入試当日、警察に駆け込んだ話。
ここ最近、より一層頬に当たる風が冷たくなった。駅まで歩く道中、少しでも風にふきさらされる面積を小さくしようと、首を縮めて歩く。家に置いてけぼりにしてしまったギンガムチェックのマフラーが恋しい。
電車の中で隣に座った高校生は、ぎっしり書き込んだノートを真剣に見つめている。その瞳の熱から察するに、受験生かもしれない。
かつてわたしも受験生と呼ばれていた十数年前、忘れがたい出来事があった。
*****
「どこ、ここ…」
住宅街のど真ん中で、わたしは途方に暮れていた。
今思えば大学への行き方を妹にメモしてもらったこと自体が、間違いだった。
大学入試前日の夜、妹はわたしに、
「最後、もうちょっと勉強しとき、私が行き方、調べといてあげるわ。」
と気遣いを見せ、パソコンで調べてメモをとった。
翌日受験する予定の大学は、京都にある私立大学。国公立の大学が第一志望だったわたしがいわゆる、「滑り止め」として受けたところの1つだった。
何度も過去問を解き、模試の判定でも十分な合格圏内だったその大学。よっぽどのことがない限り、合格できるはず。緊張してはいたもののそう自信を胸に、当日の朝は比較的穏やかな気持ちだったように思う。
…この後、待ち受ける悲劇も知らずに。
電車やバスを乗り継ぎ、試験会場である大学へ向かう。書いてくれた行き方へのメモをたまに確認しながら、電車からバスに乗り換えた。
あれ、と違和感を感じたのはバス停を降りて少し歩き出した時だった。
近くに大学があるとは到底思えない。住宅街ど真ん中。京都に馴染みのある方、行ったことがある方は、ご存知だと思うけれど、京都の町は綺麗な碁盤の目になっている。
◯◯△条、ん?
ちょっと似ていた地名だけど違う!
あ、やらかした、と思った。
恐らく妹が書いたことは正しかったのだろう。聞き慣れない駅名に、わたしは早とちりし、似た名前の駅が表示されたバスに乗り込んだのだ。
きちんと、自分で調べて確認していれば良かった。
すっと血の気が引き、心臓の音が早鐘のごとくうるさい。ここから、大学まで一体どう行けばいいんだろう。
住宅街と言うこともあり、人通りはほとんどなく、目印になるような大きな建物もない。目の前を大きなリュックを背負った碧眼、そして白に近い金髪のポニーテールのお姉さんが通り過ぎた。
十中八九知らないだろうなぁと思いながらも、他に聞ける人がいなかったので、藁にも縋る思いで、海外からの旅行者であろう彼女に道順を聞くことにした。
「Do You know how to go to the ○○Univercity?」
瞳に困惑の色が浮かぶのが見てとれた。
わたしの発音が悪かったのかも!
もう一度聞いてみ…
「No,sorry」
そりゃそうだ。がっくり肩を落とす。見所てんこ盛りの古い建造物が数多ある京都に来て、わざわざちょっとばかり古い校舎は見にゆかないだろう。
縋った藁、風の前の塵に同じ…。
お礼を言ってその場を後にし、別の藁を求めてともかく大通りに向かって歩き出した。
すると、建物の前に何台か並んだパトカーが目に入った。
…警察署だ!!
警察官って、困った人を助けてくれるんでしょう、ねえそうでしょう…!!?
藁どころか、極太ロープくらいの頼もしさがある。
今なら携帯で、現在地を調べてどう行けばいいのか考えると言うことをしたのだろうけれど、
当時持っていたのはガラケー。Google mapも今ほど性能が良くなかった。
きっと警察官なら道も分かるはず!人生初、警察署に足を踏み入れた。
窓口にいたのは、ちょっといかついおっちゃん警察官。肌が浅黒くて目力がすごい。
かの有名な童謡に出てくるのは犬だけど、どちらかというとゴリラ。
「おおん?」とすごまれでもしたら、泣いちゃう。悪いことはしてないんだもの、ちょっとやらかしてしまっただけで…!
