摂食障害。非嘔吐過食。
私の摂食障害について、ただつらつらと書いていこうと思う。
症状が1番酷かった時期に比べて、今は少し落ち着いているからこそ、書けること。
(※専門的な知識があるわけではないので、間違ったことを言っている可能性があります。あくまで、摂食障害と診断された1人の人間が捉えている摂食障害と、経験である、という認識をしていただけると嬉しいです。)
私の摂食障害は、非嘔吐過食。
発症したきっかけは、よくわからない。
はじめは、ただなんとなく“最近なんか食べ過ぎてるなぁ”と思うだけだった。
徐々に、“食事の終えどきがわからない”という謎の感覚が出てくるようになり、
気付いたら、“苦しくて仕方がなくてもう食べたくないのに、食べてしまう”状態になっていた。
あの時期は、毎日毎日、スマホを触る時間さえあれば、Googleに「摂食障害」「非嘔吐過食」と入れて検索して、出てきた記事を片っ端から読み漁っていた。YouTubeを観る時間さえあれば、同じように検索して、出てきた動画を見漁っていた。
私の調べていた感覚的に、非嘔吐過食についての情報は、かなり少ない。きっと全体の患者数に比例しているのだと思うけれど、「摂食障害」を調べると、ほとんど「拒食症」についての情報が出てくるし、「過食」を調べても、「過食嘔吐」や「拒食症の経過の中にある過食(過食嘔吐も非嘔吐過食も含む)」が出てくる。
その影響で、「自己誘発嘔吐をしていないということは、病気ではないということか?」という思考をしていた。
だから、調べまくることで、私がしていることは、“暴飲暴食ではなく、過食だ”という根拠や確証を見つけようとしていたんだと思う。
“過食はあくまで病気だ”と、そして、病気になった原因は、“私の弱さや努力不足ではなく、生育歴や親子関係にある”と、誰かに言ってほしかった。
そしてなにより、私自身が、心の底から、そうだと認めたかった。
同じような症状の人を見つけて、“私だけじゃない”という安心を求めていたのと、“私だけじゃない”ことで“過食は誰にでも起こりうる、病気なんだ”と思うことができていた。
あの頃は、毎日ずっと“食べること”について考えていた。
「今日はあれ食べたい」「今日はあれの気分」とか「絶対あれを買って帰るんだ」とか。
でもほとんどは、「今日こそ過食しない」「今日こそ食べない、食べたくない」「今日こそ普通の量で食べるのをやめる」
毎日毎日、今日こそは、今日こそは、今日こそは絶対、、、と。
一日中、脳内を“食べること”に占拠されていた。
ほとんど毎日のように、仕事帰りにお店に寄って、大量の食べ物を買って帰った。
日中に、いくら「今日こそは食べない」と誓おうが、帰りの電車に乗っている時点で、過食スイッチがONになる。ONの状態では、自分の理性は働かず、コントロール不能。過食することしか頭にない状態になって、夢中で、ワクワクしながら買い物をする。買い物後は、ウキウキしながら小走りで家に帰っていた。
そして家に着いた瞬間、買ってきたものたちをあけて、一気に口に入れる。
あんなにワクワクウキウキしていたのに、食べ始めたら、無。
「食べたい」と思って買ったものでも、大好物でも、“美味しい”なんて1ミリも感じない。YouTubeを観ながら食べていても、食べることに夢中になりすぎて、内容なんて入ってこないし、動画が終わっていることにも気付かない。
だんだん胃が苦しくなってくる。もういい、もういらない、もう入らない、と思いながらも、食べ物を口に入れる手は止められない。
そしてとある瞬間急に、スイッチがOFFになるときがくる。OFFになって食べるのをやめたその瞬間から、罪悪感が襲ってくる。
「あぁまたやってしまった」「またここまで食べてしまった」「なんでまたこうなるの?」「なんでやめられないの?」
なんで?なんで?なんで?
