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修復家になるために vol.1

私は、浪人をしていた19歳の時に、美術作品の修復家という職業があることを知りました。教えてくださったのは、当時、東京の予備校で講師をされていた上田高弘先生でした。アーティストになることには多少の憧れはありましたが、私にとってはあまり現実的ではなく、美術作品を修復する仕事であればなんとか自分でもやれるのではないか、と思いました。以後、修復家になることを目標に定めました。

美術作品の中でも、とくに油彩画の歴史や修復に興味がありましたが、油彩画専門の修復家になるための学校(大学の学部や専門学校)は当時国内にはなく、海外で修復を学んできた方に弟子入りするか、海外に留学して修復を学べる学校や工房に入るしか選択肢はありませんでした。ですが、東京芸術大学の大学院に油彩画の修復を教えるコースができたことを知り、遠回りになってしまいますが、まずは国内の美術学校に入り、卒業後に芸大の大学院を目指すことにしました。その翌年の春から、生まれ故郷に近い金沢美術工芸大学の芸術学コースに入ることになりました。

金沢美大では、油彩画の修復家になるために必要な知識を積極的に学びました。早い段階から、絵画組成の研究者でもある寺田栄次郎先生に絵画下地の方法を教えていただき、絵画組成の実習室や下宿において、西洋画の伝統的な下地の再現を幾度となく試みました。この経験が後の自身の研究に大きな影響を及ぼすことになります。

大学3年次、卒業論文のテーマを決めるに際し、寺田先生にご相談したところ、テオドール・テュルケ・ド・マイエルン

の手記を翻訳してみないか、とご提案いただきました。この手記は、医師および化学者であったド・マイエルンが当時、ルーベンスやイングランドの宮廷画家であったヴァン・ダイクらと交流し、彼らの絵画材料や技法について記したものでした。寺田先生はすでにエルンスト・ベルガーによるドイツ語版の訳出を進められており、私もドイツ語版をベースに、古フランス語版を参照しながら手記の訳を行い、それをもとに当時(17世紀)のフランドル&イギリスの油彩画技法を研究することにしました。最初は訳出に大変苦労しましたが、次第に使用されている語彙が案外少ないことに気がつき、その後は比較的スムーズに訳すことができました。ですが、突如として専門的な化学用語が出てくるので、化学が苦手な私にはそれを理解するするのに苦労しました。
卒業論文を仕上げるためにさまざまな困難がありましたが、最終的には論文買上となり、とても嬉しかったことを覚えています。

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