちちゃんほど、挙動不審でもなければ、人と話すのが苦手というわけでもない。ただ、ぼっちちゃんがなんとか周りに取り入ろうとあくせくするほとんどに身に覚えがある (僕の高校時代は「陰キャ」ではなく「キョロ充」に近かった)。僕の試みは中途半端に成功したこともあって、後々の足枷にしかならなかったが。
でも、誰にだってあるはずだ。ぼっちちゃんのように好きな (ことをステータスにしたい) バンドの曲を校内放送にリクエストしたり、ギター背負って教室に入って一目置かれようとしたり、無理やりテンションを上げて全体のノリについていこうとしたり。こんなもん、特段に気にするようなことではない。誰でも通る道でそれこそ「あるある」として消費すればいいだけのことだ。
そういう「あるある」の距離感を原作では保てていたのだが、4コマのフレームを解き放たれ、演出の魔術によって再構築されたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の世界には、なにか他人事と処理できない後ろめたさを感じてしまう。原作では「ぼっちちゃん俺と同じでワロタwww」だったのが、アニメでは「ぼっちちゃん俺と同じでワロタ…わろた…」くらいの感情になってしまう。
2話のライブハウスのバックヤードの説明のシーンもそうだ。
やること多過ぎてあたふたとしてしまうぼっちちゃんに、僕は1週間で辞めたラーメン屋のバイトを思い出し、一瞬ヒェッ…となってしまった。
こういうオタク界隈にありがちなアンチ労働的な受容態度はちょっと苦手なところがあった (クソ田舎は虚無なので、働くのが割と楽しいのだ) のだが、こういうことをみんな思い出すからアニメの労働描写嫌なんだね。改めて家業のある家庭でよかったよかった。
ただ良い側面もある。
ぼっちちゃんが勇気を振り絞って客にジュースを出すシーン。
あそこは原作では4コマのオチに使われた変顔ギャグなのだが、アニメだとぼっちちゃんが「一歩踏み出した瞬間」にフォーカスが当たっており、しれっとエモいシーンになっている (客にジュース出しただけなのに)。
ただ、そこは天下(?)のClover Works。
『ぼっち・ざ・ろっく!』のもつ最大の持ち味もブラッシュアップすることによって、僕のような雑魚の杞憂はすぐさま打ち消される。
『ぼっち・ざ・ろっく!』の最大の魅力は、キャラクターの感情表現を誇張したデッサン崩壊だ。4コマのフレームの中では、どうしても小さくとどまってしまうそのダイナミズムを、アニメはフレームいっぱいにめちゃくちゃ強調して描き出すことで、珍妙なギャグが原作以上の破壊力をもって僕をぶん殴ってくる。
2話以降にそれは顕著だ。
この「顔面崩壊」をアニメで見たかったと言っても過言ではない。正味、ギターの描写は経験者だけが「おお!」となればいいのだ(だからこそ、手を抜かない姿勢に感動するのだが)。『ぼっち・ざ・ろっく!』はギャグ強めの4コマ漫画。原作は回を経るごとにギャグの量が増加し、キャラクターが狭いコマの中でめいっぱい暴れ回る姿を僕は楽しんでいた。そんなキャラクターが、「動く」というアニメーションの快感原則を最大限活用して、アニメ世界のなかに実に潑剌と息づいている。
3話もよかった。
ぼっちちゃんの主線を筆ペンで描いたようにざっくばらんに強調。顔のパーツが輪郭のなかで踊っている。
ここも良い。
パースきつめの廊下を、昭和ギャグ表現のぐるぐる走りで、奥から手前にむかってびゅーん!と走り去る。
正直、『ぼっち・ざ・ろっく!』のような写実的な空間自体は好みではない。
演出意図があってのことなら構わないが、ただ画面の情報量や整合性を担保するために描かれた (ように感じる) 空間は見ていて窮屈だ。近年の「高クオリティアニメ」の写実主義に辟易するのはそれが理由。早計かもしれないが、この傾向に関しては、レンズの効果を意識したレイアウトシステムを考案した押井守のせいなんじゃねぇかと。本人は「コピーだけで済ましたやつが大勢いる」とか言ってるけど。
ともかく僕は動きにしても空間にしても、厳密な整合性より、それが気持ちいいかどうかの感覚を重視してほしい。その辺は宮崎駿派か?。
しかし、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』はキャラクターがそんな整合性の取れた空間の中を「そんなもん知るか!」と言わんばかりに縦横無尽に暴れ回る。これが妙なコントラストと開放感を生んで実に痛快だ。
4話はギャグ演出に拍車がかかって、やりたい放題で大変良い。
特にお気に入りのあのコマの演出が素晴らしかった。
コミック絵にして動かすの神采配すぎる。
ここはどうしてもキメてほしかったから、大満足。
マジでいいアニメ化だ。
5話以降もどんどん暴れてほしい。
1位 『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』1〜4話 (絶対継続)
期待に存分に応えてくれた『ぼっち・ざ・ろっく!』を抑えてのまさかの1位。
ダークホースすぎる。キービジュからあからさまに「日常系」って分かるアニメは箸休め程度にしか思ってなかったし、『ゆるキャン△』みたいな虚無アニメかもしれんとタカを括って見たらぶったまげた。
なんだこのアニメ!?
アニメーションの気持ちいいツボをどすどす突いてくるやんけ!!