「私の意志が弱いからだ」「私の決意が弱いからだ」「自己コントロール力が足りないせいだ」
「私はいつもこう」「私は何をやっても上手くいかない」「自己コントロールができないどうしようもない奴だ」「自分の欲求さえも制御できないクズだ」「全部自分のせいだ」
過食した後は、苦しくて、横になって休むことしかできない。
やるべきこともやりたいことも、何もできず、ただ罪悪感に包まれながら、胃の苦しさと吐き気と戦いながら、眠りにつく。
過食した日の夜中は、何度も目が覚める。
腹痛で目が覚める。
吐き気で目が覚める。
下痢で目が覚める。
真夜中にトイレにこもる。
「私なにやってんだろ」と自分に呆れる。
そして、「明日こそ食べない」と泣きながら誓う。
過食した次の日は、一日中苦しい。
腹痛、腹部膨満感、吐き気、下痢、ときに便秘。そして、全身倦怠感。それらの身体症状と戦いながら、一日仕事をする。仕事をしながら、「こんなに苦しいの、こんなに辛いの、もう嫌だ。だから今日こそ絶対食べない」と誓う。
それでも帰りになれば、また過食スイッチはONになる。
たまに、過食スイッチがONになりきらず、真っ直ぐ家に帰れることもあった。「今日は買い物行かずに帰ってこれた!」と思ったのも束の間、その日のうちにスイッチがONになり、買い物にでかけてしまう。わざわざ着替えてまで、でかけてしまう。そして結果、過食する。
そんな日々の、繰り返しだった。
過食で食べるものは、日によってバラバラ。
スーパーのお弁当、お惣菜、菓子パン、お菓子、ゼリー類、アイス、自分で炊いたご飯、自分で茹でた麺類、マック、ミスド、、、
色んな食べ物を色んな組み合わせで、食べた。
一例に過ぎないが、1回の過食で、
お弁当3つ、お惣菜3人分くらい、3連になっているゼリー類2セット、大袋のお菓子5袋、ドーナツ7個、アイス5個
とかだった。(本当にあくまで一例)
買い物に行かず、家にあるもので過食することもあった。
冷凍保存するために炊いた3合のお米は、過食スイッチがONになれば、全て胃に入ってしまう。作り置きしたはずのおかずも、過食スイッチがONになれば、一瞬でなくなる。
そして、大量のパスタを茹でたり、ツナ缶やコーン缶を大量にあけて、そのまま食べるのなんかは全然ましで、茹でる前のパスタなどの乾麺や、マヨネーズやケチャップなどの調味料を、そのまま口に入れることもあった。
過食は、“食べる”行為ではない。
“口に詰める”“胃に詰める”行為。
だから、口に入れて飲み込むことさえできたら、なんでもよかったんだと思う。
過食中は理性が働いていないから、“と思う”という表現を使わざるを得ない。
過食になって、
作り置きや安いときの買いだめが、できなくなった。過食スイッチがONになった瞬間、なくなってしまうから。
過食になって、
食べ物を“味わう”ことが、よくわからなくなった。
“食べること”の楽しみが、全くなくなってしまった。
過食になって、食費での出費がめちゃくちゃ増えた。どんどんお金は出ていった。
ついでに、体重も増えた。
発症から3か月くらいのときに7キロ増えているのを確認して以降、測っていない。
本当に、苦しかった。
早く、抜け出したかった。
とにかく、過食をやめたかった。
抜け出すために、過食をやめる方法をひたすら調べて、できることは全て試してきた。
精神科の先生と相談して、薬を試した。
「体重を気にすることがストレスになって悪化するから、体重は測らない方がいい」というのを読んで、測るのをやめた。
「過食しなかった日はめいっぱい自分を褒めよう」みたいなのを読んで、やってみた。
「好きな食べ物を思う存分食べて、満足しよう」みたいなのを読んで、過食スイッチがOFFのときに、大好物を思う存分食べる時間を作ってみたりした。
「人と一緒にご飯を食べよう。人といる時は過食しないはず」みたいなのを読んで、できる限り友達をご飯に誘うようにした。
「過食を気にすれば気にするほど悪化するから、気にしないのが1番」みたいなのを読んで、気にしないようにしようとしてみた。
「いつか終わる時はくる。今どうにかしようとしても良くならなくて、自然に終わる時を待つしかない。」みたいなのを読んで、
「え?今全部試してるのって無意味ってこと?いつ終わるかわからない中、苦しみ続けろって?」と、絶望した。
「ていうかほんとに終わるときくるの?」と、苦しみの真っ只中、自然に終わりがくるなんて、思えるわけがなかった。
どうしたらいいのか、わからなかった。
薬は、効果がなかった。
体重を気にした結果で過食症になったわけではなかったから、体重を測らないことは、何も意味をなさなかった。
過食しなかった自分を、心の底から褒めることなんて、できるわけなかった。
どれだけ好きなものを食べようが、過食スイッチがONになるときはなるし、ならないときはならない、なにも影響がなかった。
人とご飯を食べているときは、たしかに過食することはなかった。
ただ、友達と美味しく楽しくご飯を食べて帰ってきてから、過食スイッチがONになり過食することもあり、その過食後の罪悪感は、普段より圧倒的に強いものだった。過食したせいで胃が限界を迎えて吐いてしまうこともあり、せっかく友達が時間を作ってくれて、楽しくご飯を食べられたのに、それを吐いてしまったという罪悪感と、悲しさ、悔しさ、怒りで、押しつぶされた。