必死に事情を説明した。
話を聞くと、ここから大学の最寄り駅は結構遠いことがわかった。バス停もあるにはあるらしいが、待ち時間も考えると、バスを選択するのはリスキーだ。
「近くにタクシーが止まってるからタクシーで行けばええわ」
そう親切に教えてくれたおっちゃん警察官。
「あんた、お金は持っとるんか?」
財布の中身を思い出す。帰りの交通費と何かあったときのための余分の数千円。高校生なのでもちろんクレジットカードの類は持っていないし、当時Pay Pay的な便利なものもない。
今がまさに「何かあったとき」そのものだけど、財布の中身は、トータル3000円ちょっとしか入っていない。しかし、大学までタクシーでいくらかかるかは想像もつかない。
「3000円ちょっとならあります」
そう言ったわたしの表情から、不安な気持ちがこれでもかと言うくらい伝わったんだろう。
「お金貸したるわ。」
そう言って警察のおっちゃんは3000円をわたしに握らせた。
なんて、ええ人…!
ゴリラっぽいとか思ってごめんなさい!
やっぱり警察官は街の人、いやあほな高校生も助けてくれるヒーローだった。
お礼を言ってタクシー乗り場まで走る。
「〇〇大学までお願いします。」
乗り込むやいなや、早口でそう告げた。
社会人になってからは、旅先等でタクシーに乗る機会もしばしばあったが、当時タクシーを利用することはそうなかった。タクシーに乗ったのは、おそらく人生で3回くらい、そして1人で乗ったのはこの日が人生で初めてだった。
警察署に入ったことといい、今日は人生初を2つも更新してしまった、なんて思いながら腕時計に目を落とす。
試験開始時刻まであと30分を切っている…!
間に合わなければどうしよう。
途中からでも試験を受けることはできるのだろうか。
もし無理だったら、受験料が丸々無駄になるんだろうか。無駄になったら親に申し訳ないなあ。
そもそも後期に別の日程でもまた受け直せるのだろうか。
もっと確認しておけば…。
様々なことがせわしなく脳内を駆け巡る。
ただただ間に合え、間に合え、と強く念じながら流れていく景色を睨んだ。
大学前に到着。時刻は試験開始15分前。
間に合ったと言う安堵と試験会場の部屋までたどり着くまで安心できない、という焦り。
当然のごとく、もう受験生は誰も大学前にいない。門にいた係員の人に受験会場部屋までの道のりを聞き、走った。
会場部屋の扉を開け、肩で息をするわたし。開始時刻、5分前であった。直前に走り込んできたわたしに少し視線が集まった。走り込んで熱くなった身体に、さらに頬に熱が重なった。
椅子に腰を落ちつけても、アドレナリンが身体中を巡りに巡っている。最初の数分間は読んでいるはずの問題文が読むそばからつるつる滑り落ち、なかなか頭に入らなかった。
しかし、1時間目の試験科目であった国語は得意科目だったこともあり、問題文を読み進めるうちに、うるさかった心臓も徐々におさまってきた。
最初の科目が、日本語で良かった。
万全の状態でも、大体のノリで読んでいた英語の長文問題だとアラビア語並みに理解出来なかっただろう。
現代文も古文も出題された問題をさほど難しいと思わなかったことも幸いし、英語そして選択していた日本史もいつも通り落ち着いてできたように思う。
試験を終えて胸を撫で下ろし、帰りにお金を借りた警察に寄ろうと思った。結局タクシー代は自分が持ってきた3000円で充分事足りたから使わなかったのだ。
再び警察署の扉を開ける。
「間に合ったんかいな。」
朝対応してくれたゴリ…いやヒーロー警察官がまた対応してくれた。
丁重にお礼を伝え、3000円を返した。
「合格しとったらええね。その大学に通うことになったら、おもろいな。」
そう言ったおっちゃんの言葉には、曖昧に笑う。合格はしたいけれど、ここに通うと言うことは本命の大学に落ちたと言うことだ。それはちょっと避けたかった。
とっさに警察署に入るという、私の判断は正しかった。ピンチに陥ったとき、解決策が分からなくてパニックになる前に頼れそうな誰かの力を借りる。そんな大切さに改めて気づいた出来事だった。
しばらく経って、無事にその大学の合格通知が届いた。本命の大学に受かったので、その大学に通うことはなかったが、その名前を見かけるたびに、はらはらと切羽詰まったあのときの気持ちがありありとよみがえってきて、なんだかおかしくなる。
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明日はいよいよ、全国共通テスト。
これまでの頑張りを存分に発揮しようと、今頃武者震いをしている受験生も多いだろう。
全国の受験生のみなさん、焦らず試験に臨むためにも持ち物の確認、そして行き方の確認は念入りに…!