優しさは瞬発力。
電車が来るまであと数分。駅のベンチに腰掛け、ぼんやりしていたそのとき。
「あ!」と小さな声が聞こえたかと思うと、タッパーに入っていたらしいスナック菓子がぱらぱらと床に散らばった。
どうやら隣のベンチに座っていた3歳くらいの女の子が盛大にお菓子をこぼしてしまったみたいだ。
そばにいたお母さんは、叱るでも責めるでもなく、
「もったいないね〜、でも仕方ないね〜。」
なんて言いながらお菓子を拾い集めた。
女の子は
「食べる…。」
と切なげにつぶやき、お母さんは
「地面は汚いからね。これは食べれないよ。残念やったね。またおうちに帰って食べよう。」
と女の子を慰めた。
泣くかな、ちょっとぐずるかな。
食べたかっただろうにかわいそうに…そう思いながら、わたしは女の子をそっと盗み見る。
けれど、女の子はぐずることなく口をちょっとへの字にしてまゆ根を寄せていた。
まだ「食べたかった…。」と言いつつ、泣いたり大きな声を出したりせず、その気持ちをぐっとこらえてぶーくれてる女の子の顔見てると、我慢してえらいね、となんだか微笑ましい気持ちになった。
そういえば…と持っていたリュックを漁る。
わたしは普段、よくお菓子を持ち歩いているので何か鞄にあるかもしれない。予想通り、個包装されたクッキーがリュックのポケットから出てきた。
「よかったらこれ、食べますか?」
そう声をかけてみようか。
でも…と踏みとどまる。
見ず知らずの人に食べ物をもらうのは抵抗があるかもしれない。何か食物アレルギーがあるかもしれない。
そうぐるぐると逡巡しているうちに電車がホームに来てしまい、その親子に声をかけるタイミングを失ってしまった。
声をかけて、このクッキーをあげれていたらもしかしたら、ぱっと花咲く可愛いらしい笑顔が見れたかもしれない。
最近、体重が増加気味だし私が食べるよりもきっとこのお菓子も、この子に食べてもらったほうがよかったに決まっている。
たとえ、断られたとしても声だけでもかければよかったな、と胸にぽつんと残る小さな後悔。
思い返してみれば、わたしにはこんなことが多い気がする。
街中や職場の誰かに対して、こうしたらいいかなぁと思うことがあっても、
今このタイミングで声をかけてもいいのか?
かえって迷惑じゃないだろうか?
などと色々考えた結果、声をかけるタイミングを逃してしまうことが、度々あった。
頭の中で考えているだけでは、相手に何も伝わらず、何も変わらない。
これまで、周りの人や見ず知らずの人、数多の人の小さな優しさに、わたしはたくさん助けられてきた。
差し出された優しさの中には勇気を出して、声をかけてくれた人がいたからこそ成り立ったものも多いんだろう。
咄嗟の優しさは瞬発力だ。
次、周りの人が何か困っている状況があったら、心の中にぽっと芽生えた思いやりや優しさをすぐに表に出せるようになりたいなあ。
たとえその人が、それを受け取らないという選択をしたとしても。
そう思いながら、さっき渡しそびれたクッキーを、もそもそ咀嚼している今である。