この出来でなんでこんな小規模展開なんだ???放送局が限定的すぎる。ニコニコプレミアム会員だったことを今までで一番感謝したかもしれん。
全体の枚数的には今季の他タイトルたちに比べたら、そこまで使っていないのに、動作のポイント配置がいいのかめちゃくちゃ動いているように見える。リミテッドアニメの省略によって生まれるメリハリと、たまに枚数を割いて気合の入ったカットをぶち込む緩急がよすぎて、ずーっと見ていられる。あと、コンテがすごく親切。映像の繋ぎが分かりやすくて見やすい。
なによりもレイアウトだ。『チェンソーマン』や『ぼざろ』が、ガチガチに空間的制約を重視したレイアウトだとしたら、『DIY』はキャラクターの動きが一番映える設計に比重を置いている (気がする)。
押井守が何かにつけ (主にジブリをボロカス言う時) レイアウトレイアウト言うから、へぇへぇそういうのは細田守が最強だよなって思ってたけど、この『DIY』の画面作りが一番好きかもしれない。いや、押井守とか細田守は映画のスクリーンサイズを前提としたレイアウト設計だから、比較対象にはならんか?
まぁとにかく、『DIY』はキャラクターがここに立って、次にここに動いてこれをして…が無茶苦茶僕のツボを押さえてくる。『ワンエグ』の時にも感じた「配置萌え」がこの『DIY』は5秒に1回くらいぶち込まれるから、もう食い入るように見てしまう。「癒し」とか言ってる場合じゃない。
4話が今の所ベスト回 (ぼざろスタッフおるやんけ) 。
くっそいいレイアウトばっかで見応えがえげつない。
仰向け→跳ね起きるを、真横 (若干ローアン) から一気に見上げる構図へのダイナミックな転換で見せる。
カメラはオーバーに動かさずだいたいfixかゆったりしたPAN振り中心で、あくまで「動きを見せる」ことに集中。細かい所作もリアル寄りにヌルヌル動かしているわけではなく、生理的に気持ちいい適度なデフォルメを効かせたうえで、破綻なく描いている。
ここも一瞬のカットでパッと起き上がるが、重心が一度床に押さえつけられるポイントを描いているから、不自然に見えない。デフォルメと整合性のバランス感覚が凄まじすぎる。
驚異の自転車アオリカット。ここおそらくロトスコープなんだろうけど、背景動画で自然に馴染ませてるから違和感がない。
作画オタクの方のツイートを拝借。
このカット完全に不意打ちだった上に、あまりに良過ぎて泣いた (涙腺が固いので涙は出ない)。
『ぼっち・ざ・ろっく!』はひたすら手数で圧してくるファイターなのでなにがしかがくることをある程度予測できるが、『DIY』はジャブで出方を伺い、ボディで足をじわじわと奪い、突然見えない角度からのフィニッシュブローをぶち込んでくる策士なのでマジで戦々恐々としてしまう。突然神カットを挟まないでくれ。
キャラデザもいい。
線の省略と配色がめちゃくちゃ好きだ。
主人公せるふの半だしのシャツ。
線でシワや境界をはっきりさせず、ベターと大胆に塗ってしまう。
良い。めちゃくちゃ良い。線も配色も凝り過ぎて、画面の情報量が飽和しがちな現代アニメで、ここまで堂々とした省略は珍しい。
水彩タッチの背景も良い。
写実的背景だとどうしてもキャラが「浮いて」、結局平面的な絵でしかないことを意識させられるのでどうにも苦手だ。情報量優先の画面より、これくらいキャラと背景の抽象度を合わせてくれた方が好みだし、なにより見やすい。
題材のDIYに関してはあんまり興味ないので、何を作っても、作らなくてもいい (本棚くらい作れいうツッコミは同意)。画がよくてそれだけで大満足。『ワンエグ』以来かもしれん。
地味にじわじわくるのが、主人公家庭で犬、猫、豚を飼ってて、夕食に毎回豚肉出てくるとこ。
僕の思うガチヒューマニズムが体現されていて味わい深い。可愛がる個体と、殺して食う個体の併存。人間至上主義の地平がここに。
一個引っかかることがあって、それは主人公せるふの人物造形。
これはあんまり考えたくないし、安易にそういう属性と結びつけるのが非常に嫌なんだが、せるふが重度の不注意型ADHDにどうしても見えてしまう。
僕も車を運転してはいけないレベルの不注意型ADHD (自転車でふと意識が明後日に逸れて電柱に激突とかザラにあったし、高校時代の自転車通学で3回事故った) なので、セルフのドジっ子行動が割と見ていてぞわぞわする。
彫刻刀で怪我する場面とか、ポップに表現してたけど『チェンソーマン』よりもグロかった。あとインパクトの持ち方〜!!怖すぎる。
ど天然で卑屈にならない性格が、かろうじてせるふを「ドジっ子」属性に仕立てているが…。
19で診断 (wais-lllテスト) を受けるまでずーっと自分のことを健常者だと思っていたし、なんなら今でも大したことない (紛失癖と無意識の多動癖は気をつけている。短期記憶はもうどうしようもない) と思ってるからあんまり自分がADHDだという自覚がないんだが、まるで写し鏡のようなサンプルをまさかアニメで提示されるとは思わなかった…。
自転車のよろめきかたとか、段差を踏み外す感じとか、集中力の散逸感とか、デフォルメを貫通して嫌に生々しい…。あんなふうに見えているのか普段の俺は。
さて、現段階での評価はこんな感じ。
11月で変動はあるのか楽しみだ。