過食を気にしないなんて、できるわけなかった。
それと、一時的な身体的な苦しみの解放を求めて、自己誘発嘔吐と下剤の乱用を試したこともある。腹痛や腹部膨満感などの身体症状が苦しすぎて、それが少しでも楽になれば、という一心で、良くないとわかっていて試した。何度か、喉の奥にスプーンを突っ込んで吐いた。何度か、指定量より多い下剤を服用した。けれど、両方とも、自分の理想の結果が出ず、労力に対して得られる結果が少なすぎて、コスパ悪いなと思って、やめた。
これらは、自己コントロールの中での行動だった。
“色々試しているのに、良くならない”という現実が、辛さを増幅させた。
ただ、今の私は、ピークに比べて、少し症状が落ち着いてはいる。
試したことが効果があった実感は、正直ない。
無意味だったとは思わないけれど、なぜピークを脱することができたのかは、わからない。
そして、“良くなっている”のかもわからない。
ただ、今ピークよりはましなだけで、また今後あの時くらいに苦しい時期がくるかもしれないし、もっと悪化することもあるかもしれない、と思っている。
だから、私は、
今、苦しみの真っ只中にいる人に
「絶対良くなるよ」「必ず治るよ」なんて言えない。
「これをするとましになるよ」なんて提案も、できない。
ただ、どうしても、伝えたいことがある。
今、苦しくて苦しくて仕方がない方が、読んでくださっているとしたら。
今、苦しみの真っ只中にいる方が、読んでくださっているとしたら。
どうしても、伝えたいことがある。
「あなたが苦しいと感じているのなら、それは、苦しんだよ」と。
「苦しいと思っていいし、苦しいと言っていいんだよ」と。
私は、苦しみの真っ只中にいるとき、自分で、苦しいことを“苦しい”と認めてあげられなかった。
ネット上には、
私よりたくさんの量を過食している人がいて、私より日常生活に影響を及ぼしている人がいて、私より体重が増えている人がいて、私より長期間苦しんでいる人がいて、過食後に色んな方法で排出している人がいて、それにも苦しんでいる人がいる。
ネット上には、「過食だけより、自己誘発嘔吐をする方が予後が悪い。つまり、過食嘔吐の方が重症度が高い」と書いてあるものもある。
それらを見て、私は、
「自分の苦しみなんて、たいしたことないんだ」「こんなのまだ軽症なんだ」「こんなレベルで、苦しいとか思っちゃダメなんだ」「こんなんで、苦しいとかほざいてちゃダメなんだ」と思っていた。
でも、それは、違う。
絶対に、違う。
実際は、そうなのかもしれない。
医学的には、統計的には、そうなのかもしれない。
そうだとしても。そうだったとしても。
だとしても、
“苦しい”と感じていることが、否定されてはいけない。
“苦しい”と感じていることが、なかったことにされてはいけない。
統計学とかじゃないし、誰かと比べる必要なんて全くなくて、一人の人間だから。
私という、一人の人間だから。
私の、大切な感情だから。
あなたという、一人の人間だから。
あなたの、大切な大切な感情だから。
“苦しい”と感じているのなら、それは、苦しいんだよ。
“苦しい”と感じたなら、苦しいと思っていいし、苦しいと言っていい。
私はあの時、本当に苦しかった。
めちゃくちゃめちゃくちゃ苦しかった。
“苦しかった”と過去形で表現しているが、今が苦しくないわけじゃない。
摂食障害は、治っていない。
今でも、過食スイッチがONになるときはあるし、身体症状に苦しみながら仕事をする日だってある。友達とご飯に行って帰ってきてから過食して、吐いてしまって、泣きながら絶望することだってある。
今は、過食スイッチがONになりきらない、“過食気味”のような状態が多く、食生活がぐちゃぐちゃなのが当たり前の日常のようになっている。
元々食生活が整っていたタイプではないけれど、摂食障害になってから、なる前にはなかった“コントロール不能な感覚”が常にあって、食生活に関しては、自分の意思ではなく、なにかに操られている感覚が、ずっとある。
摂食障害になる前は、“食事”“食べること”に関して、本当に人並みかそれ以下くらいしか、関心や興味がなく、意識が向いていなかった。それが、今は、色んな面で、色んな方向から、色んな角度から、“食事”“食べること”に関して、敏感になりすぎてしまっている。
あの時は苦しかった。
し、今も、苦しい。
治る保証もない。
1番酷かったときよりも、もっと悪化する可能性だってある。
一生付き合っていかなきゃいけないかもしれない。
いつ過食スイッチがONになるかわからないのは、こわい。
いつ悪化するかわからないのは、こわい。
過食になった具体的な原因も、対処法も、なにもかもわからないのも、こわい。
そして、苦しくてたまらない。
それでも、日々は続いていく。
その中で、生きていくしかない。
覚悟だってできてない。
受け入れられるほど、強くない。
上手に付き合っていこう、だなんて、思えていない。
けれど、
ちゃんと“苦しい”と思いながら、苦しみながら生きていく。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。